たった一字に深い意味を秘めている文字は、世界でも漢字だけです。
そこには、人のこころを豊かにする言霊が宿っています。
その意味を知れば、さらに、こころは豊かになるでしょう。
今回ご紹介するハートフル・キーワードは、「狂」です。



日本におけるイノベーションの成功例は、かつてNHKの番組「プロジェクトX」などで紹介されています。番組を見ていて気づかされたのは、画期的な新商品を開発した人々がほとんど「狂」の境地に到達していることでした。ゴルフでも、シングル・プレーヤーになるには1年くらいは狂ったように練習しなければならないなどと言われますが、熾烈なビジネスの世界でイノベーションを起こすのに必要なエネルギーは並大抵ではなく、当然ながらゴルフなどの比ではありません。



国家レベルのイノベーションは、レボリューションと言われます。革命です。日本の明治維新は世界史的に見ても、さまざまな意味で奇跡的な革命と呼ばれますが、そのスイッチャーとなったのは長州の吉田松陰、そして彼が主催する松下村塾の人々でした。松陰は、志とは、どんなに邪魔が入っても、打ちのめされても、孤立しても、それでも貫かねばならないものだと考えていました。そのためには、たとえ「狂」のそしりを受けても構わないのです。



「狂」は崇高な境地です。変革を望み、志を胸に時代の先端に立ち続ける者たちの言動は、必ずしも周囲に理解されるわけではありません。いや、まず理解されないのが自然でしょう。松陰および門下生は、当時は「志士」ではなく、「乱民」と呼ばれ、周囲から白眼視されたそうです。松陰は、絶大な権力である徳川幕府を激しく批判する、あるいは老中など権力者の暗殺を企む、きわめて危険な「乱民」なのでした。



当然、松下村塾に息子が通うのに、反対する親は多く、松下村塾に通っているというだけで、当人はもちろん、家族までが「乱民」として近所から村八分に遭ったという話も残っているほどです。言うなれば、当時の松下村塾とはオウム真理教のごとき危険きわまりない反社会的テロ集団であると見られていたのです。もちろん、わたしはオウムを擁護しているわけではまったくありませんので誤解なきように・・・・・・。それほど松下村塾は周囲から理解を得られませんでした。それでもなおかつ、誰にも理解されないものを、純粋な心をもって真剣に見つめ、進んでいるからこそ先覚者なのです。最初から誰からも理解され、支持されている先覚者など、ありえません。



『松陰と晋作の志』(ベスト新書)の著者である一坂太郎氏は、その厳しい宿命を、松陰たちは「狂」の境地に達することで受け入れたのだと述べています。人々は、先覚者を先覚者とは気づかずに、狂っていると考えます。そんな周囲の雑音に惑わされ、志を曲げないためにも、先覚者は自分が狂っているのだと、ある種開き直る必要があったのです。先覚者を気取り、変革、改革を連呼して支持率を上げようとする現代の政治家とは、根本が違うのです。



松陰の影響もあり、幕末長州の若者たちは、好んで自分の行動や号に、「狂」の文字を入れあした。彼らの遺墨を見ると、高杉晋作は「東行狂生」、木戸孝允桂小五郎)は「松菊狂夫」などと署名しています。慎重居士の代表のように言われる山県有朋でさえ、幕末の青年時代には「狂介」と称していました。一坂氏の著書では、題名の通りに、松陰と晋作の志が情熱的に語られています。松下村塾にも、志がありました。過激な言動が祟り、再び獄に繋がれることになった松陰は、門下生たちに漢詩を残して訴えました。



長門の国は日本の僻地です。しかも、松本村は、その僻地の中のさらなる僻地にあります。しかし、ここを世界の中心と考え、励もうではないか。そうすれば、ここから天下を「奮発」させ、諸外国を「震動」させることができるかもしれない。あまりにも壮大な志です。しかし、松本村の小屋に近所の子どもたちを集めて教えているに過ぎない松陰が、こんなことを言っていると、案の定、周囲の者は狂っていると思ったに違いありません。どんなに好意的に見ても、若き松陰の青臭い理想でしかありません。しかし、この志は現実のものになっていきました。「乱民」と呼ばれながらも、「志を立てて万事の根源」とした者たちが、ついに時代を揺り動かしていったのです。



松陰はその晩年、ついに「狂」というものを思想にまで高め、「物事の原理性に忠実である以上、その行動は狂たらざるをえない」とずばり言いました。そういう松陰思想の中での「狂」の要素を体質的に受け継いだ者こそ、晋作でした。司馬遼太郎は、「晋作には、固有の狂気がある」と述べています。そして、その晋作の辞世の歌に題名が由来する司馬の『世に棲む日日』には、松陰に発した「狂」がついには長州藩全体に乗り移ったさまがドラマティックに描かれています。松陰が生きていた頃は、松陰一人が狂人でした。晋作がその「狂」を継ぎ、それを実行し、そのために孤独でした。その晋作の「狂」を、藩も仲間もみなもてあましたのです。



ところが、藩が藩ぐるみで発狂してしまったのです。長州藩ひとつで、英仏独米という世界を代表する列強に戦争を仕掛けた「下関砲台事件」など、あまりにも馬鹿げた巨大な「狂」以外の何物でもありません。しかし、その巨大な「狂」が、人類史に特筆すべきレボリューションを実現したのです。企業においても、イノベーションの実現を真剣に考えるならば、まずは1人の狂人を必要とし、次第に狂人を増やし、最後は企業全体を発狂させねばなりません。



あの孔子でさえ、表面上「人格者」と呼ばれる者よりも、「狂者」と呼ばれる者に期待すると説いたことを書き加えておきます。わたし自身、天下布礼の志を果すためには狂者にならねばと思っております。また、次回作『儀式論』を書き上げるためには「儀式狂」になる覚悟です。
なお、「狂」については、『孔子とドラッカー 新装版』(三五館)に詳しく書きました。


孔子とドラッカー 新装版―ハートフル・マネジメント

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*よろしければ、「一条真也の新ハートフル・ブログ」もどうぞ。



2016年3月20日 佐久間庸和