佐久間庸和です。
12日、一般財団法人 冠婚葬祭文化振興財団の10周年委員会の会議にオンライン参加をした後、16時30分から サンレーグループの葬祭責任者会議で社長講話をしました。今回も、1時間にわたって話しました。
最初は、もちろん一同礼!
まずは日蓮宗講演の話をしました
最初に、ブログ「日蓮宗講演in大阪」で紹介した10日に行われた講演の話をしました。そこで、わたしは以下のことを訴えました。葬儀は人類の存在基盤です。葬儀は、故人の魂を送ることはもちろん、残された人々の魂にもエネルギーを与えてくれます。もし葬儀を行われなければ、配偶者や子供、家族の死によって遺族の心には大きな穴が開き、おそらくは自死の連鎖が起きたことでしょう。葬儀という営みをやめれば、人が人でなくなるように思えます。葬儀という「かたち」は人類の滅亡を防ぐ知恵なのではないでしょうか。
水は揺れ動く「こころ」です
水や茶は形がなく不安定です。それを容れるものが器という「かたち」です。水と茶は「こころ」です。「こころ」も形がなくて不安定です。ですから、「かたち」に容れる必要があるのです。その「かたち」には別名があります。「儀式」です。茶道とはまさに儀式文化であり、「かたち」の文化です。人間の「こころ」はどこの国でも、いつの時代でも不安定です。だから、安定するための「かたち」すなわち儀式が必要なのです。
『儀式論』を掲げました
わたしは『儀式論』(弘文堂)を書くにあたり、「なぜ儀式は必要なのか」について考えに考え抜きました。そして、儀式とは人類の行為の中で最古のものであることに注目しました。ネアンデルタール人だけでなく、わたしたちの直接の祖先であるホモ・サピエンスも埋葬をはじめとした葬送儀礼を行いました。人類最古の営みは他にもあります。石器を作るとか、洞窟に壁画を描くとか、雨乞いの祈りをするとかです。しかし、現在において、そんなことをしている民族はいません。儀式だけが現在も続けられているわけです。最古にして現在進行形ということは、普遍性があるのではないか。ならば、人類は未来永劫にわたって儀式を続けるはずです。

人間には「礼欲」がある!
じつは、人類にとって最古にして現在進行形の営みは、他にもあります。食べること、子どもを作ること、そして寝ることです。これらは食欲・性欲・睡眠欲として、人間の「三大欲求」とされています。つまり、人間にとっての本能です。わたしは、儀式を行うことも本能ではないかと考えます。いわば「礼欲」です。ネアンデルタール人の骨からは、葬儀の風習とともに身体障害者をサポートした形跡が見られます。儀式を行うことと相互扶助は、人間の本能なのです。この本能がなければ、人類はとうの昔に滅亡していたのではないでしょうか。そう、人間は「ホモ・フューネラル」なのです!
『RITUAL』を手に
わたしは「最も新しいものはAIですが、最も古く、最も普遍性のあるものは儀式です」と言いました。じつは現在、世界的に「儀式」が注目されています。最近、『儀式論』と内容が非常によく似た本を読みました。ブログ『RITUAL 人類を幸福に導く「最古の科学」』で紹介した本です。著者のディミトリス・クシガラタスは、コネチカット大学・実験的人類学研究室長。認知人類学者。南ヨーロッパとモーリシャスでフィールドワークを行った後、プリンストン大学、オーフス大学で役職を歴任し、マサリク大学・宗教実験研究研究所の所長を務めました。
『RITUAL』の内容を紹介
『RITUAL』のアマゾン内容紹介には、「世界を変えるための『最古の科学』が「儀式」だった――。生活や価値観が猛スピードで変化する現代。昔からある『儀式』は単調で、退屈で、無意味にみえる。でも、ほんとうに? 認知人類学者の著者は熱した炭の上を歩く人々の心拍数を測り、インドの祭りでホルモンの増減を測定。フィールドに実験室を持ち込んで、これまで検証されてこなかった謎めいた儀式の深層を、認知科学の手法で徹底的に調査する。ハレとケの場、両方にあふれる「儀式」の秘密と活用のヒントを探究する空前の書」と書かれています。
人類にとって儀式とは何か?

熱心に聴く人びと
同書の第1章では、「儀式は私たちの社会的慣習のほぼすべての根本にある」として、著者は「小槌を振る裁判官や、就任宣誓をする新大統領を思い浮かべてみるだけでもわかるだろう。軍隊でも政府機関でも企業でも、入所式やパレードというかたちで、また忠誠を誓うためにより手間のかかるかたちで儀式が執り行われる。重要な試合でいつも同じソックスを身に着けるスポーツ選手や、高額な賞金がかかるとサイコロにキスしたり幸運のお守りを握りしめたりするギャンブラーもいる。日々の生活のなかで、私たちはみな儀式を行っている。乾杯のときにグラスを掲げ、卒業式に出席し、誕生日会に参加する。儀式は、太古から人々に必要とされ、これから見ていくように人類の文明のなかできわめて重要な役割を果たしてきた」と具体例を挙げています。
コロナからココロへ!
また、わたしたちが今日享受している快適さが近い将来脅かされることはないと考える根拠はないといいます。それどころか、新型コロナウイルス感染症のパンデミックは、現代の人間の存在がどれほど脆弱なものかを浮き彫りにしました。これらの事実を踏まえて、著者は「これは、激動の時代が始まる予兆にすぎないのかもしれない。さらに、持続不可能な成長と地球資源の過剰利用、気候危機、政治的失敗が拍車をかけている。もしそのとおりなら、来るべき暗黒の時代は、これまで以上に儀式の力に頼ることになるかもしれない。心を平安にして連帯を育み、そしてこの世界は意義があり継続していくという感覚を生み出すためだ」と述べています。拙著『心ゆたかな社会』(現代書林)の帯に使った「コロナからココロへ」というキャッチコピーを思い出します。

冠婚葬祭には哲学が必要!
ブログ「冠婚葬祭財団・歴代理事長座談会」で紹介した座談会では、ある歴代理事長が「これからの冠婚葬祭に必要なものは哲学だ」と言っていました。それなら、わが社のお家芸であります。最近、わたしがこれまで世に送り出してきた多くのハートフル・キーワード、いわば「礼の言霊」を二分間ほどの動画にしてYouTubeにアップしています。「儀式の意味や重要性がわかりやすく説明されている」と、冠婚葬祭業界をはじめとして話題となっているようですが、じつはこの動画、生成AIで作成しています。AIという最新の科学を駆使して、儀式という最古の科学をプレゼンテーションしているわけです。
最新の科学・AIと最古の科学・RITUAL
わたしは「“AI”と“RITUAL”が対比されているように、生成AIがますます発展すれば、人間にしかできない代表的営為である儀式に対する重要性は高まっていくでしょう。そもそも、儀式は何のためにあるのか。儀式が最大限の力を発揮するときは、人間の「こころ」が不安定に揺れているときです。もともと「ころころ」が語源であるという説があるぐらい、「こころ」は不安定なものなのです。まずは、この世に生まれたばかりの赤ちゃんの「こころ」。次に、成長していく子どもの「こころ」。そして、大人になる新成人者の「こころ」。それらの不安定な「こころ」を安定させるために、初宮参り、七五三、成人式、結婚式があります。
カタチにはチカラがある!

熱心に聴く人びと
さらに、老いてゆく人間の「こころ」も不安に揺れ動きます。なぜなら、人間にとって最大の不安である「死」に向かってゆく過程が「老い」だからです。しかし、日本には老いゆく者の不安な「こころ」を安定させる一連の儀式として、長寿祝いがあります。そして、人生における最大の儀式としての葬儀がある。葬儀とは「物語の癒し」です。愛する人を亡くした人の「こころ」は不安定に揺れ動きます。「こころ」が動揺していて矛盾を抱えているとき、儀式のようなきちんとまとまった「かたち」を与えないと、人間の「こころ」はいつまでたっても不安や執着を抱えることになります。このように、カタチにはチカラがあるのです。
「慈礼」の発見
しかし、「かたち」としての儀式というものは形骸化することがあります。それは避けなければなりません。そこで、「慈礼」というものが大切になります。「慇懃無礼」という言葉があるくらい、「礼」というものはどうしても形式主義に流れがちです。また、その結果、心のこもっていない挨拶、お辞儀、笑顔が生れてしまいます。「礼」が形式主義に流れるのを防ぐために、孔子は音楽を持ち出して「礼楽」というものを唱えましたが、わたしたちが日常生活や日常業務の中で、いつもいつも楽器を演奏したり歌ったりするわけにもいきません。ならば、どうすればいいでしょうか。わたしは、「慈」という言葉を「礼」と組み合わせてはみることを思い立ちました。われながら、グッド・アイデア!
「慈礼」について
「慈」とは何か。それは、他の生命に対して自他怨親のない平等な気持ちを持つこと。もともと、アビダルマ教学においては「慈・悲・喜・捨」(じ・ひ・き・しゃ)という四文字が使われ、それらは「四無量心」、「四梵柱」などと呼ばれます。「慈」とは「慈しみ」、相手の幸福を望む心です。「悲」とは「憐れみ」、苦しみを除いてあげたいと思う心です。「喜」とは「随喜」、相手の幸福を共に喜ぶ心です。「捨」とは「落ち着き」、相手に対する平静で落ち着いた心です。ブッダの慈しみは、イエス愛も超える」と言った人がいましたが、仏教における「慈」の心は人間のみならず、あらゆる生きとし生けるものへと注がれます。
慈礼を追求していきたい!
「慈」という言葉は、他の言葉と結びつきます。たとえば、「悲」と結びついて「慈悲」となり、「愛」と結びついて「慈愛」となります。さらには、儒教の徳目である「仁」と結んだ「仁慈」というものもあります。わたしは、「慈」と「礼」を結びつけたいと考えました。すなわち、「慈礼」という新しいコンセプトを提唱したいと思います。逆に「慈礼」つまり「慈しみに基づく人間尊重の心」があれば、心のこもった挨拶、お辞儀、笑顔、そして冠婚葬祭サービスの提供が可能となります。サンレーの経営理念「S2M」の1つである「お客様の心に響くサービス」が実現するわけです。今後も、わたしは「慈礼」を追求していきたいと思います。
冠婚葬祭業は、多くの人を幸せにできる!
最後は、もちろん一同礼!
わたしは「『慈』はブッダの思想の核心であり『礼』は孔子の思想の核心です。つまり『慈礼』とは、ブッダと孔子のコラボであるということができます。また、『慈礼」はキリスト教の「ホスピタリティ」という言葉と同義語でもあります。また、神道的世界から生まれたとされる「おもてなし」という言葉にも通じます。そう、「慈礼」も「ホスピタリティ」も「おもてなし」とは「慈悲」や「仁」や「隣人愛」や「情」といった目には見えない大切な「こころ」を「かたち」にしたものなのです。そして、それらは宗教や民族や国家を超えた普遍性を持っているのです。最後に、わたしは「冠婚葬祭という聖なる仕事は、多くの人を幸せにできます。この仕事に誇りを持って、さらに精進しましょう!」と言ってから降壇しました。
懇親会で挨拶しました
今夜は大いに飲んで下さい!
乾杯の音頭を取る郡取締役
お疲れさま、カンパ~イ!
社長講話の後は、松柏園ホテルの「松柏の間」で懇親会が開催。最初にわたしが「これから、わたしたちはわたしたちは食事をします。『食事』という文字は『人に良い事』と書きます。一緒に食事をしたり、盃を交わすのは腹を割った人間関係をつくる最高の方法です。みなさんはよく頑張っていますが、さらに高い目標を持って前進していただきたい。これらのコンパッション時代を先取りして、業界のフロントランナーになりましょう!」と述べました。それから、葬祭副本部長である北陸本部の郡取締役の音頭で乾杯しました。

みんな元気です!
懇親会のようす
懇親会のようす
懇親会のようす
その後、各地から参集したみなさんは、お酒や料理を楽しみながら会話の花を咲かせました。久しぶりに再会した葬祭責任者も多く、松柏園の美味しい料理に舌鼓を打ちながら互いに近況報告をしたり、それぞれの仕事の悩みを相談したり・・・・・・まさに「食事」は「人に良い事」であると再認識しました。「ここにいる彼らが、冠婚葬祭という『文化の核』を守ってくれる『文化の防人』なのだ」と思うと、胸が熱くなりました。

差しつ差されつ・・・・・・

中締めは谷上取締役
中締めは、「末広がりの五本締め」で!
「末広がりの五本締め」で「こころ」は1つに!
楽しい懇親会も終わりに近づきました。
最後は、宮崎事業部の谷上取締役による中締めの挨拶でした。サンレー・オリジナルの「末広がりの五本締め」で締めました。これをやると、みんなの心が本当に1つになる気がします。コロナ禍の頃にはオンライン飲み会など開かれましたが、やはりリアル・コンパはいいね!
二次会で挨拶する大谷部長

カンパ~イ!
今夜は大いに飲もうじゃないか!

ちょっとだけスピーチしました!
その後、二次会も開かれました。会場は、いつもの加藤唐九郎作の大陶壁「万朶」の前のラウンジではなく、新館ヴィラルーチェの「ザ・テラス」」で開かれました。この空間に初めて足を踏み入れたメンバーも多く、みんな大感激していました。北陸本部の大谷部長の音頭で乾杯し、ハイボールのグラスを高く掲げました。途中、わたしも少しだけスピーチして、大事なメッセージを伝えました。この日は、みんなの「こころ」が1つになりました。誇り高き同志たちよ、これからも一緒に頑張ろう!

2025年11月13日 佐久間庸和 拝