供養とは何か

18日は、早朝から松柏園ホテルの神殿で「月次祭」が行われました。
その後は、「平成心学塾」を開催しました。最初に、佐久間進会長が講話をしました。会長は、一昨日から世界平和パゴダで行われている「パターン祭」の話から始めました。


月次祭のようす

平成心学塾のようす



パターン祭は、ミャンマー各地で4〜6月、地域の人々が資金を出し合って僧侶を呼び、平和と安寧を願う祭りです。今回、日本で唯一の本格的なビルマ式寺院である世界平和パゴダの再開を祈念するために、ミャンマーなどから計17名の僧侶が門司に集まりました。僧侶たちは、第二次世界大戦戦没者東日本大震災犠牲者の供養、さらにはミャンマーと日本の友好親善のため、5月15日から19日までの5日間、昼夜連続で約100時間にわたり、僧侶が1時間交代でお経をあげ続けます。1958年に世界平和パゴダが建立されて以来、初めて執り行われる記念すべき祭典です。


佐久間会長による講話



また、会長はブログ「鎮魂の森と人間尊重」で紹介した、福岡県田川市にある広大な森を「鎮守の森」ならぬ「鎮魂の森」にしたいという構想についても語りました。
無縁社会の進行で死後も入る墓のない方々が増え続けていますが、わが社は誰でも入ることのできる樹木葬の森をつくりたいというのです。
さらに、会長はその構想の背景には「人間尊重」があることはもちろん、その根底には聖徳太子の「和」の思想があるということも述べました。
そして、今後の社会には「相互供養」というものが必要であると訴えました。
「相互扶助」から「相互供養」へ・・・・・わが社の新しい方向性が示されたように思います。


わたしも講話を行いました



佐久間会長に続いて、わたしが講話を行いました。
まず、ブログ「西日本ブロック」ブログ「開成の運動会」に書いた話題に触れた後、もうすぐ出版される東京大学大学院医学系研究科救急医学分野教授・東京大学医学部附属病院救急部集中治療部部長である矢作直樹氏との対談本の話をしました。
タイトルは『愛する人は死なない』が予定されていましたが、昨日、タイトルの変更について版元のPHPから連絡がありました。『愛する人は死なない』では読者層を限定してしまうので、もっと幅広い層をイメージしたものに変えたとのことでした。
また、「死」を使わない表現を考えたようです。
愛する人は死なない」は帯で使いたいとのことでした。
決定した新タイトルは、『命には続きがある〜肉体の死、そして永遠に生きる魂のこと』です。矢作先生からは「タイトル承知しました。たしかに”死”のない方が元気がでるのではないかと思いました」とのメールが届きました。わたしも良いタイトルだと思います。
『命には続きがある』は6月刊行予定です。


「供養」についての考えを述べました



その対談本にも出てくるのですが、わたしは「供養」について話しました。
「供養」においては、まず死者に、今の現状を理解してもらうことが必要だと思います。それが本当の供養ではないでしょうか。僧侶などの宗教者が「あなたは亡くなりましたよ」と死者に伝え、遺族をはじめとした生者が「わたしは元気ですから、心配しないで下さい。あなたのことは忘れませんよ」と死者に伝えることが供養の本質だと思います。わたしは、供養とはあの世とこの世に橋をかける、死者と生者のコミュニケーションだと思います。



少し前に、『ジェットパイロットが体験した超科学現象』(青林堂)という興味深い本を読みました。著者は、元自衛隊空将で南西航空混成団司令の佐藤守という方です。
自衛隊内で今も語り継がれる霊的な現象についての本なのですが、その中に「八甲田雪中行軍遭難事件」の後日談が紹介されていました。
この事件は、1902年(明治35年)1月に日本陸軍第八師団の歩兵第五連隊が八甲田山で雪中行軍の訓練中に遭難した事件で、新田次郎の小説『八甲田山 死の彷徨』(新潮文庫)で有名ですね。映画化もされました。訓練への参加者210名中199名が死亡しましたが、日本の冬季軍訓練における最も多くの死傷者だそうです。



著者の佐藤氏が八甲田の古老に聞いた話では、遭難後、青森にある第五連隊の営門で当直につく兵士たちの間で、遭難事件と同じような吹雪の夜になると行軍部隊が「亡霊部隊」となって八甲田から行軍して戻ってくる軍靴の音が聞こえたそうです。
そこで、ある将校が連隊の営門前で当直して待ち構えていたら、深夜に200人近くの部隊が行進する軍靴の音が近づいてきたそうです。彼らが営門前に到着した気配を感じた当直将校は「中隊、止まれ!」と闇に向かって大声で号令をかけました。すると、軍靴の音が止まったばかりか、銃を肩から下ろす音までして部隊が停止した気配がしました。当直将校は「諸君はすでにこの世の者ではない。今から冥土に向かい成仏せよ!」と訓示し、改めて「担えー、銃」と号令しました。すると、銃を担ぐ音がして、「回れー、右」の号令で一斉に向きを変える軍靴の音がし、さらには「前に進め!」の号令で再び部隊が動き出す気配がしました。やがて行進する軍靴の音は八甲田山の彼方に消えていったそうです。その後、亡霊部隊は戻ってきませんでした。古老は「きっと兵隊さんたちは成仏したのだろう」と佐藤氏に語ってくれたそうです。わたしは、この当直将校の「諸君はすでにこの世の者ではない。今から冥土に向かい成仏せよ!」という言葉こそ、供養の本質ではないかと思います。



矢作先生とは、靖国神社の問題についても話しました。
ブログ「靖国で考えたこと」にも書きましたが、わたしは、安倍首相の参拝はもちろん、本来は天皇陛下靖国参拝をされるべきだと思っています。
なぜなら、靖国に祀られている英霊たちの多くは昭和天皇の命によって戦地に赴き、その尊い命を落としたわけですから、命令者である昭和天皇の御長男である今上天皇靖国を参拝され、「みなさん、もう戦争は終わりました。本当にお疲れ様でした。どうぞ、安らかにお眠り下さい」とお祈りをされて、初めて戦争は終結すると思うのです。供養の本質とは、死者に「死者であること」を自覚させ、より良き世界へと送ることにあり、先の戦争で亡くなられた英霊を供養することができるのは天皇陛下を置いてほかにはいません。
終戦のとき、日本の将校たちが従ったのは天皇陛下の御言葉でした。
召集令状という「赤紙」を出して戦場に送り込んだ国の首相も命令もさることながら、当時の国民にとって“絶対的存在”であり「生き神」とされた「大元帥陛下」の御言葉で終戦を知り、矛を収めたのです。わたしは、戦争で亡くなられた方々を慰霊し、鎮魂することができるのは天皇陛下だけであると思っています。


ビルマ日本人墓地」の話をしました



また、わたしは靖国神社とは違った意味での戦没者慰霊施設である世界平和パゴダへの天皇陛下、安倍首相、麻生副総理の参拝を願っています。
ブログ「ビルマ日本人墓地」に書いたように、4月12日、わたしは念願だった「ビルマ日本人墓地」参拝を果たしました。 ここには太平洋戦争のビルマ戦線で亡くなった方々の墓地が並んでいます。 じつに19万人に及ぶ日本人がビルマで命を落としたのでした。
「日本人墓地」と書かれた門を開くと、目に眩しいほど色彩の豊かなブーゲンビリアの花々がわたしたちを迎えてくれました。日本人墓地には、明治時代から自然と日本人の墓が集まってきたようです。日本とミャンマーの歴史的関係というと、『ビルマの竪琴』や「インパール作戦」に代表される太平洋戦争がまず思い浮かびます。しかし、実際にはもっと古くからビルマには日本人が来ていました。



明治期の墓は女性、それも長崎県をはじめとする九州の出身者が多いのですが、彼女たちは、いわゆる「からゆきさん」と呼ばれた人々です。1910年前後には数百人の「からゆきさん」がビルマで生活していたそうです。九州の山村から、はるばる異国の地までやってきた若い娘たちは、幾多の辛苦を舐めながら、ビルマで生を終えました。
チャンドゥに日本人墓地が正式に開かれたのは昭和15年といいます。もちろん軍人の墓が圧倒的に多いですが、医師などの職業が書かれた人たちの名前も目にします。
歴史上の日本とミャンマーの関係が浮かび上がってくるようです。
チャンドゥから北オカラッパに移転した日本人墓地は、3500坪に及ぶ広大な面積を有します。あちらこちらに、「英霊の墓」「家族が建てた碑」「無縁仏」などが建立されています。



そして、日本人墓地の一番奥には「ビルマ平和記念碑」が建てられています。
1981年(昭和56年)、日本の厚生労働省戦没者慰霊事業として「ビルマ平和記念碑」をチャンドゥ日本人墓地に建立しました。碑には、「さきの大戦においてビルマ方面で戦没した人々をしのび平和への思いをこめるとともに日本ビルマ両国民の友好の象徴としてこの碑を建立する」と記されています。ヤンゴン市政府の要請により、1998年(平成10年)に北オカラッパ地区、エーウィ日本人墓地内に移転しました。「ビルマ平和記念碑」は、今年1月にミャンマーを訪問した麻生太郎副総理兼財務相が参拝したことでも知られます。わたしも、記念碑の前で数珠をもって合掌し、鎮魂と平和の祈りを捧げました。


ふるさとを遠く離れて眠る地は仏陀に近き南方楽土



記念碑の他にも日本人墓地に散在する多くの墓や慰霊塔を眺めながら、わたしは「こんなに遠い異国の地まで日本から来て、さぞ心細かっただろう。そして、帰国できなかったのはさぞ辛かっただろう」と思いました。明治の「からゆきさん」のことも、昭和の兵隊さんのことも、その他のすべてのミャンマーで亡くなった日本人のことが心に浮かんできて、胸がいっぱいになりました。わたしは合掌しながら、「でも、このビルマの地は、お釈迦様の生誕地に近く、また尊い教えにも近い上座部仏教の国ですよ。みなさん、この南の楽園で、どうか、安らかにお眠り下さい」と心からの祈りを捧げました。 そして、次の歌を心を込めて詠みました。


ふるさとを遠く離れて眠る地は
      仏陀に近き南方楽土 (庸軒)


それにしても、日本人墓地に咲いていたブーゲンビリアの花が美しかったです。 この世のものとは思えぬほどの花の美しさに、ここが本物の楽土のように思えました。 わたしは、この日本人墓地に眠るすべての方々の御冥福を心よりお祈りいたしました。「供養」は人間にとって最も大切な「こころの仕事」です。わたしたちは、これからも供養について考え続け、そのお世話をさせていただきたいと考えています。



冠婚葬祭互助会の同業者の中にも、最近では「富裕層を狙いたい」などと堂々と言う輩が出てきました。わたしは、「富裕層」という言葉は嫌いです。なにが「富裕層」か!
それよりも、わたしは「浮遊霊」をなくしたいと願っています。浮遊霊とは、自分が死んだかどうかもわからずに迷っている霊でああり、どこにも入る墓がなくて迷っている霊です。孤独死、自殺、そして浮遊霊の数を減らすこと、それがわが社のミッションではないでしょうか。
互助会が目を向けるべき対象は、「富裕層」よりも「浮遊霊」にあり!
そして「供養の本質」とは、死者に死んでいることを理解させ、成仏させてあげること。
今日の平成心学塾では、そんな話をしました。



*よろしければ、「一条真也の新ハートフル・ブログ」もどうぞ。



2013年5月18日 佐久間庸和