大久保利通像


幕末に活躍した人物の中で、吉田松陰坂本龍馬高杉晋作など、明治維新を迎えずに亡くなっている人物も多いのですが、明治維新後に暗殺された人物も少なからずいます。
ブログ「大村益次郎像」で紹介した天才的兵学者は明治2年9月に刺客に襲撃された傷がもとで同年11月に死去しています。今回ご紹介する大久保利通も明治11年(1878)5月14日、石川県士族や島根県士族によって東京・紀尾井坂で殺害されます。そう、西郷隆盛西南戦争で自刃した翌年に当たります。享年は数えで49歳(満47歳)でした。


大久保利通銅像の前で



その偉業とは裏腹に地元・鹿児島でさえ人気のある人物ではありません。
今回ご紹介する「大久保利通像」はJR鹿児島中央駅から徒歩5分ほどの西千石町1番に建立されています。ロックコートが風に翻った様を表現していますが、こうした動きのある銅像には建立に尽力した人たちや作者の想いが滲み出るようで、観るものを感動に誘います。
この銅像は、文化勲章受章者の中村晋也氏の作品ですが、大久保の没後100年を記念して、昭和54年(1979)9月26日に建立されています。この日は大久保の生誕日に当たりますが、こうした節目を選ぶ「こころ」は、まさに大久保に対するリスペクトの表れでしょう。



大久保像の近くには案内板が立てられています。
冒頭に大久保が座右の銘とした「為政清明」と記されていますが、これは政(まつりごと)を行う者は清らかな志がなければならないという意味です。その下に「藩閥意識を超えて新生日本の近代化に尽くす」という見出しが続き、以下のような紹介文があります。
大久保利通は明治草創期の指導的政治家です。
天保元年(1830年)に生まれ、幼名は正袈裟、通称は一蔵、号を甲東と称しました・幕末期、薩摩下級藩士のリーダーとして藩論を尊皇にまとめる一方、最後の藩主島津忠義の父久光の信頼をえて、藩政の改革にも手腕をふるいました。
薩英戦争後はイギリスとの講和をまとめ開国に目覚めるとともに、沖永良部から西郷隆盛を呼び戻し、歴史的な名コンビとして倒幕に奔走。薩長同名の締結をみてついに慶応3年(1867年)明治維新が達成されたのです。新政府樹立後は政界の中心人物として、藩籍奉還、廃藩置県の実現につとめ、大蔵卿時代は地租改正の建議を行いました。
また、欧米諸国を視察し、帰国後は内務省を設立し事実上の首相ともいうべき内務卿を兼務しました。ところが、この頃から西郷隆盛と対立、西南戦争によって竹馬の友を失ったのです。その大久保もまた、明治11年(1878年)出勤途中を襲われ急死。
ロンドンタイムスは、『氏の死は日本全国の不幸である』と報じました。」



ちなみに大久保像の後ろの足元には、大久保が暗殺されたときに一緒に殺害された御者と馬が極小ではありますが表現されています。事前に知っていなければ気づかないほどですが、作者である中村氏の「ささやかな気遣い」でしょうか。「死を悼む」気持ちに静かな感動を覚えます。大久保の御者を務めていた中村太郎は大阪生まれの孤児で、大久保に拾われて、人生意気に感じ御者としてよく仕えていたそうです。大久保と共に葬所式が行なわれ、馬と一緒に大久保の傍らに埋葬されています。


人生の王道

人生の王道

西郷隆盛を敬愛する経営の神様こと稲盛和夫先生は、リーダーたるもの「情」と「理」がなければならないとして、西郷と共に大久保に学ぶことが肝要であると主張しておられます。
稲盛先生は著書『人生の王道』(日経BP社)の中で次のように述べています。
「西郷(隆盛)は溢れんばかりの『情』に生き、義を貫いて死ぬことを選びました。しかし、現実という荒波を乗り越えていくためには、『情』の要素に加えて、冷徹なほどの『理』の部分がどうしても必要になってきます。西郷と幼なじみで維新をともに成し遂げた、大久保利通はまさに、その『理』の人でした。また、『理』詰めの人であったからこそ、混乱した状況の中にあって、新政府の中心に位置し、誕生したばかりの国家の制度や体制などを構築することが可能であったのでしょう。人を魅了してやまない素晴らしい心根を持った西郷の『情』の側面と、合理的かつ緻密に物事を詰めていく大久保利通の『理』の側面、あるときは情愛に満ち溢れた優しさ、あるときは泣いて馬謖を斬る厳しさ。『理』に照らして『情』に生きるような両極端を兼ね備えることこそが、リーダーに求められる条件ではないでしょうか」
すなわち、大久保利通西郷隆盛が融合調和する形こそ、リーダーの要諦なのです。



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2016年4月25日 佐久間庸和