『子を喪へる親の心』を入手しました

みなさん、お元気ですか? わたしは、とても嬉しいことがありました。
わたしは大の本好きですが、貴重な古書を入手することができたのです。
数日前に『弔い論』川村邦光著(青弓社)という本を読みました。「弔いとはいったい何なのか」を追求した内容で、遺影・慰霊碑・墓・短歌などの弔う文化をあげながら、子どもの死や戦死者、靖国東日本大震災などの死者と生者のありように肉薄した好著でした。
いずれ、「一条真也の新ハートフル・ブログ」の「BOOK」で取り上げるつもりです。


弔い論

弔い論

さて、この『弔い論』の第1章は「幼子の死と弔い――子どもの近代と生死の諸相から」となっています。その中で「子どもへの弔いの墓碑銘」として、以下のように書かれています。
「1937年、村田勤・鈴木龍司編による『子を喪へる親の心』と題された書物が刊行されている。題名のとおり、ここは子ども(20歳代の未婚の男女も含まれている)を亡くした親たちによる、追悼の手記や短歌が収められている。内村鑑三安部磯雄伊藤左千夫、島木赤彦、西田幾多郎、近角常観、窪田空穂、徳田秋声森田正馬など、寄稿者は60人に及んでいる.いわゆる教養人もしくは文化人と呼ばれる人たちの作品である。これらはいわば墓碑銘とみなすことができる、悲痛な追悼と追懐の言葉であり、亡くなった子どもをどのように弔ったのかを知る手がかりとなるだろう」


唯葬論

唯葬論

川村邦光氏は、『弔い論』の中で何度も『子を喪へる親の心』を引用しています。
そのどれもが、幼い子どもを亡くすという人生最大の悲しみから立ち上がった記録となっており、大いに感銘を受けました。わたしも拙著『唯葬論』(三五館)の「哲学論」や「悲嘆論」で、西田幾多郎田辺元小川未明、野口雨情らの悲嘆に言及しましたが、子を失った親の悲しみは「グリーフケア」の核心です。


入手した『子を喪へる親の心』(函入り)

『子を喪へる親の心』の扉



わたしは、1937年(昭和12年)に岩波書店から刊行された『子を喪へる親の心』こそは、日本におけるグリーフケアのカノン(聖典)になりうるのではないかと考えました。
そこで古書をネットで探したところ、日本に3冊だけ存在しました。
わたしは、迷わずにすべてを買い求めました。その中の1冊は金沢の古書店に在庫がありましたので、サンレー北陸・企画課の西課長に買いに行ってもらいました。
もし同書に関心がある方で、どうしても読みたいという方がいたら、サンレー社長室(TEL:093−551−3074)まで御連絡下さい。このように、貴重な蔵書のありかを広く知らせるのもブログの重要な機能であり、愛書家の義務であると思っております。


『子を喪へる親の心』の目次(1)

『子を喪へる親の心』の目次(2)

『子を喪へる親の心』の目次(3)



『子を喪へる親の心』の「目次」は以下のようになっています。
「はしがき 」村田勤

第一編 斷腸―桃李篇

「慟哭(歌)」茅野蕭々
茅野雅子
「冴え返る思ひ出」大谷句佛
「春寒抄(歌))」宇都野硏
「筆をさがして」山崎正
「長女五十枝の死に直面して」副島八十六
「情懷」内田魯庵
「ルツ子の性格」内村鑑三
「父の記錄」吉原利定
「亡兒の記念」安部磯雄
「水蔭の娘」江見水蔭
「愚かなる詑びと歌」山川柳子
「散るはな」丸岡貞子
「亡女菊代に就きて思ひ出づる事ども」塚本松之助
「照子の思ひ出」土井八枝
「淚(歌)」八田敏子
「父としての辭」多田鼎
「偲ぶ蟬」井染祿朗
「千春の遺文の後」 岡田哲藏

第二編 哀傷―白玉篇

「吾兒がおくつき(歌)」伊藤左千夫
「逝く子(歌))」島木赤彦
「亡兒八十男の追懷」高楠順次觔
「わが唯一の望なりし光子」藤岡作太觔
「愛兒の死につきて余の感想を述ぶ」西田幾多觔
「父の思ひ出」市河三喜
「クロシング・ザ・バー」市河晴子
「相憐む」佐々木月樵
「愛女露子を喪ひて(歌)」大内逭巒
「我子の夭折」近角常觀
「死に行く子」加藤咄堂
ミカヅキサマ(歌)」沼波武夫
沼波たき子
「ミルクの瓶(歌)」速水滉
速水信子
「宵はやし(歌)」岩谷莫哀
「その面影(歌)」鈴木松代
「こころよき笑顔(歌)」窪田空穗
「死の刺いづくにある」本間俊平
「我が亡き子」東郷昌武
「あはれわが子」森六藏
「未練」鹽井雨江
「母の想ひ」長岡卯江
狂犬病で死んだ儀子を憶ふ」池田林儀
「ざんげの言葉」千葉𥶡舜
「二つの骨壺」松崎實
「犧牲者」紱田秋聲

第三編 痛恨―蘭螵篇

「逆旅」壇野禮助
壇野芿子
「シツカリシロ、チチ」中野正剛
中野たみ子
「悲劇の苦杯」日野眞澄
「正一觔の思ひ出」森田正馬
「遺影」渡邊房吉
「東洋雄の靈と語る」村田勤
「次男勵を喪ひて」留岡幸助
「金太觔の一生」坂本嘉治馬
「子の病みて(歌)」松村英一
「二觔と夏子(歌)」木下利玄
「碎かるゝ心」鈴木龍司
「芽生」島崎藤村
「あとがき」鈴木龍司


愛する人を亡くした人へ ―悲しみを癒す15通の手紙

愛する人を亡くした人へ ―悲しみを癒す15通の手紙

まさに錚々たる人々のアンソロジーです。 或る意味で、企画力の賜だと言えます。
『子を喪へる親の心』の企画を考えた人物は、自身も子を喪った親の一人でした。
編者の村田勤自身が「東洋雄の靈と語る」という亡き愛息の追悼文を書いています。
わたしは、『愛する人を亡くした人へ』(現代書林)というグリーフケアの書を書きました。
その「おわりに」で、幼い子どもを亡くす母親の話を紹介しました。
シュラーヴァスティーという町で、キサーゴータミーという女性が結婚して男の子を産みましたが、その子に死なれて気が狂ってしまいます。彼女は、わが子の死体を抱きしめて生き返りの薬を求めて歩きまわっていました。それを見たブッダは、「まだ一度も死人を出したことのない家から芥子(けし)粒をもらってくるがよい。そうすれば、死んだ子どもは生き返るだろう」と教えました。キサーゴータミーは、軒ずつ尋ねて歩いているうちに、死人を出さない家はひとつもないことを悟りました。そして、やっと正気に戻ることができたそうです。



この話は、死なない人間はいない、人間は必ず死ぬのだといったあまりにも当たり前の事実をあらためて教えてくれます。それとともに、最高の「癒し」の物語ともなっています。ブッダは決してキサーゴータミーを無理やり説き伏せたりしたのではなく、彼女自身に気づかせました。自然なかたちで彼女の心を癒したのです。驚いたことに、『子を喪へる親の心』の「はしがき」にもキサーゴータミーのエピソードが紹介されていました。もちろん、わたしがこの本を開くのは初めてです。やはり基本は変わらないのだと思いました。
ブッダこそは、人類最初のグリーフケア・マスターだったのかもしれません。



『子を喪へる親の心』には、明治の教養人や文化人たち、あるいはその妻たちが、いかにしてわが子を亡くすという人生最大の悲嘆から立ち直っていくかが具体的に綴られています。ある者は、亡き子の遺品を愛おしみ、ある者は亡き子の遺骸をスケッチし、またある者は遺骸の写真をカメラに収めています。それぞれが、それぞれのやり方で悲しみを癒したのです。
それにしても、亡き子に捧げる挽歌を詠むという方法を選んだ者の多さに気づきます。
万葉集』以来、日本人は死別の悲しみを歌を詠むことによって癒してきました。これこそ、日本流グリーフケアかもしれません。また、辞世の歌を詠むことによって、日本人は自らの「死の覚悟」も固めてきました。五七五七七とは、死の「おそれ」や「かなしみ」を乗り越える文化装置ではないかと思います。


奥付には初版の発行日が記載されています



ちなみに、奥付には初版の発行日が昭和12年3月10日とあります。
この年の7月に「盧溝橋事件」が起こっています。この事件を契機に日中戦争が勃発し、大東亜戦争へと展開していくわけです。そして皮肉にも、数えきれない「子を喪へる親」「親を喪へる子」が生まれるのです。その意味でも、なんとも感慨深い書籍であると思います。
ブログ「山田慎也先生の来訪」で紹介した民俗学者の山田先生にこの本をお見せすると、山田先生は手にとって「これは、ものすごく貴重な本ですね!」と驚かれていました。わたしは、この『子を喪へる親の心』を精読し、日本にも存在したグリーフケアのメソッドについて学びたいと思います。そして、わが社のグリーフケア・サポート活動の推進、ひいては日本のグリーフケア界の発展のために尽力する覚悟です。


この本で学ばせていただきます!


 


*よろしければ、「一条真也の新ハートフル・ブログ」もどうぞ。



2016年3月27日 佐久間庸和