日本赤十字社講演

11日の13時から、日赤豊寿園家族会の勉強会に招かれ、講演しました。
ブログ「社会福祉協議会講演」で紹介した講演会に続く、連日の出陣です。
会場は、日本赤十字社福岡支部特別養護老人ホーム豊寿園です。昨日は作家・一条真也としての講演でしたが、今日は株式会社サンレーの社長である佐久間庸和としての講演です。わたしは、社章とサンレー創立50周年バッジを胸につけて講演会場に向かいました。


日本赤十字社福岡支部特別養護老人ホーム豊寿園の前で

日本赤十字社福岡支部特別養護老人ホーム豊寿園の入口で

書籍販売コーナー(たくさん売れました!)

勉強会がスタートしました

冒頭で挨拶する吉田会長

みなさん、こんにちは!



冒頭、同会の吉田会長から挨拶がありました。
続いて、森園長より講師紹介がありました。
それから、講師としてわたしが登壇しました。わたしは最初に「みなさん、こんにちは。今日は日本赤十字社さまと御縁をいただき、まことに光栄です。わたしは『心ゆたかな社会』の実現を夢見ているのですが、人類の歴史において赤十字が果たした功績はあまりにも偉大です。心より敬意を抱いております」と述べました。それから壁に「人間を救うのは、人間だ」「今、救わなくては」という横断幕が掲げられていることに触れ、「まさに『人間を救うのは、人間だ』と、わたしも思います。『ハートフル・ソサエティ』という本にも書きました」と言いました。


壁に掲げられた日本赤十字社の横断幕

人間を救うのは、人間だ。今、救わなくては。

ハートフル・ソサエティ

ハートフル・ソサエティ

また、わたしは「昨日の講演で、『アンチエイジング』という言葉についての異論を唱えました。これは『老い』を否定する考え方ですが、これは良くありませんね」と述べました。そして、わたしは「老いと死があってこそ人生!」という話をしました。サミュエル・ウルマンの「青春」という詩がありますが、その根底には「青春」「若さ」にこそ価値があり、老いていくことは人生の敗北者であるといった考え方がうかがえます。おそらく「若さ」と「老い」が二元的に対立するものであるという見方に問題があるのでしょう。「若さ」と「老い」は対立するものではなく、またそれぞれ独立したひとつの現象でもなく、人生というフレームの中でとらえる必要があります。


さあ、講演のスタートです!

サミュエル・ウルマンの「青春」を紹介



理想の人生を過ごすということでは、南宋の朱新仲が「人生の五計」を説きました。それは「生計」「身計」「家計」「老計」「死計」の5つのライフプランです。朱新仲は見識のある官吏でしたが、南宋の宰相であった秦檜に憎まれて辺地に流され、その地で悠々と自然を愛し、その地の人々に深く慕われながら人生を送ったといいます。そのときに人間として生きるための人生のグランドデザインとでも呼ぶべき「人生の五計」について考えたのでした。


老いと死があってこそ人生!

「人生の五計」について



「生計」とは、いかに天地の大徳を受けて、人生を元気に生きいきと生きるかを考えて生活することです。「身計」とは、いかに身を立てるべきか、世に処すべきか、志を立てるべきかということです。「家計」とは、家庭生活をいかに営むか、夫婦関係や家族関係はどうあるべきか、一家をいかに維持するかを考えて暮らすことです。「老計」とは、いかに年を取るべきかを考えて生きること、「老い」の価値を生かして生きることです。そして、最後の「死計」とは、いかに死ぬかを考えて生きることです。


老年期は実りの秋である!



それからわたしは、「老年期は実りの秋である!」という話をしました。今年の夏は本当に暑かったですね。わたしは50代の前半ですが、若い頃と違って暑さが体にこたえます。昔は夏が好きだったのですが、今では嫌いになりました。四季の中では、秋が好きです。古代中国の思想では人生を四季にたとえ、五行説による色がそれぞれ与えられていました。すなわち、「玄冬」「青春」「朱夏」「白秋」です。それによると、人生は冬から始まります。まず生まれてから幼少期は未来の見えない暗闇のなかにある。そんな幼少期に相当する季節は「冬」であり、それを表す色は原初の混沌の色、すなわち「玄」です。玄冬の時期を過ぎると大地に埋もれていた種子が芽を出し、山野が青々と茂る春を迎えます。これが「青春」です。この青春の時期を過ごす人を青年といいます。そして青年が中年になると夏という人生の盛りを迎えます。燃える太陽のイメージからか色は「朱」が与えられています。中年期を過ぎると人生は秋、色は「白」が与えられ、高齢期は「白秋」とされるのです。


インドの「四住期」について



インドにも「老い」をテーマにしたライフライクルがありました。
ヒンドゥー教の「四住期」という考え方です。これは理想的な人生の過ごし方というべきもので、人間の一生を「学生期」「家住期」「林住期」「遊行期」の4つの段階に分けて考えます。最後の遊行期は、この世へのいっさいの執着を捨て去って、乞食となって巡礼して歩き、永遠の自己との同一化に生きようとしたのです。


超高齢社会をどうとらえるか

古代ローマの「好老社会」について

江戸の「好老社会」について

人は老いるほど豊かになる



こうして歴史をひもといていくと、人類は「いかに老いを豊かにするか」ということを考えてきたといえます。「老後を豊かにし、充実した時間のなかで死を迎える」ということに、人類はその英知を結集してきたわけです。人生80年時代を迎え、超高齢化社会現代日本は、人類の目標とでもいうべき「豊かな老後」の実現を目指す先進国になることができるはずです。その一員として、実りある人生を考えていきたいものです。


終活ブームの背景



それから、わたしは「終活」についての考えを述べました。
これまでの日本では「死」について考えることはタブーでした。でも、よく言われるように「死」を直視することによって「生」も輝きます。その意味では、自らの死を積極的にプランニングし、デザインしていく「終活」が盛んになるのは良いことだと思います。
ところが、その一方で、わたしには気になることもあります。
「終活」という言葉には何か明るく前向きなイメージがありますが、わたしは「終活」ブームの背景には「迷惑」というキーワードがあるように思えてなりません。


家族とは迷惑をかけ合うものです!

満員になりました!



わたしは大きめの声で、次のように訴えました。
「そもそも、家族とはお互いに迷惑をかけ合うものではないでしょうか。
子どもが親の葬式をあげ、子孫が先祖の墓を守る。
当たり前ではないですか。そもそも“つながり”や“縁”というものは、互いに迷惑をかけ合い、それを許し合うものだったはずです。


「面倒くさいこと」の中にこそ幸せがある

「終活の流れ」について説明



「迷惑をかけたくない」という言葉に象徴される希薄な“つながり”。
日本社会では“ひとりぼっち”で生きる人間が増え続けていることも事実。
しかし、いま「面倒なことは、なるべく避けたい」という安易な考えを容認する風潮があることも事実です。こうした社会情勢に影響を受けた「終活」には「無縁化」が背中合わせとなる危険性があることを十分に認識すべきです。この点に関しては、わたしたち一人ひとりが日々の生活の中で自省する必要もあります」


会場は熱気ムンムン!

決定版 終活入門

決定版 終活入門

いま、世の中は大変な「終活ブーム」です。
多くの犠牲者を出した東日本大震災の後、老若男女を問わず、「生が永遠ではないこと」そして必ず訪れる「人生の終焉」というものを考える機会が増えたことが原因とされます。多くの高齢者の方々が、生前から葬儀や墓の準備をされています。
また、「終活」をテーマにしたセミナーやシンポジウムも花ざかりで、わたしも何度も出演させていただきました。さらに、さまざまな雑誌が「終活」を特集しています。ついには日本初の終活専門誌「ソナエ」(産経新聞出版社)まで発刊され、多くの読者を得ています。わたしも同誌で「一条真也の老福論」というエッセイを連載しています。


「終活」から「修活」へ



このようなブームの中で、気になることもあります。それは、「終活」という言葉に違和感を抱いている方が多いことです。特に「終」の字が気に入らないという方に何人も会いました。もともと「終活」という言葉は就職活動を意味する「就活」をもじったもので、「終末活動」の略語だとされています。ならば、わたしも「終末」という言葉には違和感を覚えてしまいます。死は終わりなどではなく、「命には続きがある」と信じているからです。
そこで、わたしは「終末」の代わりに「修生」、「終活」の代わりに「修活」という言葉を提案しました。「修生」とは文字通り、「人生を修める」という意味です。よく考えれば、「就活」も「婚活」も広い意味での「修活」ではないでしょうか。学生時代の自分を修めることが就活であり、独身時代の自分を修めることが婚活です。そして、人生の集大成としての「修生活動」があります。


人は死なない

「遺体」の本当の意味とは?



有史以来、「死」は、わたしたち人間にとって最重要テーマでしたし、それは現在も同じです。わたしたちは、どこから来て、どこに行くのか。そして、この世で、わたしたちは何をなし、どう生きるべきなのか。これ以上に重要な問題など存在しません。 なぜ、自分の愛する者が突如としてこの世界から消えるのか、そして、この自分さえ消えなければならないのか。これほど不条理で受け容れがたい話はありませんね。これまで数え切れないほど多くの宗教家や哲学者が「死」について考え、芸術家たちは死後の世界を表現してきました。医学や生理学を中心とする科学者たちも「死」の正体をつきとめようとして努力してきました。「死」こそは人類最大のミステリーです。


「修める」という心構え

人生をアートのように美しく!



かつての日本は、たしかに美しい国でした。
しかし、いまの日本人は「礼節」という美徳を置き去りし、人間の尊厳や栄辱の何たるかも忘れているように思えてなりません。それは、戦後の日本人が「修行」「修養」「修身」「修学」という言葉で象徴される「修める」という覚悟を忘れてしまったからではないでしょうか。老いない人間、死なない人間はいません。死とは、人生を卒業することであり、葬儀とは「人生の卒業式」にほかなりません。老い支度、死に支度をして自らの人生を修める。この覚悟が人生をアートのように美しくするのではないでしょうか。


サンレー」の社名について


それから、「サンレー」という社名の意味、冠婚葬祭というものの本質、および人生の最期のセレモニーである「葬儀」というものの意義について話しました。葬儀という儀式は、何のためにあるのでしょうか。遺体の処理、霊魂の処理、悲しみの処理、そして社会的な処理のために行われます。私たちはみんな社会の一員であり、1人で生きているわけではありません。その社会から消えていくのですから、そんな意味でも死の通知は必要なのです。社会の人々も告別を望み、その方法が葬儀なのです。


自分の葬儀を想像する



続いて、誰でもが実行できる究極の「修活」についてもお話しました。
それは、自分自身の理想の葬儀を具体的にイメージすることです。
親戚や友人のうち誰が参列してくれるのか。そのとき参列者は自分のことをどう語るのか。理想の葬儀を思い描けば、いま生きているときにすべきことが分かります。参列してほしい人とは日ごろから連絡を取り合い、付き合いのある人には感謝することです。生まれれば死ぬのが人生です。死は人生の総決算。葬儀の想像とは、死を直視して覚悟することです。覚悟してしまえば、生きている実感がわき、心も豊かになります。


入棺体験のすすめ



自分の葬儀を具体的にイメージするとは、どういうことか?
それは、その本人がこれからの人生を幸せに生きていくための魔法です。わたしは講演会などで「ぜひ、自分の葬義をイメージしてみて下さい」といつも言います。友人や会社の上司や同僚が弔辞を読む場面を想像することを提案するのです。そして、「その弔辞の内容を具体的に想像して下さい。そこには、あなたがどのように世のため人のために生きてきたかが克明に述べられているはずです」と言いました。葬儀に参列してくれる人々の顔ぶれも想像するといいでしょう。そして、みんなが「惜しい人を亡くした」と心から悲しんでくれて、配偶者からは「最高の連れ合いだった。あの世でも夫婦になりたい」といわれ、子どもたちからは「心から尊敬していました」といわれる。自分の葬儀の場面というのは、「このような人生を歩みたい」というイメージを凝縮して視覚化したものなのです。その理想のイメージを現実のものにするには、あなたは残りの人生を、そのイメージ通りに生きざるをえないことがおわかりかと思います。これは、まさに「死」から「生」へのフィードバックではないでしょうか。よく言われる「死を見つめてこそ生が輝く」とは、そういうことだと思います。人生最期のセレモニーである「お葬式」を考えることは、その人の人生のフィナーレの幕引きをどうするのか、という本当に大切な問題です。


日本人の他界観について

さまざまな送られ方

月面葬について説明

ご清聴ありがとうございました!



さらに、新時代の葬儀についても話しました。
日本の葬儀は、実にその9割以上を仏式葬儀によって占められています。
ところが最近になって、仏式葬儀を旧態依然の形式ととらえ、もっと自由な発想で故人を送りたいという人々が増えています。今のところは従来の告別式が改革の対象になって、「お別れ会」などが定着しつつあります。やがて、通夜や葬儀式にも目が向けられ、故人の「自己表現」や「自己実現」が図られていくに違いありません。
みなさん、たいへん興味深い様子で聴いて下さいました。
最後に、わたしは「みなさんも、ご自分の『送られ方』を考えて下さい。そして、ご自分なりの方法で人生を修めていただきたいと思います」と述べ、講演を締めくくりました。


1人目の質問を受ける

真摯にお答えいたしました



講演後は、質疑応答の時間です。3人の方から手が挙がりました。1人目は女性の方で、「いま、無縁仏がどんどん増えています。このような無縁仏に対して、どのような供養の方法が考えられるでしょうか?」という質問でした。2人目も女性の方で、「わたしは海が好きです。海洋葬のお話に興味を抱きました。自分が好きな海なら、どこでも散骨できるのでしょうか?」という質問でした。わたしは、それらの質問に対して真摯に答えさせていただきました。


3人目の質問を受ける

盛大な拍手を頂戴しました



3人目は白髪の男性の方で、「うちの子は結婚していません。わたしの墓は将来どうなるのでしょうか?」という質問でした。わたしは「血縁が途切れる場合は、地縁の出番です。ぜひ、近所に住む隣人とお墓参りをし合う習慣づくりをしたいものですね」とお答えました。その方はさらに「いとこが大阪にいるのですが、墓参りをしてくれるでしょうか? 子どもは東京に行ったきり、帰ってきません」と言われるので、わたしは「それぞれの家庭の御事情はわかりませんが、血縁が途切れているわけではないので、ぜひご親族で一度話し合われてみてはいかがでしょうか?」と笑顔で答えました。質疑応答が終わると、盛大な拍手を頂戴して感激しました。



*よろしければ、「一条真也の新ハートフル・ブログ」もどうぞ。



2016年11月11日 佐久間庸和