永遠葬

 

佐久間庸和です。
わたしは一条真也として、これまで多くの言葉を世に送り出してきました。この際もう一度おさらいして、その意味を定義したいと思います。今回は、「永遠葬」という言葉を取り上げます。


永遠葬』(現代書林)

 

拙著のタイトルではありますが、「永遠葬」は単なる書名ではありません。それは、1つの思想なのです。「永遠葬」という言葉には、「人は永遠に供養される」という意味があります。日本仏教の特徴の1つに、年忌法要があります。初七日から百ヶ日の忌日法要、一周忌から五十回忌までの年忌法要です。五十回忌で「弔い上げ」を行った場合、それで供養が終わりというわけではありません。故人が死後50年も経過すれば、配偶者や子どもたちも生存している可能性は低いと言えます。


そこで、死後50年経過すれば、死者の霊魂は宇宙へ還り、人間に代わってホトケが供養してくれるといいます。つまり、「弔い上げ」を境に、供養する主体が人間から仏に移るわけで、供養そのものは永遠に続くわけです。まさに、永遠葬です。有限の存在である「人」は無限のエネルギーとしての「仏」に転換されるのです。これが「成仏」です。あとは「エネルギー保存の法則」に従って、永遠に存在し続けるのです。つまり、人は葬儀によって永遠に生きられるのです。葬儀とは、「死」のセレモニーではなく「不死」のセレモニーなのです。

 

 

ちなみに、「儀式とは永遠性の獲得である」という言葉があります。この名言を残したのは、「20世紀最高の宗教学者」と呼ばれたミルチア・エリアーデです。エリアーデは、著書『永遠回帰の神話』堀一郎訳(未来社)において、「永遠」の概念は「時間の再生」と深く関わっていると述べています。古代人たちは「時間の再生」という概念をどうやって得たのでしょうか?


月は「永遠回帰」のシンボル!

 

エリアーデは、同書で月信仰が「時間の再生」に気づかせたとして「単純文化人にとって、時間の再生は連続して成就される――すなわち『年』の合間のうちにもまた――ということは、古代的な、そして普遍的な月に関する信仰から証明される。月は死すべき被造物の最初のものであるが、また再生する最初のものでもある。私は別の論文で、死と復活、豊饒と再生、加入式等々に関する最初のまとまりのある教説が組織づけられるのに、月の神話が重要であることを論じた。ここでは月が事実、時間を『はかる』のに役立ち、月の面が――太陽年の久しい以前に、しかもさらに具体的に――時間の単位(月)をあらわすのであるから、月は同時に『永遠の回帰』をあらわすのだ、ということを想起すれば十分である」と述べています。月は「永遠回帰」のシンボルなのです。この月の思想は、1991年に上梓した、『ロマンティック・デス〜月と死のセレモニー』(国書刊行会)の内容に多大な影響を与えました。

ロマンティック・デス』(国書刊行会

 

宗教学者島田裕巳氏が「0葬」というものを提唱されています。通夜も告別式も行わずに遺体を火葬場に直行させて焼却する「直葬」をさらに進めた形で、遺体を完全に焼いた後、遺灰を持ち帰らずに捨ててくるのが「0葬」です。わたしは、葬儀という営みは人類にとって必要なものであると信じています。故人の魂を送ることはもちろんですが、葬儀は残された人々の魂にも生きるエネルギーを与えてくれます。もし葬儀が行われなければ、配偶者や子ども、家族の死によって遺族の心には大きな穴が開き、おそらくは自殺の連鎖が起きるでしょう。葬儀という営みをやめれば、人が人でなくなります。葬儀という「かたち」は人間の「こころ」を守り、人類の滅亡を防ぐ知恵です。

 

 

「0葬」という考え方は、宗教学者島田裕巳氏が書いた『0葬』(集英社)によって広まりました。大ベストセラー『永遠の0』を意識するわけではありませんが、相手が「0」ならば、わたしは「永遠」で勝負したい。そこで、わたしは『永遠葬』を書きました。

 

 

もともと、「0」とは古代インドで生まれた概念です。古代インドでは「∞」という概念も生み出しました。この「∞」こそは「無限」であり「永遠」です。紀元前400年から西暦200年頃にかけてのインド数学では、厖大な数の概念を扱っていたジャイナ教の学者たちが早くから無限に関心を持ちました。無限には、一方向の無限、二方向の無限、平面の無限、あらゆる方向の無限、永遠に無限の5種類があるとしました。これにより、ジャイナ教徒の数学者は現在でいうところの集合論や超限数の概念を研究していたのです。

般若心経 自由訳』(現代書林)

 

2017年4月8日、ブッダの誕生日である「花祭り」の日、わたしは『般若心経 自由訳』(現代書林)を完成させました。これまで、日本人による『般若心経』の解釈の多くは間違っていたように思います。なぜなら、その核心思想である「空」を「無」と同意義にとらえ、本当の意味を理解していないからです。「空」とは「永遠」にほかなりません。「0」も「∞」もともに古代インドで生まれたコンセプトですが、「空」は後者を意味しました。また、「空」とは実在世界であり、あの世です。「色」とは仮想世界であり、この世です。わたしは、「空」の本当の意味を考えに考え抜いて、死の「おそれ」や「かなしみ」が消えてゆくような訳文としました。


仏教には啓典や根本経典のようなものは存在しないとされます。しかし、あえていえば、『般若心経』が「経典の中の経典」と表現されることが多いです。『般若心経』とは、多くの日本人にとってブッダのメッセージそのものかもしれません。そして、そのメッセージとは「永遠」の秘密を説くものであり、「死」の不安や「死別」の悲しみを溶かしていく内容となっています。超高齢社会を迎えたすべての日本人にとって、本書が「老いる覚悟」と「死ぬ覚悟」、そして、「安らぎ」と「幸せ」を自然に得ることができる書となれば、こんなに嬉しいことはありません。

 

「永遠」を考えるときには数学上の概念だけでとらえるのは間違っていると思います。「永遠」は神話あるいは儀式という発想からとらえる必要があるのではないでしょうか。人類にとって、神話も儀式も不可欠であることは言うまでもありません。サンレーグループでは、日本人の「海」「山」「星」「月」という他界観に対応した「海洋葬」「樹木葬」「天空葬」「月面葬」の四大葬送イノベーションを提唱しています。海は永遠であり、山は永遠であり、星は永遠であり、月は永遠です。すなわち、四大葬送イノベーションとは四大「永遠葬」でもあるのです。


永遠に想いは続く・・・・・・

 

2025年11月14日 佐久間庸和

葬祭責任者に儀式を語る

佐久間庸和です。
12日、一般財団法人 冠婚葬祭文化振興財団の10周年委員会の会議にオンライン参加をした後、16時30分から サンレーグループの葬祭責任者会議で社長講話をしました。今回も、1時間にわたって話しました。

最初は、もちろん一同礼!

まずは日蓮宗講演の話をしました

 

最初に、ブログ「日蓮宗講演in大阪」で紹介した10日に行われた講演の話をしました。そこで、わたしは以下のことを訴えました。葬儀は人類の存在基盤です。葬儀は、故人の魂を送ることはもちろん、残された人々の魂にもエネルギーを与えてくれます。もし葬儀を行われなければ、配偶者や子供、家族の死によって遺族の心には大きな穴が開き、おそらくは自死の連鎖が起きたことでしょう。葬儀という営みをやめれば、人が人でなくなるように思えます。葬儀という「かたち」は人類の滅亡を防ぐ知恵なのではないでしょうか。

水は揺れ動く「こころ」です

 

水や茶は形がなく不安定です。それを容れるものが器という「かたち」です。水と茶は「こころ」です。「こころ」も形がなくて不安定です。ですから、「かたち」に容れる必要があるのです。その「かたち」には別名があります。「儀式」です。茶道とはまさに儀式文化であり、「かたち」の文化です。人間の「こころ」はどこの国でも、いつの時代でも不安定です。だから、安定するための「かたち」すなわち儀式が必要なのです。

儀式論』を掲げました

 

わたしは『儀式論(弘文堂)を書くにあたり、「なぜ儀式は必要なのか」について考えに考え抜きました。そして、儀式とは人類の行為の中で最古のものであることに注目しました。ネアンデルタール人だけでなく、わたしたちの直接の祖先であるホモ・サピエンスも埋葬をはじめとした葬送儀礼を行いました。人類最古の営みは他にもあります。石器を作るとか、洞窟に壁画を描くとか、雨乞いの祈りをするとかです。しかし、現在において、そんなことをしている民族はいません。儀式だけが現在も続けられているわけです。最古にして現在進行形ということは、普遍性があるのではないか。ならば、人類は未来永劫にわたって儀式を続けるはずです。


人間には「礼欲」がある!



じつは、人類にとって最古にして現在進行形の営みは、他にもあります。食べること、子どもを作ること、そして寝ることです。これらは食欲・性欲・睡眠欲として、人間の「三大欲求」とされています。つまり、人間にとっての本能です。わたしは、儀式を行うことも本能ではないかと考えます。いわば「礼欲」です。ネアンデルタール人の骨からは、葬儀の風習とともに身体障害者をサポートした形跡が見られます。儀式を行うことと相互扶助は、人間の本能なのです。この本能がなければ、人類はとうの昔に滅亡していたのではないでしょうか。そう、人間は「ホモ・フューネラル」なのです!

『RITUAL』を手に

 

わたしは「最も新しいものはAIですが、最も古く、最も普遍性のあるものは儀式です」と言いました。じつは現在、世界的に「儀式」が注目されています。最近、『儀式論』と内容が非常によく似た本を読みました。ブログ『RITUAL 人類を幸福に導く「最古の科学」』で紹介した本です。著者のディミトリス・クシガラタスは、コネチカット大学・実験的人類学研究室長。認知人類学者。南ヨーロッパモーリシャスでフィールドワークを行った後、プリンストン大学オーフス大学で役職を歴任し、マサリク大学・宗教実験研究研究所の所長を務めました。

『RITUAL』の内容を紹介

 

『RITUAL』のアマゾン内容紹介には、「世界を変えるための『最古の科学』が「儀式」だった――。生活や価値観が猛スピードで変化する現代。昔からある『儀式』は単調で、退屈で、無意味にみえる。でも、ほんとうに? 認知人類学者の著者は熱した炭の上を歩く人々の心拍数を測り、インドの祭りでホルモンの増減を測定。フィールドに実験室を持ち込んで、これまで検証されてこなかった謎めいた儀式の深層を、認知科学の手法で徹底的に調査する。ハレとケの場、両方にあふれる「儀式」の秘密と活用のヒントを探究する空前の書」と書かれています。

人類にとって儀式とは何か?


熱心に聴く人びと

 

同書の第1章では、「儀式は私たちの社会的慣習のほぼすべての根本にある」として、著者は「小槌を振る裁判官や、就任宣誓をする新大統領を思い浮かべてみるだけでもわかるだろう。軍隊でも政府機関でも企業でも、入所式やパレードというかたちで、また忠誠を誓うためにより手間のかかるかたちで儀式が執り行われる。重要な試合でいつも同じソックスを身に着けるスポーツ選手や、高額な賞金がかかるとサイコロにキスしたり幸運のお守りを握りしめたりするギャンブラーもいる。日々の生活のなかで、私たちはみな儀式を行っている。乾杯のときにグラスを掲げ、卒業式に出席し、誕生日会に参加する。儀式は、太古から人々に必要とされ、これから見ていくように人類の文明のなかできわめて重要な役割を果たしてきた」と具体例を挙げています。

コロナからココロへ

 

また、わたしたちが今日享受している快適さが近い将来脅かされることはないと考える根拠はないといいます。それどころか、新型コロナウイルス感染症パンデミックは、現代の人間の存在がどれほど脆弱なものかを浮き彫りにしました。これらの事実を踏まえて、著者は「これは、激動の時代が始まる予兆にすぎないのかもしれない。さらに、持続不可能な成長と地球資源の過剰利用、気候危機、政治的失敗が拍車をかけている。もしそのとおりなら、来るべき暗黒の時代は、これまで以上に儀式の力に頼ることになるかもしれない。心を平安にして連帯を育み、そしてこの世界は意義があり継続していくという感覚を生み出すためだ」と述べています。拙著心ゆたかな社会(現代書林)の帯に使った「コロナからココロへ」というキャッチコピーを思い出します。


冠婚葬祭には哲学が必要!

 

 ブログ「冠婚葬祭財団・歴代理事長座談会」で紹介した座談会では、ある歴代理事長が「これからの冠婚葬祭に必要なものは哲学だ」と言っていました。それなら、わが社のお家芸であります。最近、わたしがこれまで世に送り出してきた多くのハートフル・キーワード、いわば「礼の言霊」を二分間ほどの動画にしてYouTubeにアップしています。「儀式の意味や重要性がわかりやすく説明されている」と、冠婚葬祭業界をはじめとして話題となっているようですが、じつはこの動画、生成AIで作成しています。AIという最新の科学を駆使して、儀式という最古の科学をプレゼンテーションしているわけです。

最新の科学・AIと最古の科学・RITUAL

 

わたしは「“AI”と“RITUAL”が対比されているように、生成AIがますます発展すれば、人間にしかできない代表的営為である儀式に対する重要性は高まっていくでしょう。そもそも、儀式は何のためにあるのか。儀式が最大限の力を発揮するときは、人間の「こころ」が不安定に揺れているときです。もともと「ころころ」が語源であるという説があるぐらい、「こころ」は不安定なものなのです。まずは、この世に生まれたばかりの赤ちゃんの「こころ」。次に、成長していく子どもの「こころ」。そして、大人になる新成人者の「こころ」。それらの不安定な「こころ」を安定させるために、初宮参り、七五三、成人式、結婚式があります。

カタチにはチカラがある


熱心に聴く人びと

 

さらに、老いてゆく人間の「こころ」も不安に揺れ動きます。なぜなら、人間にとって最大の不安である「死」に向かってゆく過程が「老い」だからです。しかし、日本には老いゆく者の不安な「こころ」を安定させる一連の儀式として、長寿祝いがあります。そして、人生における最大の儀式としての葬儀がある。葬儀とは「物語の癒し」です。愛する人を亡くした人の「こころ」は不安定に揺れ動きます。「こころ」が動揺していて矛盾を抱えているとき、儀式のようなきちんとまとまった「かたち」を与えないと、人間の「こころ」はいつまでたっても不安や執着を抱えることになります。このように、カタチにはチカラがあるのです。

慈礼」の発見



しかし、「かたち」としての儀式というものは形骸化することがあります。それは避けなければなりません。そこで、「慈礼」というものが大切になります。「慇懃無礼」という言葉があるくらい、「礼」というものはどうしても形式主義に流れがちです。また、その結果、心のこもっていない挨拶、お辞儀、笑顔が生れてしまいます。「礼」が形式主義に流れるのを防ぐために、孔子は音楽を持ち出して「礼楽」というものを唱えましたが、わたしたちが日常生活や日常業務の中で、いつもいつも楽器を演奏したり歌ったりするわけにもいきません。ならば、どうすればいいでしょうか。わたしは、「慈」という言葉を「礼」と組み合わせてはみることを思い立ちました。われながら、グッド・アイデア

慈礼」について

 

「慈」とは何か。それは、他の生命に対して自他怨親のない平等な気持ちを持つこと。もともと、アビダルマ教学においては「慈・悲・喜・捨」(じ・ひ・き・しゃ)という四文字が使われ、それらは「四無量心」、「四梵柱」などと呼ばれます。「慈」とは「慈しみ」、相手の幸福を望む心です。「悲」とは「憐れみ」、苦しみを除いてあげたいと思う心です。「喜」とは「随喜」、相手の幸福を共に喜ぶ心です。「捨」とは「落ち着き」、相手に対する平静で落ち着いた心です。ブッダの慈しみは、イエス愛も超える」と言った人がいましたが、仏教における「慈」の心は人間のみならず、あらゆる生きとし生けるものへと注がれます。

慈礼を追求していきたい!

 

「慈」という言葉は、他の言葉と結びつきます。たとえば、「悲」と結びついて「慈悲」となり、「愛」と結びついて「慈愛」となります。さらには、儒教の徳目である「仁」と結んだ「仁慈」というものもあります。わたしは、「慈」と「礼」を結びつけたいと考えました。すなわち、「慈礼」という新しいコンセプトを提唱したいと思います。逆に「慈礼」つまり「慈しみに基づく人間尊重の心」があれば、心のこもった挨拶、お辞儀、笑顔、そして冠婚葬祭サービスの提供が可能となります。サンレーの経営理念「S2M」の1つである「お客様の心に響くサービス」が実現するわけです。今後も、わたしは「慈礼」を追求していきたいと思います。

冠婚葬祭業は、多くの人を幸せにできる!

最後は、もちろん一同礼!

 

わたしは「『慈』はブッダの思想の核心であり『礼』は孔子の思想の核心です。つまり『慈礼』とは、ブッダ孔子のコラボであるということができます。また、『慈礼」はキリスト教の「ホスピタリティ」という言葉と同義語でもあります。また、神道的世界から生まれたとされる「おもてなし」という言葉にも通じます。そう、「慈礼」も「ホスピタリティ」も「おもてなし」とは「慈悲」や「仁」や「隣人愛」や「情」といった目には見えない大切な「こころ」を「かたち」にしたものなのです。そして、それらは宗教や民族や国家を超えた普遍性を持っているのです。最後に、わたしは「冠婚葬祭という聖なる仕事は、多くの人を幸せにできます。この仕事に誇りを持って、さらに精進しましょう!」と言ってから降壇しました。

懇親会で挨拶しました

今夜は大いに飲んで下さい!

乾杯の音頭を取る郡取締役

お疲れさま、カンパ~イ!

 

社長講話の後は、松柏園ホテルの「松柏の間」で懇親会が開催。最初にわたしが「これから、わたしたちはわたしたちは食事をします。『食事』という文字は『人に良い事』と書きます。一緒に食事をしたり、盃を交わすのは腹を割った人間関係をつくる最高の方法です。みなさんはよく頑張っていますが、さらに高い目標を持って前進していただきたい。これらのコンパッション時代を先取りして、業界のフロントランナーになりましょう!」と述べました。それから、葬祭副本部長である北陸本部の郡取締役の音頭で乾杯しました。


みんな元気です!

懇親会のようす

懇親会のようす

懇親会のようす

 

その後、各地から参集したみなさんは、お酒や料理を楽しみながら会話の花を咲かせました。久しぶりに再会した葬祭責任者も多く、松柏園の美味しい料理に舌鼓を打ちながら互いに近況報告をしたり、それぞれの仕事の悩みを相談したり・・・・・・まさに「食事」は「人に良い事」であると再認識しました。「ここにいる彼らが、冠婚葬祭という『文化の核』を守ってくれる『文化の防人』なのだ」と思うと、胸が熱くなりました。


差しつ差されつ・・・・・・


中締めは谷上取締役

中締めは、「末広がりの五本締め」で!

末広がりの五本締め」で「こころ」は1つに!

 

楽しい懇親会も終わりに近づきました。
最後は、宮崎事業部の谷上取締役による中締めの挨拶でした。サンレー・オリジナルの「末広がりの五本締め」で締めました。これをやると、みんなの心が本当に1つになる気がします。コロナ禍の頃にはオンライン飲み会など開かれましたが、やはりリアル・コンパはいいね!

二次会で挨拶する大谷部長


カンパ~イ!

今夜は大いに飲もうじゃないか!


ちょっとだけスピーチしました!

 

その後、二次会も開かれました。会場は、いつもの加藤唐九郎作の大陶壁「万朶」の前のラウンジではなく、新館ヴィラルーチェの「ザ・テラス」」で開かれました。この空間に初めて足を踏み入れたメンバーも多く、みんな大感激していました。北陸本部の大谷部長の音頭で乾杯し、ハイボールのグラスを高く掲げました。途中、わたしも少しだけスピーチして、大事なメッセージを伝えました。この日は、みんなの「こころ」が1つになりました。誇り高き同志たちよ、これからも一緒に頑張ろう!

 

2025年11月13日 佐久間庸和

唯葬論

 

佐久間庸和です。
わたしは一条真也として、これまで多くの言葉を世に送り出してきました。この際もう一度おさらいして、その意味を定義したいと思います。今回は、「唯葬論」という言葉を取り上げます。

唯葬論』(三五館)

 

拙著のタイトルではありますが、「唯葬論」は単なる書名ではありません。それは、1つの思想なのです。わたしは、葬儀とは人類の存在基盤であり、発展基盤であると思っています。約7万年前に死者を埋葬したとされるネアンデルタール人たちは「他界」の観念を知っていたとされます。世界各地の埋葬が行われた遺跡からは、さまざまな事実が明らかになっています。


「人類の歴史は墓場から始まった」という言葉がありますが、確かに埋葬という行為には人類の本質が隠されていると思います。それは、古代のピラミッドや古墳を見てもよく理解できます。わたしは人類の文明も文化も、その発展の根底には「死者への想い」があったと考えています。

 

 

世の中には「唯物論」「唯心論」をはじめ、岸田秀氏が唱えた「唯幻論」、養老孟司氏が唱えた「唯脳論」などがありますが、わたしは本書で「唯葬論」というものを提唱します。結局、「唯○論」というのは、すべて「世界をどう見るか」という世界観、「人間とは何か」という人間観に関わっています。わたしは、「ホモ・フューネラル」という言葉に表現されるように人間とは「葬儀をするヒト」であり、人間のすべての営みは「葬」というコンセプトに集約されると考えます。

儀式論』(弘文堂)

 

カタチにはチカラがあります。カタチとは儀式のことです。儀式は、地域や民族や国家や宗教を超えて、あらゆる人類が、あらゆる時代において行ってきた文化です。わたしは冠婚葬祭会社を経営していますが、冠婚葬祭ほどすごいものはないと痛感することが多いです。というのも、冠婚葬祭というものがなかったら、人類はとうの昔に滅亡していたのではないかと思うのです。


わが社の社名である「サンレー」には「産霊(むすび)」という意味があります。神道と関わりの深い言葉ですが、新郎新婦という2つの「いのち」の結びつきによって、子供という新しい「いのち」を産むということです。「むすび」によって生まれるものこそ、「むすこ」であり、「むすめ」です。結婚式の存在によって、人類は綿々と続いてきたと言ってよいでしょう。



最期のセレモニーである葬儀は、故人の魂を送ることはもちろんですが、残された人々の魂にもエネルギーを与えてくれます。もし葬儀を行われなければ、配偶者や子供など大切な家族の死によって遺族の心には大きな穴が開き、おそらくは自殺の連鎖が起きたことでしょう。葬儀という営みをやめれば、人が人でなくなります。葬儀というカタチは人類の滅亡を防ぐ知恵なのです。


オウム真理教の「麻原彰晃」こと松本智津夫が説法において好んで繰り返した言葉は、「人は死ぬ、必ず死ぬ、絶対死ぬ、死は避けられない」という文句でした。死の事実を露骨に突きつけることによってオウムは多くの信者を獲得しましたが、結局は「人の死をどのように弔うか」という宗教の核心を衝くことはできませんでした。


すべては「葬」から始まった!

 

言うまでもありませんが、人が死ぬのは当たり前です。「必ず死ぬ」とか「絶対死ぬ」とか「死は避けられない」など、ことさら言う必要なし。最も重要なのは、人が死ぬことではなく、死者をどのように弔うかということです。問われるべきは「死」でなく、「葬」なのです。そして、「葬」とは死者と生者との豊かな関係性を指します。

 

 

よって、わたしは『唯死論』ではなく、『唯葬論』という書名の本を書きました。同書の「宇宙論」からはじまって「葬儀論」へと至る章立ては、2012年に逝去した偉大な思想家である吉本隆明氏の名著『共同幻想論』(角川文庫ソフィア)をイメージしました。同書は、その後の唯幻論や唯脳論の母体ともなった画期的な書物でした。不遜を承知で言えば、わたしは『唯葬論』を『共同幻想論』へのアンサーブックとして書きました。

魂をデザインする』(国書刊行会

 

もう30年以上も前、わたしは『魂をデザインする』(国書刊行会)という本で、2013年に逝去した文化人類学者の山口昌男氏と対談したことがあります。その時、山口氏は「葬式は無駄なこと。しかし、人類は無駄をなくすことはないよ」と言われました。弔いをやめれば人が人でなくなるのです。葬儀というカタチは人類の滅亡を防ぐ知恵なのです。吉本氏や山口氏をはじめ、『唯葬論』は多くの死者たちのサポートによって書かれました。同書を書きながら、わたしは「生者は死者によって支えられている」と改めて痛感しました。

唯葬論』(サンガ文庫)

 

未知の超高齢社会を迎えた今、万人が「老いる覚悟」と「死ぬ覚悟」を持つことが求められます。そのためには「生者と死者との豊かな関係」が不可欠であり、「人生の卒業式」としての葬儀に対する前向きなイメージと姿勢が重要となります。葬儀を行うことをやめれば、わたしたちは自身の未来をも放棄することになるのではないでしょうか。葬儀は人類にとっての最重要問題なのです。


生きることは、死者のために祈ること

 

2025年11月12日 佐久間庸和

僧侶の研修会で儀式を語る

佐久間庸和です。

大阪に来ています。10日の15時から、大阪府社会福祉会館で開かれた日蓮宗大阪市声明師会主催の講演会で講師を務めました。演題は「人間にとって儀式とは」です。


講演会場の前で


中村会長と

会場の大阪府社会福祉会館に到着すると、講師控室に通されました。そこで今回の主催者である日蓮宗大阪市声明師会の中村貫慧会長(宗教法人 本妙寺 代表役員)と面談しました。拙著儀式論(弘文堂)を読まれた中村会長から「ぜひ、儀式についてお話いただきたい」との依頼があり、講演が実現したのです。お会いすると、中村会長は「じつは、わたし、小倉の出身なんですよ」と言われました。しかも、わたしの卒業した日新館中学の後輩だそうです。思わぬ御縁に驚きつつも、わたしは「やはり、この世は有縁社会だなあ」と、しみじみと思いました。


中村会長の挨拶でスタート!


講師紹介を受けました


みなさん、こんにちは!


講演会のようす

 

講演会の冒頭、中村の御挨拶、続いて日蓮宗大阪市宗務所長の御挨拶がありました。そして、講師紹介を受けてから、わたしが登壇しました。わたしは最初に簡単な自己紹介をしてから、「今日は日蓮宗さんにお呼びいただき、大変光栄に思っております。釈迦に説法にならぬように、仏教の教義には立ち入らず、儀式についてお話させていただきます。わたしの父は千葉県の房総半島の小湊の出身で、安房が生んだ偉大な宗教家である日蓮聖人のお話はいつも父から聴いておりました」と述べました。


葬儀に関する書籍を紹介

 

この日のテーマが「儀式」だったので、まず、わたしは儀式関連の著書を紹介しました。葬儀についての本もたくさん書きましたが、そこには宗教学者である島田裕巳氏への反論という背景がありました。2010年、島田氏のベストセラー『葬式は、要らない』(幻冬舎新書)に対抗して、わたしは『葬式は必要!』(双葉新書)を書きました。その後、島田氏が書かれた『0葬――あっさり死ぬ』(集英社)に対して、わたしは『永遠葬――想いは続く』(現代書林)を書きました。「永遠」こそが葬儀の最大のコンセプトであると考えたので、「0葬」に対抗する意味で「永遠葬」と名づけたのです。その後、島田氏とは『葬式に迷う日本人』(三五館)という共著も出しました。さらには、島田氏が『葬式消滅』(G.B.)を書かれたので、わたしも『葬式不滅』(オリーブの木)を書いたのでした。

ナチス・オウム・イスラム国について

 

世間では、わたしは葬式必要論の第一人者のように見られているようです。かつて、ナチスやオウムは葬送儀礼を行わずに遺体を焼却しました。ナチスガス室で殺したユダヤ人を、オウムは逃亡を図った元信者を焼いたのです。イスラム国はなんと生きた人間をそのまま焼き殺したのです。現在の日本では、通夜も告別式もせずに火葬場に直行するという「直葬」が増えつつあります。あるいは遺灰を火葬場に捨ててくる「0葬」といったものまで発案されました。しかしながら、「直葬」や「0葬」がいかに危険な思想を孕んでいるかを知らなければなりません。葬儀を行わずに遺体を焼却するという行為は「礼」すなわち「人間尊重」に最も反するものであり、ナチス・オウム・イスラム国の巨大な心の闇に通じているのです。

唯葬論』について

 

わたしは唯葬論(三五館・サンガ文庫)を上梓しました。同書のサブタイトルは「なぜ人間は死者を想うのか」です。わたしのこれまでの思索や活動の集大成となる本です。わたしは、人類の文明も文化も、その発展の根底には「死者への想い」があったと考えています。約7万年前に、ネアンデルタール人が初めて仲間の遺体に花を捧げたとき、サルからヒトへと進化しました。その後、人類は死者への愛や恐れを表現し、喪失感を癒すべく、宗教を生み出し、芸術作品をつくり、科学を発展させ、さまざまな発明を行いました。つまり「死」ではなく「葬」こそ、われわれの営為のおおもとなのです。


儀礼と儀式について


神話と儀式について


時間と儀式について

空間と儀式について

 

葬儀は人類の存在基盤です。
葬儀は、故人の魂を送ることはもちろんですが、残された人々の魂にもエネルギーを与えてくれます。もし葬儀を行われなければ、配偶者や子供、家族の死によって遺族の心には大きな穴が開き、おそらくは自死の連鎖が起きたことでしょう。葬儀という営みをやめれば、人が人でなくなるように思えてなりません。葬儀という「かたち」は人類の滅亡を防ぐ知恵なのではないでしょうか。

「こころ」と「かたち」について


「こころ」について語る

 

水や茶は形がなく不安定です。それを容れるものが器という「かたち」です。水と茶は「こころ」です。「こころ」も形がなくて不安定です。ですから、「かたち」に容れる必要があるのです。その「かたち」には別名があります。「儀式」です。茶道とはまさに儀式文化であり、「かたち」の文化です。人間の「こころ」はどこの国でも、いつの時代でも不安定です。だから、安定するための「かたち」すなわち儀式が必要なのです。


冠婚葬祭と神道儒教・仏教


「和」の宗教国家構想


根本枝葉果実説


神儒仏正味一粒丸

 

わたしは日本人の「こころ」は神道儒教・仏教の3つの宗教によって支えられていると思っています。そこでは、「和をもって貴しと為す」という聖徳太子の言葉が思い浮かびます。内外の学問に通じていた太子は、仏教興隆に尽力し、多くの寺院を建立します。平安時代以降は仏教保護者としての太子自身が信仰の対象となり、親鸞聖人が「和国の教主」と呼んだことはよく知られます。しかし、太子は単なる仏教保護者ではありませんでした。神道儒教・仏教の三大宗教を平和的に編集し、「『和』の宗教国家構想」を描きました。その後、吉田兼倶が「根本枝葉果実説」を、二宮尊徳が「神儒仏正味一粒丸」を唱えています。

儀式論』について

儀式論』全14章の構成


最古にして現在進行形


人間にとって儀式とは何か


わたしは『儀式論(弘文堂)を書くにあたり、「なぜ儀式は必要なのか」について考えに考え抜きました。そして、儀式とは人類の行為の中で最古のものであることに注目しました。ネアンデルタール人だけでなく、わたしたちの直接の祖先であるホモ・サピエンスも埋葬をはじめとした葬送儀礼を行いました。人類最古の営みは他にもあります。石器を作るとか、洞窟に壁画を描くとか、雨乞いの祈りをするとかです。しかし、現在において、そんなことをしている民族はいません。儀式だけが現在も続けられているわけです。最古にして現在進行形ということは、普遍性があるのではないか。ならば、人類は未来永劫にわたって儀式を続けるはずです。


本能としての「礼欲」について


人間は「ホモ・フューネラル」である!


終戦80年にあたって・・・


死者を忘れて、生者の幸福なし!!

じつは、人類にとって最古にして現在進行形の営みは、他にもあります。食べること、子どもを作ること、そして寝ることです。これらは食欲・性欲・睡眠欲として、人間の「三大欲求」とされています。つまり、人間にとっての本能です。わたしは、儀式を行うことも本能ではないかと考えます。ネアンデルタール人の骨からは、葬儀の風習とともに身体障害者をサポートした形跡が見られます。儀式を行うことと相互扶助は、人間の本能なのです。この本能がなければ、人類はとうの昔に滅亡していたのではないでしょうか。

『RITUAL』を紹介

儀式が人類を幸福にする!

 

わたしは「最も新しいものはAIですが、最も古く、最も普遍性のあるものは儀式です」と言いました。じつは現在、世界的に「儀式」が注目されています。最近、『儀式論』と内容が非常によく似た本を読みました。ブログ『RITUAL 人類を幸福に導く「最古の科学」』で紹介した本です。著者のディミトリス・クシガラタスは、コネチカット大学・実験的人類学研究室長。認知人類学者。南ヨーロッパモーリシャスでフィールドワークを行った後、プリンストン大学オーフス大学で役職を歴任し、マサリク大学・宗教実験研究研究所の所長を務めました。

『RITUAL』の内容について


儀式の心理的機能について

 

『RITUAL』のアマゾン内容紹介には、「世界を変えるための『最古の科学』が「儀式」だった――。生活や価値観が猛スピードで変化する現代。昔からある『儀式』は単調で、退屈で、無意味にみえる。でも、ほんとうに? 認知人類学者の著者は熱した炭の上を歩く人々の心拍数を測り、インドの祭りでホルモンの増減を測定。フィールドに実験室を持ち込んで、これまで検証されてこなかった謎めいた儀式の深層を、認知科学の手法で徹底的に調査する。ハレとケの場、両方にあふれる「儀式」の秘密と活用のヒントを探究する空前の書」と書かれています。


『冠婚葬祭文化論』について


儀式なくして人生なし

 

わたしは「“AI”と“RITUAL”が対比されているように、これから生成AIがますます発展すれば、人間にしかできない代表的営為である儀式に対する重要性は高まっていくでしょう。そもそも、儀式は何のためにあるのか。儀式が最大限の力を発揮するときは、人間の「こころ」が不安定に揺れているときです。もともと「ころころ」が語源であるという説があるぐらい、「こころ」は不安定なものなのです。まずは、この世に生まれたばかりの赤ちゃんの「こころ」。次に、成長していく子どもの「こころ」。そして、大人になる新成人者の「こころ」。それらの不安定な「こころ」を安定させるために、初宮参り、七五三、成人式、結婚式があります。

それは儀式にかかっている!


人間が人間であるために儀式はある!

 

さらに、老いてゆく人間の「こころ」も不安に揺れ動きます。なぜなら、人間にとって最大の不安である「死」に向かってゆく過程が「老い」だからです。しかし、日本には老いゆく者の不安な「こころ」を安定させる一連の儀式として、長寿祝いがあります。そして、人生における最大の儀式としての葬儀がある。葬儀とは「物語の癒し」です。愛する人を亡くした人の「こころ」は不安定に揺れ動きます。「こころ」が動揺していて矛盾を抱えているとき、儀式のようなきちんとまとまったカタチを与えないと、人間の「こころ」はいつまでたっても不安や執着を抱えることになります。このように、カタチにはチカラがあるのです。

ご清聴ありがとうございました!


質疑応答のようす


閉会の挨拶のようす


盛大な拍手を受けました

 

最後に「儀式を司るみなさんに、日本人の『こころの未来』が懸かっています。どうかご自身のお仕事に強い誇りを持って、生きている方の『こころ』を安定させ、亡くなった方の『たましい』を彼岸に送ってさしあげて下さい!」と述べて講演を終えると、盛大な拍手を頂戴して感激しました。


書籍販売コーナーのようす


おかげさまで、飛ぶように売れました!


懇親会のようす

懇親会でカンパイ!

 

その後、「木曽路 上本町店」で開かれた懇親会にも参加させていただき、みなさまと親睦を深めることができました。僧侶の方々ばかりでしたが、会話にはユーモアが溢れており、大変楽しかったです。今回は、中学の後輩にも会うことができましたし、本当に有意義な出講となりました。関係各位に深く感謝いたします。

 

2025年11月10日 佐久間庸和

感謝の祭典in小倉

佐久間庸和です。
8日、「サンクスフェスタ in小倉紫雲閣」が行われました。おかげさまで今年も無事に開催できました。もちろん感染対策は万全で、安心安全なイベントを目指しました。快晴の今日、大勢のお客様がお越しになられました。


チラシ(表)

チラシ(裏)

小倉紫雲閣の外観

小倉紫雲閣の入口で

 

「サンクスフェスタ」とは何か。それは、わが社の会員様やお客様に対して「ありがとうございます」という感謝の気持ちをお伝えするイベントです。「ありがとう」という言葉はどこの国にもあります。それは、「ありがとう」が人間にとって非常に大切なものだからです。「お金」はなくても何とかなるが、これがなくては生きていけないというぐらい大切なものなのです。

わが社の施設一覧の前で

開場待ちするお客様

受付のようす

互助会コーナーのようす


大抽選会のようす

世界平和をイメージした祭壇


通過儀礼コーナーの前で

「ムーンギャラリー」コーナーで

婚礼衣装コーナー

通過儀礼コーナー

入棺体験コーナー


わたしも死んでみました


生き返って感謝!

 

「ありがとう」と言われた人は気分がいいし、「ありがとう」と言った人も気分がいい。こんなにお互いに「いい気分」になるのであれば、わたしたちは、もっともっと「ありがとう」という言葉を使うべきです。心から、そう思います。金もかからず手間もいらず、こんなに便利なものはありません。それで、みんなが元気になれれば、こんなに幸せなこともありません。まさに「ありがとう」は、他人も自分も幸せにする魔法の言葉ですね。


渡辺正行トークショーのようす

渡辺正行トークショーのようす


大いに盛り上げてくれました!


お客様も大喜び!

 

本日のサンクスフェスタのメインイベントは、タレントの渡辺正行さんのトークショーです。渡辺正行さんは、1956年千葉県生まれ。明治大学在学中にラサール石井、小宮孝康と出会い、コントグループ「コント赤信号」を結成。1980年にフジテレビ花王名人劇場にてデビューし、暴走族コントなどで人気を博しました。コント赤信号のリーダーとして活躍するとともに、数々の番組に出演しています。また、若手お笑い芸人の育成に熱心で、「ラ・ママ新人コント大会」を主宰し、後進の育成に尽力しています。そして、剣道、ゴルフ、絵画、ピアノなど多彩な趣味を持ち、仕事に家庭にと人生を謳歌しています。講演は第一線で活躍し続ける渡辺さんが、同世代に向けて人生を楽しく生きる方法を伝える内容でした。満場のお客様は大喜びで、最高の盛り上がり!

小笠原古流の茶道コーナー

これぞ一期一会の瞬間!

思い出記念写真館のようす

人形供養祭のようす

書籍コーナーで一条本を販売


おかげさまで大好評でした!


高齢者写真である「グランフォト」のブース、人形供養祭なども人気でした。また、松柏園ホテル特製のビーフカレービーフシチューの販売コーナーにも行列ができました。さらに恒例の書籍販売コーナーには、佐久間庸和の最新刊であるロマンティック・デス』『リメンバー・フェス(ともに、オリーブの木)、ロングセラーの『人生の修活ノート』(現代書林)などが販売されました。おかげさまで、「一条本」がたくさん売れました!


お菓子つかみ取り


福祉販売コーナー

紫雲閣オンライン」のご案内

松柏園ホテルカレー&ビーフシチュー販売

野菜販売コーナー

生花販売コーナー

 

「ありがとう」の話に戻ります。人生には1つのムダも、1つのマイナスもありません。起こっていることすべてには意味があるのです。みんな「有ること」が「難しい」ことに「当たる」から、「有難当(ありがとう)」なのです。冠婚葬祭互助会であるわが社にとって、最も感謝するべき対象とは何か?それは互助会の会員様であり、冠婚葬祭の各施設のお客様です。それらの大切な方々に対して、わが社「サンクスフェスタ」を開催させていただくのです。


終礼のようす

終礼で挨拶しました


この日の実績を発表しました

最後に「サンクス!」と言いました

 

今日は、いろんな意味で大成功を収めることができました。来場して下さったお客様はもちろん、スタッフのみなさんには、わたしから「ありがとうございます」と言いたいです。終礼に参加したわたしは、「今日、東京から戻ってきました。今朝の東京は寒くて気温は12度だったのですが、北九州空港に着いたら22度もあって驚きました。きっと、みなさんの熱意が北九州の気温を上げたのだと思います」と言いました。そして、この日の実績を報告して「素晴らしい結果に終わって感謝です!」と述べた後、最後に大きな声でみなさんに「サンクス!」と言いました。

 

 

2025年11月9日 佐久間庸和

気地

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佐久間庸和です。
わたしは一条真也として、これまで多くの言葉を世に送り出してきました。この際もう一度おさらいして、その意味を定義したいと思います。今回は「気地」という言葉を取り上げることにします。

 

 

「病は気から」と言われるように、病気とは気の問題でもあり、病院について考える上でも「気」が重要なキーワードになります。東洋医学や東洋思想は、考え方の中心を「気」においています。宇宙には気という生命エネルギーが満ちています。人間や動植物は、宇宙から気のエネルギーを与えられて生まれ、また宇宙の気のエネルギーを吸収して生きているのです。東洋医学では、人間は天の気(空気)と地の気(食物)を取り入れて、体内の気と調和して生きているとされています。科学的に見れば、気は1つの波動なのです。したがって、気が乱れると病気になってしまいます。

 

いのちを呼びさますもの —ひとのこころとからだ—

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  • 作者:稲葉俊郎
  • 発売日: 2017/12/22
  • メディア: 単行本
 

 

人間の身体とは気の流れそのものにほかなりません。それは、ちょうどバッテリーのようなものです。バッテリーは放電ばかりしていると、電気がなくなってしまいます。長くもたせるためには、ときどき充電しなければなりません。人間も同様で、気の充電をしなければ「気力」もなくなり、「やる気」も起こらなくなって、ついには「病気」になって死んでしまいます。

 

いのちは のちの いのちへ ―新しい医療のかたち―

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  • 作者:稲葉俊郎
  • 発売日: 2020/07/02
  • メディア: 単行本
 

 

よく、非常に多忙な人が何日間かリゾートへ行ってきて、「たっぷり充電してきた」などと言いますが、あれは比喩ではなく、実は即物的な表現なのです。その人は実際に気を充電したのです。そして、病気の人とは気が不足している人であり、最も気の充電が必要とされるのです。病院は、リゾートと同じく、巨大な気の充電器とならねばなりません。いわば、生命力の基地としての「気地」にならねばならないのです

 

 

「気地」は、「パワースポット」という言葉にも通じます。そして、日本においては神社の存在がクローズアップされます。ここ最近、神社が大いに見なされています。特に若い人たちの間で、「パワースポット」として熱い注目を浴びています。いわゆる生命エネルギーを与えてくれる「聖地」とされる場所ですね。

 

聖地感覚 (角川ソフィア文庫)

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  • 作者:鎌田 東二
  • 発売日: 2013/10/25
  • メディア: 文庫
 

 

神道研究の第一人者である宗教哲学者の鎌田東二氏によれば、空間とはデカルトがいうような「延長」的均質空間ではありません。世界中の各地に、神界や霊界やさまざまな異界とアクセスし、ワープする空間があるというのです。ということは、世界は聖地というブラックホール、あるいはホワイトホールによって多層的に通じ、穴を開けられた多孔体なのですね。「精神世界の六本木」と呼ばれた天河大弁財天社にしろ、伊勢神宮出雲大社にしろ、神社とは穴の開いたパワースポットなのです。


天河大弁財天社にて

 

わたしも、疲れたときなど、よく神社に行きます。何よりもまず、神社は木々に囲まれた緑の空間です。ゆたかな緑の中にいると、いつの間にか元気になります。また、神社はさまざまな願いをかなえてくれる場所でもありますね。わたしは、しばしば志を短歌に詠み、神社に奉納します。不思議とその後は物事が順調に進み、願いがかなうような気がしています。


開運! パワースポット「神社」へ行こう

 

八百万の神々をいただく多神教としての神道の良さは、根本的に開かれていて寛容なところです。まったく神社ほど平和な場所はありません。伊勢神宮出雲大社には心御柱がありますが、すべての神社は日本人の心の柱だと思います。そんな考えをもとにして、わたしは、かつて『開運!パワースポット「神社」へ行こう』(PHP文庫)を監修しました。神社は、日本人の「こころのバッテリー」であると思います。

 

2025年11月8日 佐久間庸和

気業

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佐久間庸和です。
わたしは一条真也として、これまで多くの言葉を世に送り出してきました。この際もう一度おさらいして、その意味を定義したいと思います。今回は「気業」という言葉を取り上げることにします。


「気業」を提唱した『ハートビジネス宣言

 

「気業」という言葉は、1992年に上梓した『ハートビジネス宣言』(東急エージェンシー)で初めて提唱しました。企業とは「気業」です。経営者が元気な会社なら、会社も元気です。社長が陽気で強気なら、陽気で強気な会社になります。その逆に社長が陰気で弱気なら、会社もそうなるのです。特に人数の少ない小規模の企業になればなるほど、トップの気はストレートに反映します。

ハートフル・ソサエティ』(三五館)

 

まさに企業とは、経営者の気が社員に乗り移る一個の生命体なのです。わたしたち人間はハード(身体)とソフト(精神)の両方からできており、目に見える世界と見えない世界で生活しています。「色即是空」「空即是色」という言葉が示すように、見える世界と見えない世界は渾然一体なのです。「気」は見えない世界のエネルギーであり、ハートフル・ソサエティ、すなわち「心ゆたか社会」でのビジネスにおいて、重要なキーワードです。

f:id:shins2m:20200516165530j:plain心ゆたかな社会』(現代書林)

 

人間と同じく、人間が経営する会社も見える部分(色)と見えない部分(空)の二重構造になっています。色とは、資本金、土地、建物、設備、商品、貸借対照表損益計算書などです。労働力としての人間も色に入るでしょう。一方、空とは、会社のミッションやビジョン、経営者の思想や哲学、経営理念、社員のプロ意識、生きがい、働きがい、社風、企業文化などです。今後の企業は、色と空の両方をバランスよく充実させなければなりません。特に、人々が求心的になっていきます。

ハートフル・カンパニー』(三五館)

 

ハートフル・ソサエティにおいては、企業の空の部分が重要視されるでしょう。心ゆたかな会社、ハートフル・カンパニーの原点は、企業の経営理念、社長の哲学、そして社員の生きがいを確立することです。そして、そこには常に、元気、陽気、強気、勇気といったプラスの気が流れていなければならないのです。ホテル業や冠婚葬祭業など、お客様に元気や勇気を与えるホスピタリティ・サービス業においては、すべての会社が「気業」を目指すべきでしょう。サンレーでは、かつて「気業宣言」を行いました。

f:id:shins2m:20201110212539j:plainサンレーの「気業宣言」

 

2025年11月7日 佐久間庸和