終戦70年を迎えて

ブログ「秋季例大祭」で紹介した神事と朝粥会の後は、「佐久間塾」および「平成心学塾」を開催しました。最初に、佐久間進会長による訓話が行われました。


冒頭の一同礼!

訓話する佐久間会長



佐久間会長は「8月5日から高野山に行ってきました」と述べ、開創1200年を迎えた高野山で感じたことを話しました。わたしが訪れたときは訪問者の数がピーク状態でしたが、現在は少し落ち着いたようです。わたしと違って宿坊で一夜を過ごし、翌日の早朝に歩き回ったという佐久間会長は「感動しました。高野山は天空の霊地であり、平和の聖地でした」と語りました。江戸時代、徳川家光は諸藩の藩主の墓を高野山に置きました。「すべての藩主の墓が同じ場所にある」ということが平和であるというのです。また、空海の生涯がことごとく紫の雲と深い関わりがあったことを紹介し、「高野山紫雲閣にとっても総本山というか聖地であるかもしれない」と述べました。佐久間会長は金剛峰寺の管長にも会われ、わが監訳書『超訳 空海の言葉』(KKベストセラーズ)を渡してくれたそうです。流石ですね!



続いて、サンレー営業推進部を代表して玉中部長が話をしました。
佐久間塾では、これから毎月、サンレー各部署の代表者が話すことになったのです。
玉中部長は「営業推進部の現体制」および「現在推進している募集施策と今後の取り組み」について話しました。内容は、紫雲閣見学会の取り組み、成人式振袖営業から婚礼誘致の推進、社外出店営業の推進、高齢者に対する地域活動などで、特に「いのちをつなぐネットワーク募集」への取り組みについて説明しました。


平成心学塾のようす

終戦70年の話題を中心に話しました



佐久間塾に続いて平成心学塾へと移り、わたしが登壇して講話しました。
わたしは、終戦70年の話題を中心に話しました。ブログ「広島原爆70年」に書いた6日、ブログ「長崎原爆70年」に書いた9日、ブログ「日航ジャンボ機墜落30年」に書いた12日を経て、ブログ「終戦70年の日」に書いた15日に至ります。すべて「死者を想う」日でした。


長崎原爆への想いを語りました



特に、9日の「長崎原爆の日」は格別の想いがありました。
70年前のこの日、広島に続いて長崎に落とされた原爆は、本当は小倉に落とされるはずでした。毎年、サンレー本社の朝礼では、わたしが小倉原爆についての話をします。その後、社員全員で長崎原爆の犠牲者に対して黙祷を捧げるのです。
しかし今年は日曜で本社が休みなので、黙祷ができませんでした。


北九州市原爆犠牲者慰霊平和祈念式典」について報告しました



ブログ「北九州市原爆犠牲者慰霊平和祈念式典」で紹介したように、わたしは小倉の勝山公園で行われた式典に参加しました。昭和20年8月9日、長崎に投下された原爆の第一目標が小倉だったことに思いを馳せ、例年この日に原爆犠牲者慰霊平和祈念碑前(小倉北区勝山公演内)において、「北九州市原爆被害者の会」の主催(北九州市:共催、北九州市教育委員会:後援)で祈念式典が開催されています。



70年目の節目となる今年、民間企業の代表として1人だけわたしが来賓としご招待を受けました。ブログ「鎮魂広告」に書いたように、もう10年以上も、新聞各紙に「小倉に落ちるはずだった原爆」「長崎にこころからの祈りを」のメッセージ広告を掲載し続け、啓蒙に努めてきたことが認められたのではないかと思っています。



式典の最後に、わたしは献花用の花を受け取りました。その花を心を込めて献じ、原爆犠牲者慰霊平和祈念碑に水を丁寧にかけ、礼服のポケットから数珠を取り出して犠牲者の御霊に対して心からの祈りを捧げました。そして、わたしは万感の想いを込めて「長崎の鐘」を鳴らしました。その鐘の音は、魂に響き渡るような気がしました。わたしは「長崎の鐘を鳴らせば この命いま在る奇跡 涙こぼるる」という歌を詠みました。
「献花・灌水・鳴鐘」を終えたわたしは、再び遺族会の方々に一礼しました。



灌水用の水ですが、長崎の水・北九州の水・広島の水が合わさったものでした。
わたしは、それを見て魂が揺さぶられる思いがしました。以前に観た「ヒロシマナガサキ」という映画で、ある被爆者が「きのこ雲というのは嘘です。近くから見たら、あれは雲などではなく、火の柱そのものでした」と語ったのが強く印象に残りました。火の柱によって焼かれた多くの人々は、焼けただれた皮膚を垂らしたまま逃げまどい、さながら地獄そのものの光景の中で、最後に「水を・・・」と言って死んでいったそうです。
考えてみれば、鉄砲にせよ、大砲にせよ、ミサイルにせよ、そして核にせよ、戦争のテクノロジーとは常に「火」のテクノロジーでした。沖縄戦で「ひめゆり」の乙女たちを焼き殺した火焔放射器という兵器もありました。地獄と同じく、戦争の本質は火なのだと思います。


人類史的平和セレモニーを実現したい!



戦争の本質が火なら、平和の本質は水ではないでしょうか。
わたしは、「長崎の水」「北九州の水」「広島の水」と書かれたポリバケツを見て、金沢の結婚式で行われる「水合わせの儀」を思い出しました。両家から持ち寄った水を合わせるというセレモニーなのですが、まさに「最高の平和」という理念を見事に体現したカタチであると思います。わたしは、ふと、「チグリス・ユーフラテス河の水」「ナイル河の水」「インダス河の水」「黄河の水」を合わせた世界平和のセレモニーをやればいいのではないかと思い立ちました。この人類史的平和セレモニー、いつか必ず必現したいと思います。


70回目の「終戦の日」についても語りました



それから、15日も忘れられない一日になりました。
70回目の「終戦の日」を迎えたこの日、わたしは
ブログ「靖国参拝」に書いたように、東京の九段にある靖国神社を参拝しました。
唯葬論』(三五館)と『永遠葬』(現代書林)の2冊の新刊を持参しました。


靖国参拝について報告しました



昨年は参拝までに約30分待ちましたが、今年ははるかに参拝者の数が多かったです。その間、正午からは黙祷も行われました。そして、待つこと1時間以上、ようやく、わたしが参拝する順番が回ってきました。拝殿には「国のため命 ささげし人々の ことを思へば 胸せまりくる」という昭和天皇御製が掲げられていました。昭和34年の千鳥ヶ淵戦没者墓苑にて詠まれた歌です。70年前、昭和天皇の苦悩はいかばかりだったでしょうか。
ブログ「靖国で考えたこと」にも書きましたが、わたしは、安倍首相の公式参拝はもちろん、本来は天皇陛下がご親拝をされるべきだと思っています。二礼二拍手一礼で参拝すると、とても心が澄んだ感じがしました。




わたしは、ブログ『永遠の知的生活』で紹介した本で、「現代の賢者」と呼ばれる渡部昇一先生と対談させていただきました。そこでは「靖国問題の本質」についても意見交換させていただきました。そこで渡部先生は、「靖国神社問題は純粋に宗教の問題です。先祖、先人の霊を慰め供養するというのは、長い歴史と伝統によって培われた日本人の宗教的感情であり行為です。国のために命を捧げた人々を慰霊する靖国神社参拝は、この日本人の伝統的宗教感情の発露にほかなりません」と語られています。


「カミ文明圏」について説明しました



渡部先生は、日本は「カミ文明圏」の国であると言われます。カミ文明圏は仏教も立派に吸収してきました。しかも世界で今、仏教がさかんなのは日本だけです。日本で盛んなのは大乗仏教ですが、それはカミ文明圏の中でのみ栄えました。日本には仏教系の大学がいくつかあります。仏教はカミ文明圏の中で欠くべからざる重要なものになりました。注意すべきは、日本が仏教文明圏になり、その中にカミが残ったのではないということです。



儒教もしかり。儒教はカミ文明圏では儒学になりました。仏教同様、儒学がもっともよく残り、継承されているのがカミ文明圏の中の日本においてです。朝鮮は儒教文明に屈して仏教をほとんど絶滅させたのに、いまでは漢字さえ使わない国なりました。ここでも儒教文明圏にカミの文明圏が入ったのではなく、カミ文明圏のみが儒教儒学として温かく抱擁しています。キリスト教もカミ文明圏の中で生き続けています。渡部先生もクリスチャンですが、伊勢神宮出雲大社にもお参りします。違和感はありません。そして、最後に渡部先生は「靖国神社の問題は、カミ文明圏で考えなければいけません」と述べられました。


「和の文化」について語りました



わたしは、それを聞いて「カミ文明圏」とは「和の文化」と同じ意味であると思いました。
そうです、日本は「カミ文明圏」にして「和の文化」の国なのです。
四季があって、春には桜が咲き、冬には雪が降る。梅雨には大雨が降り、台風が来て、雷が鳴り、地震が起こる。実にバラエティゆたかな自然の科学的理由を知らなかった古代の日本人たちは、それらの自然現象とは神々をはじめとした超自然的存在のなせる業であると信じたのです。そして、そこから、多神教である神道が生まれました。



神道は日本宗教のベースと言えますが、教義や戒律を持たない柔らかな宗教であり、「和」を好む平和宗教でした。天孫民族と出雲民族でさえ非常に早くから融和してしまっています。まさに日本は大いなる「和」の国、つまり大和の国であることがよくわかります。神道が平和宗教であったがゆえに、後から入ってきた儒教も仏教も、最初は一時的に衝突があったにせよ、結果として共生し、さらには習合していったわけです。



宗教学者エリアーデは、「日本人は、儒教の信者として生活し、神道の信者として結婚し、仏教徒として死ぬ」という名言を残していますが、そういった日本人の信仰や宗教感覚は世界的に見てもきわめてユニークです。わたしは、靖国神社の拝殿脇において、「大戦(いくさ)より過ぎし月は七十年(ななととせ)和を求めんと誓ふ蘘國」という歌を詠みました。


天皇陛下への想いも述べました



それから、ブログ「皇居へ!」に書いたように、わたしは皇居へ向かいました。
なぜ、わたしは戦後70年を迎えた日に、靖国から皇居に向かったのか?
それは、70年前のこの日、日本の敗戦を知った人々が驚きと悲しみのあまり皇居二重橋前の広場に集まったからです。「どうしても皇居に行かなければ!」と改めて思いました。



わたしは、しばらく二重橋を眺め、昭和天皇をお偲びしました。
歴代124代の天皇の中で、昭和天皇は最もご苦労をされた方です。
その昭和天皇は、自身の生命を賭してまで日本国民を守ろうとされたのです。
昨年の「終戦の日」、わたしは二重橋を眺めながら謹んで「大君の心しのびて二重橋 あの長き日は遠くなりけり」という歌を詠みました。そして、今年は万感の想いを込めて「日の本に平和のこころ戻したる玉の音より早七十年」という歌を詠みました。



天皇陛下の最も大切な仕事とは何でしょうか。
それは、「国の平和と国民の安寧を願って祈られる」という仕事です。
天皇陛下とは、日本で最も日本人の幸福を祈る人なのです。
東日本大震災が起きたときも、昭和天皇の「終戦詔書」以来となる復興の詔勅としての「平成の玉音放送」を行われました。また、世界史にも他に例がないほどの回数の被災地訪問をなされました。そして、心から被災者の方々を励まされたのです。



これからも日本列島を地震津波や台風が襲うたびに、天皇陛下はきっと「すべての日本国民が無事でありますように」とお祈りになられることでしょう。わたしたちは、日本という国が生まれて以来、ずっと日本人の幸福を祈り続けている「祈る人」の一族があることを忘れてはなりません。1人の日本人として、わたしは日本に天皇陛下がおられることを心より有難く、誇りに思います。


映画の感想も述べました



それから、最近観た2本の映画の話もしました。
ブログ「日本のいちばん長い日」ブログ「この国の空」で紹介した日本映画です。前者は松竹の、後者は東映の「終戦70周年記念映画」ですが、この2本は相互補完するような内容でした。「日本のいちばん長い日」ではポツダム宣言を受諾すべきかどうかと鈴木貫太郎首相をはじめとした閣僚たちが閣議で議論しますが、「この国の空」ではその頃の東京の庶民の生活が描かれています。



日本のいちばん長い日」は、昭和天皇阿南惟幾陸相の心の交流に胸を打たれました。皇居の防空壕で開かれた臨時閣議の後で、阿南は天皇から呼び出されます。何事かと緊張する阿南に対し、天皇は阿南の娘の結婚式が無事に開けたかと問います。じつは阿南の長女が帝国ホテルで結婚披露宴を行う予定でしたが、空襲で帝国ホテルが休業に追い込まれたと聞き、天皇が心配して阿南に問うたのです。阿南は「九段の軍人会館で無事に行うことができました」と報告するのですが、天皇がそんな自分のプライベートな事にまで心配してくれることに感激し、おそらくは「この方のために命を捧げよう」と思ったのでしょう。



しかし、昭和天皇は阿南のどうでもいいプライベートな事を心配したわけではありません。愛娘の結婚式という重大事だから心配したのです。阿南の長女とその婚約者は「時節柄、婚礼は延期したほうがいいのでは?」と言いますが、阿南は「いや、こんな時節だからこそ、しっかりと結婚式を挙げておきたいんだ」と言います。このシーンは、結婚式が「人の道」であり、時代を超えた最優先事であることを雄弁に語っています。もちろん、葬儀も「人の道」です。昔の人たちは、冠婚葬祭の意義と重要性をよく理解していたことを知り、わたしは感動しました。



この国の空」にも、主人公の里子の親戚の女性が結婚式を挙げる場面が登場します。戦時中は新婦はモンペ、新郎は国民服が原則だったといいますが、実際はそれなりの立派な姿で結婚式を挙げたようです。当時の人々にとって「人の道」としての冠婚葬祭がどれほど重要なものであったかを再確認しました。戦況が緊迫し、空襲警報が鳴り響く時節であっても、人々は結婚式を堂々と行っていたのです!


講話のホワイトボード



また「この国の空」を観ると、好き嫌いにかかわらず、当時の人々は困っている親類縁者の面倒を見ていました。また、近所の人々とも仲良く暮らしていました。まさに柳田國男が悲壮感をもって『先祖の話』を書いていた頃の東京には血縁、地縁がまだ生きていたことを知り、感慨深いものがありました。しかし、これから約50年後には血縁も地縁も希薄化して、「無縁社会」と呼ばれるような状況になっていきます。
戦後70年を迎えた今こそ、日本人は「死者を忘れてはいけない」「死者を軽んじてはいけない」ということを思い知るべきであると思います。柳田國男のメッセージを再びとらえ直し、「血縁」や「地縁」の重要性を訴え、有縁社会を再生する必要がある。
わたしは、心の底からそのように思っています。


「楽しい世直し」に努めましょう!



わたしは「家族葬」「直葬」「0葬」といった一連の薄葬の流れに対抗すべく、『唯葬論』および『永遠葬』を書きました。1人でも多くの日本人に読んでいただきたいと思っています。
終戦70年を迎えて、「天下布礼」への想いはさらに強くなりました。
ぜひ、サンレーグループ一丸となって「楽しい世直し」に努めたいと思います。
話をしていると、こちらが怖ろしくなるくらい、参加者たちの目がランランと光っていました。まるで、「日本のいちばん長い日」に登場する陸軍の青年将校たちのようでした。


「人々の最大の願いは平和です!」と喝破する佐久間会長



わたしの講話が終了すると、佐久間会長が再び登壇しました。
そして、佐久間会長は「世の中の人たちの最大の願いとは平和です!」と言いました。
そう、人々の最大の願いは平和、そして冠婚葬祭こそは平和のシンボルです。
結婚式にしろ、葬儀にしろ、七五三や成人式や長寿祝いにしろ、みんな平和を祈念するセレモニーにほかなりません。それをお手伝いする冠婚葬祭業者とは「平和を祈る」ことが仕事なのです。冠婚葬祭業とは究極の平和産業なのです!


最後も一同礼!



*よろしければ、「一条真也の新ハートフル・ブログ」もどうぞ。



2015年8月18日 佐久間庸和