ライフ・マネジメント


今日、皇太子殿下が53歳の誕生日をお迎えになりました。
北九州は小倉の地より、心よりお祝いを申し上げます。
ブログ「北九州市50周年」にも書きましたが、わが北九州市が今月10日に市制50周年を迎えました。つまり、北九州市は50歳になったわけです。
その3ヵ月後の5月10日に、わたしは50歳になります。


西日本新聞」2012年5月17日朝刊


自分が50歳になるなんて、なんだか今ひとつピンと来ません。
不惑」と呼ばれる40歳になるときもピンと来ませんでした。
30代最後の日々に何をすべきかといろいろ考えました。
ふと、「不惑」なる言葉が『論語』に由来することを思い出しました。
「為政篇」には、次の有名な言葉が出てきます。
「われ十五にして学に志し、三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳従う。七十にして心の欲する所に従って矩を踰えず」
15歳で学問を志し、30歳で独立する。40歳であれこれ迷わなくなり、50歳で自らの使命を知った。60歳になって人の言葉が素直に聞かれ、たとえ自分と違う意見であっても反発しない。70歳になると自分の思うままに自由にふるまって、それでいて道を踏み外さないようになった。ここには、孔子が「老い」を衰退ではなく、逆に人間的完成としてとらえていることが明らかにされています。そう、「人は老いるほど豊かになる」のです!




というわけで、30代最後の日々、わたしは『論語』を精読することにしました。学生時代以来久しぶりに接する『論語』でしたが、一読して目から鱗が落ちる思いがしました。当時の自分が抱えていた、さまざまな問題の答えがすべて書いてあるように思えたのです。江戸時代の儒者である伊藤仁斎は「宇宙第一の書」と呼び、安岡正篤は「最も古くして且つ新しい本」と呼びましたが、本当に『論語』一冊あれば、他の書物は不要とさえ思いました。



そこで40になる誕生日までに、「不惑」にちなんで『論語』を40回読むことに決めました。それだけ読めば内容は完全に頭に入るので、以後は誕生日が来るごとに再読することにします。つまり、わたしが70歳まで生きるなら70回、80歳まで生きるなら80回、『論語』を読んだことになります。何かの事情で私が無人島などに行かなくてはならないときには迷わず『論語』を持って行きますし、突然何者かに拉致された場合にも備えて、つねにバッグには『論語』の文庫本を入れておきます。こうすれば、もう何も怖くないし、何にも惑いません。
何のことはありません、わたしは「不惑」の出典である『論語』を座右の書とすることで、「不惑」を実際に手に入れたのです。いや、面白いものですね。



さて、孔子は15歳からのライフ・マネジメントについて述べているわけですが、それ以前はどうすればいいのでしょうか。15歳以前は、本人というよりも親から受ける教育が重要です。
15歳前のライフ・マネジメントを考え、実践したのは江戸時代の日本人でした。
ブログ『身につけよう! 江戸しぐさ』ブログ『三六九の子育て力』で紹介したように、江戸の商人たちの間では「思いやりの作法」としての江戸しぐさが盛んでした。
江戸では、子どもの躾も「思いやり」を基本としました。「子育てしぐさ」といいます。
ただし、教えてばかりでは、子どもが自発的に考えないし育ちません。そのため、教育という言葉のかわりに「養育」という言い方を好みました。その根底には、わが子が自分の頭で考え、自分の言葉で話し、1日も早く自立してほしいという親の願いがありました。




そして、「三つ心、六つ躾、九つ言葉、十二文、十五理(ことわり)で末(すえ)決まる」という言葉があります。江戸の商人たちは、この言葉に表現される段階的養育を実践しました。
すなわち、3歳までは心を育む。
6歳になるまでは手取り足取り口移しで、繰り返し真似をさせる。
9歳までには、どんな人にも失礼のないものの言い方で応対できるようにする。
12歳では文章を書けるようにし、15歳では物事の理屈をわからせる。
心、躾、文、理・・・・・この順番が大事なのです。
心を教える前に、けっして躾をしてはならないのです。
ましてや、心を教える前に、文章や理屈を教えることは厳禁なのです。
15歳からは、「学に志す」と『論語』にあります。その後は30にして立ち、40にして惑わず、50にして天命を知る・・・・・とつながっていくわけです。そう、江戸しぐさから『論語』へ。
日本には、このように素晴らしいライフ・マネジメントの智恵があったのです。
というわけで、わたしは「知命」を迎える日を楽しみに待つことにします、はい。



*よろしければ、「一条真也の新ハートフル・ブログ」もどうぞ。



2013年2月23日 佐久間庸和