井上馨像

世界各地、そして日本各地に建立されている聖人や偉人の銅像
わたしは銅像を観るのが三度の飯より好きです。名所旧跡を訪れて銅像を見つけると狂喜乱舞し、一緒に記念撮影をせずにはおれません。銅像が「どーぞー、一緒にお写り下さい!」と誘いかけてくるのです。わたしはさまざまな銅像と対峙しながら、そこに建立せずにはおられなかった先人を慕う人々の熱い想いを感じてしまいます。


井上馨

井上公園にて



先日、全互連の西日本ブロック会議に参加するために山口の湯田温泉を訪れましたが、この地の「井上公園」には明治の元勲・井上馨銅像が建立されています。井上の旧宅「何遠亭」があったことから井上公園という名称になっています。


七卿遺蹟之碑の前で

七卿遺蹟之碑の説明看板



幕末の「七卿落ち」で京都から追放された三条実美ら7名の公卿が一時滞留した場所でもあり、公園内には「七卿の碑」があります。
ちなみに七卿落ちとは、八月十八日の政変会津藩薩摩藩公武合体派により、長州藩を中核とする尊皇攘夷派、それを支持していた公卿7名が京都から追放されたクーデター事件ですね。


井上馨

井上馨侯碑建立の碑文



現在の銅像は二代目であり、初代は第二次世界大戦中に発令された金属類回収令によって供出の憂き目に遭っています。
公益財団法人 山口県ひとづくり財団、通称「平成の松下村塾」の公式HPでは「山口県の先人たち」を顕彰するコーナーがあります。その中で井上馨は「不平等条約改正のため鹿鳴館外交を展開」という見出しで紹介されていますが、要約すると以下のとおりです。
「幕末の萩藩士・明治時代の政治家  1835(天保6)年〜1915(大正4)年
吉敷郡湯田村(現 山口市湯田温泉)で萩藩士の子として生まれる。萩藩の藩校『明倫館』に学び、藩主に従って江戸へ行くと蘭学を学び、海防に関心を持つ。1863(文久3)年、伊藤博文らとともに、いわゆる長州ファイブの1人として英国に密航留学するが、藩が欧米の船を攻撃したことを知り、急遽帰国。1864(元治元)年、幕府によって第1次長州征討の命令が下されると、萩藩内の保守派と対立して襲撃されて、瀕死の重傷を負う。
明治維新後、大蔵大輔として国立銀行を設置し、三井などの政商を保護する政策を進める。第1次伊藤博文内閣では外務大臣を務め、幕末に幕府が欧米諸国と結んだ不平等条約の改正に取り組む。その交渉を外国と進めるにあたり、欧米の制度や服装、生活様式を積極的に取り入れる欧化政策をとり、『鹿鳴館』では政府の高官が国内外の紳士淑女を招待して大舞踏会や慈善バザーなどを開催する。 また、日本鉄道会社や日本郵船会社の設立に力を尽くし、三井や、藤田伝三郎の藤田組などの財閥の顧問を務め、満79歳で亡くなるまで、政界や財界に強い影響力を持ち続けた」


幕末の志士らしい「いい顔」をしています



幕末維新期には、吉田松陰高杉晋作坂本龍馬西郷隆盛大久保利通勝海舟など、実に多くの傑出した人物が輩出されます。まさに百花繚乱の如し。そのせいもあってか、井上に限りませんが、伊藤博文山縣有朋など、明治期に活躍した元勲たちにはB級なイメージが抱いてしまいがちです。
しかし、かの高杉晋作をして「自分たちは士分だが、もし腰の大小を取り上げられたなら、自分たちは乞食同様に食い詰めるだろうが、井上だけは飯を食うことができる」と言わしめるほど、若い時分より才覚があったようです。



井上馨といえば、2006年に公開された日本映画「長州ファイブ」では北村有起哉が演じていましたが、この映画は第40回ヒューストン国際映画祭でグランプリを受賞しています。「長州ファイブ」は、1863年(文久3年)、長州藩から派遣されてヨーロッパに秘密留学した井上馨、遠藤謹助、山尾庸三、伊藤博文、井上勝、長州藩士5人を描いたもの。この留学には大きな問題がありました。それは一人当たりの滞在費が1000両程度かかるにもかかわらず、長州藩の支給額は一人300両しかなかったこと。この差額を調達したのが井上だったのです。なんと長州藩の御用掛金を担保にして豪商・大黒屋から5000両を借り入れるのですが、理財の才もさることながら肚の据わった人物であったことがわかります。しかし、井上は大蔵大輔時代に「尾去沢銅山事件」で世間から糾弾されることになります。


井上馨銅像の前で



Wikipediaで、この事件の概略が簡潔に説明されています
「江戸末期、財政危機にあった南部藩は御用商人鍵屋村井茂兵衛から多額の借財をなしたが、身分制度からくる当時の慣習から、その証文は藩から商人たる鍵屋茂兵衛に貸し付けた文面に形式上はなっていた。1869年(明治元年)、採掘権は南部藩から鍵屋茂兵衛に移されたが、諸藩の外債返済の処理を行っていた明治新政府で大蔵大輔の職にあった長州藩出身の井上馨は、1871年(明治4年)にこの証文を元に返済を求め、その不能をもって大蔵省は尾去沢鉱山を差し押さえ、鍵屋茂兵衛は破産に至った。井上はさらに尾去沢鉱山を競売に付し、同郷人である岡田平蔵にこれを買い取らせた上で、『従四位井上馨所有』という高札を掲げさせ私物化を図った。鍵屋茂兵衛は司法省に一件を訴え出、司法卿であった佐賀藩出身の江藤新平がこれを追及し、井上の逮捕を求めるが長州閥の抵抗でかなわず、井上の大蔵大輔辞職のみに終わった」


銅像に学ぶ先人の志



しかし、同時代人であった大隈重信は井上を次のように評しています。
「一旦紛糾に処するとたちまち電光石火の働きを示し、機に臨み変に応じて縦横の手腕を振るう。ともかく如何なる難問題も氏が飛び込むと纏まりがつく。氏は臨機応変の才に勇気が備わっている。短気だが飽きっぽくない」
「功名心には淡白で名などにはあまり頓着せず、あまり表面に現れない。井上氏は伊藤(博文)氏よりも年長であり、また藩内での家格も上で、維新前は万事兄貴株で助け合ってきたらしい。元来が友情に厚く侠気に富んだ人であるから、伊藤氏にでも頼まれると、割の悪い役回りにでも甘んじて一生懸命に働いた。井上氏がしばしば世間の悪評を招いた事の中にはそういう点で犠牲になっているような事も多い」
(以上、Wikipedia「井上馨」より)


井上馨の旧宅「何遠亭」にて



また、ドイツ公使アイゼンデッヒャーは「前外務卿(寺島宗則)よりよく、温和で礼儀正しい人物であった」と述べていたといいます。どのような偉人であっても、在世中は「毀誉褒貶」は世の常であり、「晩節を汚す」という言葉があるとおり、死ぬまで確定することはありません。「蓋棺事定」とはよくいったものです。井上馨を顕彰する人々がいなかったなら、銅像が建立されるはずはありません。歴史に名を遺すほどの人物から学ぶべきことがないというのでは、あまりにも不遜ではないでしょうか。好き嫌いはあったとしても「誰からでも学ぶ度量」を持ちたいと考えます。



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2016年11月10日 佐久間庸和