義父の四十九日


1月4日の夕方、妻の父親、わたしの義父である山邊繁が亡くなりました。
5日に通夜、6日に葬儀を行いました。義父は広島県能美島に住んでいましたので、地元の冠婚葬祭互助会に入会し、滞りなく葬儀をあげていただきました。
ご鄭重なるご厚志を賜った皆様には心より厚く御礼申し上げます。


77年間の人生を堂々と卒業していきました



亡くなる3日前の元旦、わたしたち家族は揃って入院している広島市内の病院まで見舞いに行きました。そのときは元気そうで、わたしたちが持参した“おせち”にも少しだけ箸をつけたりしていました。2人の孫娘たちとも楽しそうにしていました。長女の成人式の前撮り写真を手にしながら「おお、きれいだなあ」と目を細めていました。まさか3日後に帰らぬ人になるとは思いもしませんでしたが、最後に帰るとき、義父はわたしに握手を求めてきました。わたしが手を差し出すと、義父はぎゅっと強く握り締めました。おそらく、その心中には「これでお別れになると思うが、娘と孫たちをよろしく頼むよ」という想いがあったのでしょう。



家族を愛し続け、仕事に情熱を捧げ続けた義父は、77年の人生を堂々と卒業していきました。わたしは喪家の一員として、棺をかつぎ、火葬場でお骨も拾いました。そして、わたしはセレモニーホールの担当者に何度も何度も「ありがとうございます」とお礼を述べました。大切な家族の葬儀のお世話をしていただき、心の底から感謝の念が湧いたからです。わが社の紫雲閣のスタッフに丁重にお礼を述べられるお客様の心中がよく理解できました。



通夜、告別式、そして初七日を終えて、わたしたちは能美島から連絡線に乗って広島市の宇品港に向かいました。もう、日が暮れかかっていました。
宇品港に着いたとき、とても夕陽が綺麗でした。
それを故人の長女である妻の姉がケータイで撮影しました。
おそらくは、亡き父親の葬儀の日を忘れないためでしょう。
わたしも、iPhoneで撮影しました。本当に美しい夕陽でした。
わたしは、西の彼方に沈んでゆく太陽をながめながら、「西方浄土」を想いました。
そして、心から義父の冥福を祈りました。


宇品港で西方浄土を想いました



そして今日、義父の四十九日を迎えました。
四十九日とは、仏教でいう「中陰」であり「中有」です。死者が生と死、陰と陽の狭間にあるため「中陰」と呼ばれるわけですが、あの世へと旅立つ期間を意味します。
すなわち、亡くなった人があの世へと旅立つための準備期間だとされているのです。
しかし四十九日には、亡くなった方が旅立つための準備だけではなく、愛する人を亡くした人たちが故人を送りだせるようになるための「こころの準備期間」でもあります。
ある意味で精神科学でもある仏教は、死別の悲しみを癒すグリーフケア・テクノロジーとして、「四十九日」というものを発明したのかもしれません。
義母と妻の深い悲しみが少しでも癒されることを願っています。そして何よりも、義父が平和で美しい世界へと無事に旅立ってゆくことを祈っています。合掌。


2013年2月17日 佐久間庸和