97歳 私の戦争体験

金曜日の今日は、ロータリーの日です。わたしは、リーガロイヤルホテル小倉で開かれた小倉ロータリークラブの例会に参加しました。久々の例会参加です。


小倉ロータリーを訪れた三木さんと八坂さん



今日の例会は、わたしにとって特別な日でした。
なにしろ、世界平和パゴダをずっと守り続けてきた三木恭一さんが卓話をされるのです。介添え人として、世界平和パゴダ奉賛会の八坂和子副会長も来られました。八坂副会長は以前、小倉ロータリーで卓話をしていただいたことがあります。三木さんは、ブログ「安倍昭恵総理夫人講演会」で紹介した世界平和パゴダ支援の講演会の終了後に登壇され、安倍夫人に花束を渡された方です。その後の感動的なスピーチは今も心に残っています。



今日の例会では、新入会員の方が紹介されました。
日本中央競馬会小倉競馬場長の塩塚会員です。ブログ「さらば重松場長!」に書いたように、親しくさせていただいた小倉競馬場の重松裕之さんが転勤で退会され寂しい思いをしていましたが、その後継者として塩塚場長が来られたのです。紹介者である村上充生会員から「ダービーの季節に素晴らしい名馬が小倉ロータリーに来てくれました」とユーモアのある紹介を受け、塩塚さんは以下のような挨拶をされました。
「1960年生まれの54歳で、趣味は釣りとゴルフです。昭和58年に日本中央競馬会に入ったのですが、小倉の前々場長の吉崎も、前場長の重松も同期です。吉崎は半年、重松は1年半おりましたが、わたしは2年ぐらいいたいなと思っております。父が馬の獣医でして、競馬会と縁がありました。京都競馬場のすぐ近くで生まれ、千葉の中山競馬場のすぐ近くで育ちました。現在の自宅は東京競馬場の近くにあります。息子が2人いまして、この春からそれぞれ大学生と高校生になります。みなさま、どうぞ、よろしくお願いいたします!」


「ニコニコ献金」をしました



それから、「ニコニコ献金」の時間となりました。今日のニコニコは2件で、最初は村上会員の「JRA塩塚さんの入会を歓迎して」というものでした。次はわたしで、「三木さん、八坂さん、ようこそ! 三木さん、今日は心に残るお話を楽しみにしております」でした。


卓話のテーマは「97歳 私の戦争体験」でした

わたしが三木さんを紹介しました



そして、いよいよ三木さんの卓話の時間がやってきました。
卓話に先立って、わたしが登壇し、三木さんを紹介しました。三木さんは、大正7年4月16日、旧門司市にお生まれになられました。昨日がお誕生日で、97歳になられました。わたしが「お誕生日、おめでとうございます!」というと会場から盛大な拍手が起こりました。


三木さんの半生を紹介させていただきました



昭和13年12月、20歳の時、陸軍小倉歩兵第14部隊に入隊されました。
その後、昭和16年より、ビルマ戦線へ赴かれました。ビルマ戦線は、弾薬はおろか食料まで尽き果て、派兵された日本兵約30万人の内、約18万人が戦死されるという激戦地でした。
三木さんは、昭和20年8月の終戦を迎えるまで、ビルマの地で果敢に戦い抜かれ、昭和21年7月、ようやく日本へ帰国を果たされました。


それでは三木さん、よろしくお願いいたします!



帰国後、国鉄にご入社され、定年までお勤めになられました。
一方で、復員兵や戦没者遺族でつくられたビルマ戦友会の一員として、世界平和パゴダを長年に渡り支えてこられました。現在も世界平和パゴダの理事として、パゴダの維持・運営に尽力されておられます。わたしは「今年は終戦70周年ですが、今日は三木さんから貴重なお話しが伺えることと思います。それでは、よろしくお願いいたします!」と述べました。


堂々と卓話を行う三木さん



三木さんのお話は、非常に感動的な内容でした。
背筋をぴんと伸ばしたきれいな姿勢で大きな声で話す三木さんに、多くのロータリアンは圧倒されていました。また、高齢にもかかわらず、70年以上前の細かいエピソードをすべて憶えている記憶力の良さに仰天していました。


97歳の戦争体験をみんなで清聴しました



「97歳 私の戦争体験」と題する三木さんの卓話の内容は、以下の通りです。
「私が12歳で旧制中等学校へ通っていた当時、授業においては陸軍将校が火曜日と金曜日に派遣され、訓練を行ないました。1、2年生の頃は徒手での訓練を行い、3年生からは歩兵隊からの、払い下げ銃を使っての訓練でした。また、旧制中等学校では満州を見学してまわる旅も行なわれ、軍隊式で規則正しく、礼儀正しく満州見学をしました。
20歳になると、軍隊に行くよう法律で決まっていました。入隊の条件は厳しく、目は1.0以上、胸囲は85センチ以上、心臓が強いなど様々な項目がありましたが、私は入隊することができました。訓練で初めて実弾射撃場へ行った際には、まず、その広さ、そして、実弾発射と着弾の音の大きさに驚きました。男性でも腰が抜けて立てなくなる者がいるほどでした。戦争というものは大きな音がするもので、これを経験しておかないと実戦では役に立ちません。そういったことを入隊して学んでいったのです。


わたしも真剣に聴きました



「その後、門司港から満州に渡りました。小倉連隊はウラジオストックを攻撃する為にトーセーという都市に行きます。その頃、ノモンハン事件が起きます。我々が満州に入る2ヶ月前に張鼓峰事件もありました。国境付近での戦闘で、相手国は山上、日本軍は平地で不利な状況の上、ソ連はモスクワから優秀な人材や兵力を次々に投入してきました。一方、日本も当初は空爆など行なっていましたが、国境の防衛を最優先としました。それからも戦闘は続き、日本も総動員を決めました。ちょうどその時、停戦協定の話が出てきます。ソ連はドイツと協力しポーランドを分割するという約束をしていたのです。日本との停戦協定の翌日に、ソ連はドイツへ行きました。当時、日本の諜報能力は低く、相手の真意を見抜くことができませんでした」



「当時の日本陸軍内では、皇道派と統制派が反目を強めており、統制派が陸軍内の主導権をにぎると、皇道派を中央から退けました。これにより皇道派からの反発を招き、「二・二六事件」が起きました。統制派はそのほとんどが陸軍大学出身者でしたが、そのうち九割は陸軍幼年学校を出た者で、一般の学校からはほとんど入れませんでした。また、入ったとしても参謀本部などではなく海外への人事がなされていました。つまり、参謀本部は統制派が掌握していた訳です。参謀は作戦を立てますが、外国の状況や諜報能力の高さを知っている国外の日本兵の進言を聞かずに無謀な作戦をたてたため、不利な戦争となってしまいました。まさに、これが敗戦の理由だと考えています」


感動的な卓話でした





そして三木さんは「ビルマでの断作戦のお話をします」と述べ、以下のように話されました。
「連合国軍は援蒋ルートというレドから雲南まで、関東平野より広い範囲を、飛行機で軍事物資を輸送し、空いた飛行機に中国の青年を乗せアメリカ式の戦闘教育をして、日本兵の正面に進行してきました。そして、制圧した場所に油送管をつくり援助しようという作戦をたてていました。これを遮断するのが断作戦です。断作戦の命令では、30m以内でなければ発砲するな、10発までしか発砲するな、歩兵は3発までしか発砲するなという命令が下されました。つまり、作戦当初から弾薬の不足が分かっていた訳です。手榴弾は5発あり、4発は敵に投げますが残りの1発は自決用なんです。それほどまでにビルマ戦線は過酷な戦闘でした」
三木さんのお話から、リアルな戦争の様子がよくわかりました。
三木さんの愛する母国と戦友を想う気持ちが伝わってきました。
「二度と戦争を起こしてはならない」という平和への強い願いも伝わりました。


世界平和パゴダ支援をお願いする八坂さん



最後に、三木さんは「わたしにはもう命がありませんが、生ある限りパゴダのために尽くしたいと思います。ご支援よろしくお願いいたします」としっかりとした声で述べられました。
会場からは盛大な拍手が起こりました。わたしも、三木さんの卓話に深い感動を覚えました。この方がいたから、今日まで世界平和パゴダは存続してきたのです。三木さんの卓話の後、八坂さんが壇上に立たれ、世界平和パゴダへの支援のお願いをされました。
わたしは三木さんに「今日は素晴らしいお話をありがとうございました」と申し上げました。


高山さんが三木さんに語りかける

三木さんを囲んで記念撮影しました



例会終了後、帰り支度をする三木さんのもとに八坂神社の前宮司である高山定基さんが近寄ってきて語りかけられていました。高山さんは「ノモンハンでは、高山という者が一緒やなかったですか?」と質問されていました。どうやら、高山さんのご家族もノモンハンに行かれたようで、しばらく三木さんと高山さんは語り合っておられました。最後に、みんなで記念撮影をしました。三木さん、今日はお疲れ様でした。終戦70年の年に世界平和への想いが溢れるお話を聴けて、本当に良かったです。どうか、いつまでもお元気で!



*よろしければ、「一条真也の新ハートフル・ブログ」もどうぞ。



2015年4月17日 佐久間庸和