娘の引越し

昨夜、東京に入りました。
明日は全互連、明後日は全互協の理事会が開かれます。
でも今日は「春分の日」で休日ということで、長女の引越しの手伝いをしました。
横浜から東京都港区白金台に移ることになったのです。


だんだん縮んでいく赤坂プリンスホテル



今朝、赤坂見附のホテルを出発して、白金台に向かいました。途中、赤坂プリンスホテルの前を通りましたが、とても低くなっていました。特殊工法により、少しづつ取り壊しているのだそうですが、だんだん縮んでいくさまはイリュージョンを見ているようです。
このホテルは、巨匠として知られた丹下健三が設計しました。じつは、3・11の「東日本大震災」の当日に父が宿泊していました。その20日後の2011年3月31日をもって、老朽化を理由に営業を終了したのです。その後、一時的に被災者の方々の避難所にもなりました。現在では「テコレップシステム」と呼ばれる屋根と足場で建物上部を覆って超高層を解体する方法で、徐々に解体されいます。大成建設が解体工事を担当しています。



今日の東京は「春分の日」らしくポカポカと暖かく、赤坂プリンスの下にある桜も咲き始めていました。赤坂見附も白金台も、ともに港区です。わたしが学生時代に住んでいた六本木、新卒で入社した東急エージェンシーのある赤坂、独立して起業したハートピア計画のあった西麻布、および高輪、かつて全互協のあった神谷町、現在の全互協のある新橋・・・・・すべて港区です。というわけで、わたしにとっての東京とは港区そのものなのです。
しかし、これまで白金台方面にはあまり縁がありませんでした。
ちなみに、白金は「しろかね」と読みます。小倉に白銀という地名があって「しらがね」と読むのですが、こちらは「しろかね」。最近までよく間違って恥ずかしい思いをしました。


白金台の街並み



もともと、この地は柳下上総介によって応永年間に開墾されました。
彼は「白金長者」と呼ばれたそうですが、プラチナの白金(しろがね)ではなく、大量の銀(しろかね)を保有していたとか。そのため、応永の『小田原衆所領役帳』(北條役帳)では「白銀」と記されていました。1969年(昭和49年)1月1日、白金地区に住居表示が実施されました。その際「しろかねだい」を正式町名として港区が採用したそうです。
このへんは、バブルの後半頃より洒落たレストランやカフェ、ブティックが目立ち始め、それらに伴ってマンションが建つようになりました。その一部の女性住民が「シロガネーゼ」として取り上げらたとか。今日は白金台の街を少し散策してみましたが、なかなか落ち着いて上品な街だという印象を受けました。横浜とはまた違った魅力があります。


新婚時代に使っていたテーブルと籐の椅子



今日は、ベッド、洗濯機、冷蔵庫などが搬入され、それらの受け取りなどに立ち会いました。テレビがどうしても映らないのと、パソコンのネット接続なども長女が困っていたので何とかしてやりたかったのですが、わたしは電気系統およびIT系統に弱い「電弱」なので、力になってやれずに残念でした。長女と相談して、これから対策を考えます。
それと、今日はテーブルと椅子も搬入されました。部屋がワンルームなのでコンパクトなものを探していたのですが、妻が新婚時代に使っていたテーブルが物置で眠っているのに気づき、それを送ることにしました。モノはなかなか良いものですし、何より折りたたみもできてコンパクトなところがピッタリです。椅子はレトロ住宅であるわが家にある籐の椅子を送りました。テーブル、椅子とも、部屋のフローリングとマッチして、いい感じで収まりました。
これから、この新しい街で長女はどのような人生の物語を紡いでいくのでしょうか。わたしも白金台を気に入ったので、これからは東京出張のたびに訪れようと思います。
近くには「庭園美術館」もあるので、今度、父娘で行きたいですね。



*よろしければ、「一条真也の新ハートフル・ブログ」もどうぞ。



2013年3月20日 佐久間庸和