松下幸之助(4)


素直な心になりましょう




言葉は、人生をも変えうる力を持っています。
今回の名言は、「経営の神様」と呼ばれた松下幸之助の言葉です。
彼は「素直」ということの重要性を誰よりも説いた人物です。
その96年にわたる生涯にわたって、「素直な心になりましょう」と言い続けました。


素直な心になるために (PHP文庫)

素直な心になるために (PHP文庫)


東洋においては、「素」というものが重視されました。「素」は東洋の思想や学問や修行における根本要素の1つとされ、それは儒教でも道教でも仏教でも共通のことでした。
中国には「素を守る」「素を養う」「素行する」「素心を貴ぶ」などの表現があります。
「素」は今も元素・要素などに使用され、もと(元)とか、しろ(白)の意味え使われています。



論語』に「絵の事は素を後にす」とありますが、絵を描きあげるときに白粉で仕上げることを号にしたのが「素行」や「後素」です。素行は、大石内蔵助の師である山鹿素行で知られ、後素もあの大塩平八郎の号でした。ちなみに、山鹿素行大塩平八郎陽明学を代表する賢者です。昭和の陽明学者である安岡正篤によれば、結局、人間の美というものは、その人間の素、つまり生地にあるといいます。性質から言えば素地・素質にあり、これを磨き出すことが一番大切であると、安岡は強調しました。



絵画は、いろんな色彩の絵具を使うけれども、最後はやはり素、いかに生地を出すかということに苦心します。そのために白を使うのです。人間も同じことで、いろいろなものをつけ加えるのではなく、その人間の素質を生き生きと出すようにするのが重要です。とはいっても、持って生まれたものをそのまま醜くむき出しにするのではありません。美しく映えるように磨き出さなければならないのです。学問も教養も、修養も信仰も、すべて人間が持って生まれた素質を磨き出すのでなければなりません。そうでなければ、本物ではありません。またそうでなければ単なる作り物になって、その人間の良さが活きてこないのです。



「素」がそのまま表れることを「素直」といいます。
「素直」の重要性を誰よりも説いた人物こそ、松下幸之助でした。彼は、生涯「素直な心になりましょう。素直な心はあなたを強く正しく聡明にいたします」というメッセージを自身が主宰する「PHP」誌において発信し続けました。松下幸之助がいう「素直な心」とは、私心なく曇りのない心というか、1つのことにとらわれずに、物事をあるがままに見ようとする心です。



お互いが素直な心になれば、していいこと、してならないことの区別も明らかとなります。また正邪の判別も誤ることなく、何をすべきかも自ずからわかってくるというように、あらゆる物事に関して適時適切な判断のもとに力強い歩みができるようになってくるというのです。すなわち、本当の素直な心とは自然の理法に従うこと、この宇宙万物一切のものを貫いている理法にとらわれず従いつつ、こだわらずに考え、かたよらずに行動するということなのです。わたしは、松下幸之助が口癖にした「素直な心」「誠実」「熱意」の3つの言葉は、経営の神様が後世の人間のために残してくれた成功へのトライアングルではないかと思います。
なお、今回の松下幸之助の名言は『龍馬とカエサル』(三五館)にも登場します。


龍馬とカエサル―ハートフル・リーダーシップの研究

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2013年8月7日 佐久間庸和

稲盛和夫(2)


会計がわからなければ真の経営者になれない




言葉は、人生をも変えうる力を持っています。
今回の名言は、現代日本を代表する経営者である稲盛和夫氏の言葉です。
企業における数値は会計という部門に集約されますが、稲盛氏は「会計がわからなければ真の経営者になれない」と喝破しました。わたしはこの言葉を知ったとき、それまで会計に関心の薄かった自分を猛烈に恥じ、会計の本を読みまくりました。


稲盛和夫の実学―経営と会計

稲盛和夫の実学―経営と会計


稲盛氏は著書『稲盛和夫実学』(日本経済新聞社)において、会計の重要性を力説しています。わたしたちを取り巻く世界は一見複雑に見えますが、本来は原理原則にもとづいたシンプルなものが投影されて複雑に映し出されているものでしかありません。これは企業経営でも同じです。会計の分野では、複雑そうに見える会社経営の実態を数字によってきわめて単純に表現することによって、その本当の姿を映し出そうとしているのです。 



稲盛氏は言います。もし、経営を飛行機の操縦にたとえるならば、会計データは経営のコックピットにある計器盤に表示される数字に相当する。
計器は経営者たる機長に、刻々と変わる機体の高度、速度、姿勢、方向を正確かつ即時に示すことができなくてはならない。そのような計器盤がなければ、今どこを飛んでいるかわからないわけだから、まともな操縦などできない、と。



ですから、会計というものは、経営の結果を後から追いかけるだけのものであってはならないのです。いかに正確な決算処理がなされたとしても、遅すぎては何の手も打てなくなります。会計データは現在の経営状態をシンプルにまたリアルタイムで伝えるものでなければ、経営者にとって何の意味もないと、当世一の「経営通」と自他ともに認める稲盛氏は喝破します。
人は誰でも、自分の健康に関する数値データには敏感です。わたしも毎朝、体重と血圧を測ることを欠かしません。しかし、経営者たる者は、それ以上に自社の健康に関する諸々の数値データに最大の関心を示さなければなりません。人間でも会社でも、病に冒されたら、それは確実に数値データに表れます。数字は絶対にウソをつかないのです。



じつは、もうすぐ、わたしは某社の監査役に就任する予定です。
その会社は、じつに7000億円を超える多額のお金を扱っています。
当然ながら、その監査役になれば大きな責任が生じることになります。
これを機会に、もう一度、会計を勉強し直してみたいと思っています。
なお、今回の稲盛和夫氏の名言は『龍馬とカエサル』(三五館)にも登場します。


龍馬とカエサル―ハートフル・リーダーシップの研究

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2013年8月6日 佐久間庸和

ピタゴラス(1)


万物は数である




言葉は、人生をも変えうる力を持っています。
今回の名言は、古代ギリシャの数学者にして哲学者のピタゴラスの言葉です。
数学と聞いただけで嫌な顔をする人もいますが、数学ほど面白いものはありません。
関ケ原の合戦の翌年に生まれたフェルマーの最終定理が証明されたのは約360年後の1995年。有史以来で最高の数学者と評されるガウスが天才ぶりを発揮していたのは、江戸時代の謎の浮世絵師・写楽と同時期ですし、ピタゴラスユークリッドは紀元前の人物です。
受験勉強とは無縁の世界で遊んでみると、数学は俄然面白くなります。


ピタゴラスの定理―4000年の歴史

ピタゴラスの定理―4000年の歴史


ピタゴラスは、「万物は数である」という有名な言葉を残しています。
よく考えてみれば、あらゆるものは数字に置き換えられることに気づきます。
1人の人間は年齢、身長、体重、血圧、体脂肪、血糖値などで、国家だって人口、GDP、それから失業率などで表わされる。そしてもちろん企業も売上、原価、利益、株価といった諸々の数値がついてまわります。



わたしは、2001年に社長に就任しました。そのころ、アカデミー作品賞に輝いた「ビューティフル・マインド」という映画を観ました。
ノーベル賞を受賞した天才数学者ジョン・ナッシュの生涯を描いた作品ですが、これを観てから数学の魔力にとりつかれ、多くの数学書を読破した経験があります。
社長に就任したとき、わたしがまず決心したのが、「数字に強い社長になろう」ということでした。それまでは、数字というものをほとんど意識したことがありませんでしたし、高校のときから数学には苦手意識を持っていました。はっきりいって、数字には弱かったのです。しかし、社長になったことで、金融や経済のことを学び直す必要が出てきたのです。


数の悪魔―算数・数学が楽しくなる12夜

数の悪魔―算数・数学が楽しくなる12夜


そのとき、いきなり金融論や簿記の専門書に取りかかるよりもまず、数そのものを好きになるべきだと考えました。当時、『数の悪魔』(ハンス・マグヌス・エンツェンスベルガー著、 丘沢静也訳、晶文社)などの面白い数学本が多く出ており、それらを片っ端から読みました。
数学関係の分野を読み終えると、続いて会計の本へ。それから金融論からミクロ経済、マクロ経済を読んで、経済学、経営論へ。さらにそこからブーメランを描くように、哲学分野に戻ってくるまで、しばらくは徹底して金融・経済・経営を学びました。
いま、わたしは「万物は数であり、数ほど面白いものはない」と思っています。



ところで、ブログ「儀式創造シンポジウムのご案内」に書いたように、来る8月8日、一般社団法人・全日本冠婚葬祭互助協会(全互協)創立40周年記念シンポジウムが開催されます。テーマは、「新しい儀式文化の創造に向けて」です。わたしも同シンポジウムに出演するということで、ここ最近は「儀式」や「しきたり」のことばかり考えています。
考えてみると、人生の区切りとしての通過儀礼も数の世界です。七五三をはじめ、20の成人式、61の還暦、70の古希、77の喜寿と、長寿祝いは100の上寿まで続きます。
四十九日や十三回忌に代表される追善供養や年忌法要も数のオンパレードです。
人は死ぬまで、また死んだ後も数と関わってゆくのですね。
ピタゴラスの「万物は数である」にならえば、わたしは「人生は数である」と言いたいです。
なお、今回のピタゴラスの名言は『龍馬とカエサル』(三五館)にも登場します。


龍馬とカエサル―ハートフル・リーダーシップの研究

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2013年8月5日 佐久間庸和

石田梅岩(1)

正当な利益を取るのは商人の道である




言葉は、人生をも変えうる力を持っています。
今回の名言は、石門心学を開いた石田梅岩の言葉です。
梅岩は商人道徳を確立した人物として知られており、「正当な利益を取るのは商人の道である。利益を取らないのは商人の道ではない」という言葉を残しています。


石田梅岩のことば (サムライスピリット 4)

石田梅岩のことば (サムライスピリット 4)


利と義、つまり経済と道徳というものは両立する、と多くの先人たちが訴えてきました。
アリストテレスは「すべての商業は罪悪である」と言ったそうですが、商行為を詐欺の一種と見なすのは、古今東西を問わず、はるかに遠い昔からつい最近まで、あらゆるところに連綿と続いてきた考えだったのです。しかし、かの『国富論』の著者であり、近代経済学の生みの親でもあるアダム・スミスは、道徳と経済の一致を信じていました。
「神の見えざる手」というスミスの言葉はあまりにも有名ですが、彼は経済学者になる以前は道徳哲学者であり、『道徳感情論』という主著まであります。『論語』や『孟子』の西洋版をめざして書いたかのようなこの本を、スミス自身は世界的ベストセラーとなった『国富論』よりも重要視し、死の直前まで何度も改訂増補を加えました。
彼は、道徳と経済は両立すべきものであると死ぬまで信じ続けていたのです。


都鄙問答 (岩波文庫 青 11-1)

都鄙問答 (岩波文庫 青 11-1)


日本では、江戸時代に石田梅岩が現れて、「石門心学」を開きました。その集大成というべき主著『都鄙問答』には、ある人が「商人には貪欲の者が多く、利を貪ることを生業とする、これは詐欺にあらずや」と質問し、梅岩が答える場面が出てきます。梅岩は言います。商売の利益は、武士の俸禄に等しく、正当な利を得るのが商人の道である。これを詐欺というなら売買はできず、買う人は物に事欠いて、売る人は生活していけない。もし商人がみな農工を業とするなら、金銭を流通させる者がいなくなり、世の人々はみな困ってしまう。



士農工商の四民、いずれが欠けても、天下というものは成り立たない。商人の売買は天下のためなのだ。商人の利益は武士の俸禄、工人の作料、農民の年貢米を納めた残りの取り分とまったく変わらない。それをあなたは、売買の利ばかりを、欲心にて道なしと言い、商人を憎んで断絶しようとしている。なぜ、商人ばかりを賤しみ嫌うのか。日本においても中国においても、売買において利を得るのは、天下の定法である。定法の利を得て職分に努めれば、自然と社会の役に立つのである。それなのに、武士の士農工の収入については何も言わず、商人が収入を得るのを欲心と言い、道を知らない者というのはいかなることか。石門心学の教えは、商人には商人の道があることを教えるものである。



このように、現代から見ても梅岩の主張は見事なほどに正論です。
そして、当時ではきわめて革新的な「利」の哲学でした。
なお、今回の石田梅岩の名言は、『孔子とドラッカー新装版』(三五館)にも登場します。


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2013年8月4日 佐久間庸和

鈴木正三(1)


何の事業も皆仏行なり




言葉は、人生をも変えうる力を持っています。
今回の名言は、安土桃山時代中期の禅僧である鈴木正三の言葉です。
鈴木正三こそは、日本人の職業倫理というものを打ち出した最初の人物です。


鈴木正三―現代に生きる勤勉の精神 (PHP文庫)

鈴木正三―現代に生きる勤勉の精神 (PHP文庫)


ベルーフ(beruf)」という言葉があります。
キリスト教宗教改革で知られるマルティン・ルターおよびルター聖書の校訂者たちが用いた言葉で、神から与えられた「使命」という意味があります。ここからプロテスタントの間には、自分が従事する世俗的な職務を、神に与えられた「天職」として意識する生活態度が生まれました。この天職理念は、神の絶対的権威を極限まで強調し、「神にのみ栄光を」と唱えるカルヴァンにより、いっそう強められてゆきます。職業労働によってのみ、悪魔の誘惑は退けられ、自分は救いに選ばれているとの確信が与えられるのです。


プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 (岩波文庫)

プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 (岩波文庫)


こうして、ルターが説いたような、自分の罪を悔い改めてひたすら神を信仰する謙虚な罪人つまり義人のかわりに、鋼鉄のような信念を堅持するピューリタン商人、自己確信に満ち満ちた数々の「聖徒」が、経済の世界にも続々と生まれ育って、資本主義の英雄時代が到来します。マックス・ヴェーバーの名著『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(岩波文庫)には、このあたりの流れが生き生きと描かれています。



ヴェーバーが近代資本主義の推進力としたプロテスタンティズムの職業倫理と、ほぼ同じ考えの人物が日本にいた。安土桃山時代中期の禅僧・鈴木正三です。彼の主著『萬民徳用』には、「何の事業も皆仏行なり」という思想で、出家や厳しい修行をしなくとも身分の上下別なくそれぞれの日々の仕事に精励することこそ仏の道であると述べられています。



また、商売には物を売り買いし流通させる貴重な役割があるといい、商人の第一の心得はまずは利益をあげることであるといいます。
さらに正三は、商売とはそのときどきの相手ではなく、天に象徴されるように社会に向かって行なうものであり、正直と利他の精神は商売に限らず人間関係の原則だと説きました。


石田梅岩のことば (サムライスピリット 4)

石田梅岩のことば (サムライスピリット 4)


鈴木正三没後三十年ほど経って、石門心学を開いた石田梅岩が生まれました。
正三は仏行という観点から商人の意義を認めましたが、梅岩は自らの体験を踏まえ、さらに積極的に「商人の売買するは天下の相(たすけ)なり・・・・・その余りあるものを以て、その不足(たらざる)ものに易(かえ)て、互いに通用するを以て本とする」と商人の職分を讃えました。そして、「商人には崇高な職責があり、商人の道がある。だからこそ、家業に精を出し、正直でなければならないし、不正な利益は許されない」という論旨で職業倫理を唱えました。



日本にも、大いなる天職思想があったのです。もちろん、あらゆる職業に貴賎はありません。もし貴賎があるとすれば、その仕事に従事するその人の心の中にあるのです。大事なことは、仕事というものは自分のためだけでなく、仲間のため、家族のため、そして社会のために役立つものでなければならないということです。
わたしたちは、強い誇りをもって自分の仕事に励まなければなりません。
なお、今回の鈴木正三の名言は『龍馬とカエサル』(三五館)にも登場します。


龍馬とカエサル―ハートフル・リーダーシップの研究

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2013年7月29日 佐久間庸和

上杉鷹山(1)


してみせて 言ってきかせて させてみる




言葉は、人生をも変えうる力を持っています。
今回の名言は、上杉鷹山の言葉です。大いなる率先垂範の人であった鷹山は、「してみせて 言ってきかせて させてみる」という有名な言葉を残しています。


上杉鷹山の経営学―危機を乗り切るリーダーの条件 (PHP文庫)

上杉鷹山の経営学―危機を乗り切るリーダーの条件 (PHP文庫)


戦国時代において、少ない布陣で大軍に向かっていったような場合、総大将が先頭になって敵陣に突っ込んでいき、勝利を収めるというようなケースがありました。
桶狭間の戦いにおける信長は、まさにその代表例でしょう。
総大将が後方にいて、ただ命令を下すだけでは士気があがらず、ここぞというときには総大将自らが刀や槍をふるわなければ人はついてきません。逆に言えば、ここぞという戦いで、自ら先陣となって突っ込んでいける者こそ、真のリーダーなのです。



わたしは、リーダーシップの真髄とは「率先垂範」という言葉に極まるように思います。
部下や周りの者にやらせ、自分は何もしないでは、人は絶対についてきません。
上杉鷹山は、破産寸前だった米沢藩財政再建を見事に成し遂げた名君ですが、「リストラの神様」として知られます。それまで50人もいた奥女中を9人に削減したり、大名行列の人数を半分以下にしたり、とにかく冗員の整理を徹底的にやりました。もちろん、リストラが藩における財政再建の大きな柱であったことは事実ですが、それだけで奇跡の財政再建を実現できたわけではありません。



鷹山の施策として注目されるものは、節倹と農村復興です。ともに目新しいものではありませんが、他藩では徹底されず失敗に終わることがほとんどでした。他藩で節倹が徹底しなかったのは、家中の侍や領民に節倹を命じておきながら、藩主やその家族は特別扱いされているケースが多かったからです。殿様やその家族だけが美食を楽しみ、贅沢三昧をしていれば節倹など実現するはずがありません。現代でも、社員にはボーナスも出さずに、自分だけ高級車に乗ってゴルフ場や高級クラブに通う社長が実在します。そんな社長がいくら節約を社員に呼びかけても効果ゼロ!



ところが、鷹山は自ら、食事は一汁一菜、衣服も木綿で通したのです。
農村復興においては、普通は現場の責任者にすべてを任せ、藩主はタッチしません。
しかし、鷹山は違いました。自ら現場に足を運び、本人も鍬をふるっているのです。
士・農・工・商の身分制度が厳格な江戸時代に、武士が農業経営に携わるということは考えられませんでした。「武士も農民と一緒に従事しろ」と命令されても、農村復興事業に本心から加わってくる者はいなかったはず。それが、藩主である鷹山が自ら鍬をふるい、全家臣に決意のほどを示したことによって米沢藩の農村復興は成功したと言えるでしょう。


山本五十六の乾坤一擲

山本五十六の乾坤一擲


鷹山の「してみせて 言ってきかせて させてみる」に改良を加えたのが、山本五十六の「やってみて、言ってきかせて、させてみて、ほめてやらねば人は動かじ」です。この言葉を山本五十六のオリジナルだと思い込んでいる人が意外に多いですが、ぜひ上杉鷹山がルーツであることを覚えておいていただきたいと思います。もっとも、「ほめてやらねば人は動かじ」を最後に加えた山本五十六のセンスもさすがですが・・・・・。
なお、今回の鷹山の名言は『龍馬とカエサル』(三五館)にも登場します。


龍馬とカエサル―ハートフル・リーダーシップの研究

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2013年7月28日 佐久間庸和

宮本武蔵(1)


神仏を尊びて、神仏を頼らず




猛暑の日本列島をさらに熱くした参議院選挙が終わりました。
多くの候補者は選挙前に神社に参拝し、必勝を祈願したようです。
また、当選が確定した候補者はダルマの目を入れて、喜びを表現していました。
「ネット選挙」の時代になっても、人は神仏に頼るものなのですね。
わたしは、宮本武蔵の「我、神仏を尊びて、神仏を頼らず」という言葉を思い浮かべました。


宮本武蔵 全8冊   吉川英治歴史時代文庫

宮本武蔵 全8冊 吉川英治歴史時代文庫


武蔵の生まれについては諸説ありますが、現在の兵庫県西部にあたる播磨国の生まれという説が有力です。戦国時代後期から江戸時代初期に生きた剣豪ですが、武蔵はその時代に生きる様々な剣豪と戦って勝利を収め、「生涯無敗」と言われました。て特に有名なのが、巌流島の決闘で知られる佐々木小次郎との対決です。
武蔵の名声は、昭和の作家・吉川英治の『宮本武蔵』によって不動のものとなりました。



その武蔵は、「我、神仏を尊びて、神仏を頼らず」という言葉を残しています。
わたしは今年のサンレーグループの新年祝賀式典の社長訓示で、武蔵のこの言葉を紹介しました。吉川英治の『宮本武蔵』では、武蔵が吉岡一門との決闘にたった1人で出かける際、ある神社の前を通りかかって武運を祈ろうとしますが、「神仏は崇拝するものであって、利益を願うものではない」と思って、そのまま通過するという場面があったと記憶しています。わたしは、このエピソードから「人事を尽くして天命を知る」という言葉を連想しました。



神仏というのは、つまるところ、人間の世界を超えた偉大な存在としての「サムシング・グレート」であると言えるでしょう。人間は、サムシング・グレートを尊び、祈らなければなりません。祈りの対象は太陽でも神でも仏でもよいのです。人が不可知な力について感じるようになれば、人生そのものに必ず大きな展開がもたらされてくるものなのです。
「歌聖」と呼ばれた西行法師は、伊勢神宮を参拝したときに「なにごとの おはしますかはしらねども かたじけなさになみだこぼるる」という有名な歌を詠んでいますが、その正体はわからなくても畏敬の念を抱いて祈ることが大切なのです。



もちろん、あくまで「人事を尽くして天命を待つ」が基本です。かつて、アメリカが月に向けてアポロを打ち上げた際、あらゆる準備、点検をすべて終え、残るは発射のボタンを押すのみという時に、その責任者は「あとは祈るだけだ」とつぶやいたといいます。これこそ、人事を尽くして天命を待つということではないでしょうか。人が「もう、これ以上は無理だ」というぐらいまでベストを尽くしたとき、最後にはサムシング・グレートが力を貸してくれるように思います。
サンレーグループ佐久間進会長も「オリンピックの金メダリストの多くに、サムシング・グレートのサポートを感じる」と述べていますが、まったく同感です。あの山下泰裕氏が足の怪我にもかかわらずロス五輪で金メダルを取得したとき、あのイチロー選手が不調だったWBCで最後の最後に勝利のヒットを放ち、「野球の神様が降りてきた」とコメントしたときにもサムシング・グレートの存在を感じました。



今年のサンレーグループは、売上・利益ともに大きな目標を掲げています。
それを達成することは容易ではないと思います。しかし、各人がそれぞれの持ち場で最善を尽くし、「もう、これ以上は無理だ」という極限状況に至ったとき、最後にはサムシング・グレートがわたしたちを助けてくれるかもしれません。
まずは神仏を尊ぶことが先決であり、次に人事を尽くさなければならないのです!



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2013年7月22日 佐久間庸和