葬祭責任者会議

21日の午後から、 サンレーグループの全国葬祭責任者会議が行われました。
わたしは、16時半から、いつものように60分ほどの社長訓話をしました。
基本的に、終戦70年記念として出版した2冊の著書の内容を中心に話しました。


社長訓話の前の一同礼!

サンレーグループ国葬祭責任者会議のようす



最初に、ブログ「パゴダの防人、逝く!」で紹介した、世界平和パゴダを長年支えてこられた三木恭一さんの葬儀について話しました。それから、わたしの最新刊『永遠葬』(現代書林)について話しました。宗教学者である島田裕巳氏の著書『0葬』(集英社文芸単行本)に対する反論の書であり、終戦70周年記念の本です。かつて、わたしは島田氏のベストセラー『葬式は、要らない』(幻冬舎新書)に対し、『葬式は必要!』(双葉新書)を書きました。それから5年後、再び島田氏の著書『0葬』に対抗して本書『永遠葬』を執筆しました。


社長訓示を行いました

サンレーグループ国葬祭責任者会議のようす



葬儀は何のために行うのか――『永遠葬』では、その答えを書いたつもりです。「家族の絆」がクローズアップされる一方で、「老い」や「死」がなぜ軽んじられるのか。「終活」という問題が大きなテーマになる中で、葬儀の重要性、必要性を語りました。葬儀という「儀式」の必要性を説き、さらに変わりつつある死の迎え方の現実を豊富なデータや実例で紹介しながら、葬儀の実践方法をも紹介します。いわば、『葬式は必要!』のアップデート版です。


「0葬」について説明しました



島田氏の提唱する「0葬」とは何か。
通夜も告別式も行わずに遺体を火葬場に直行させて焼却する「直葬」をさらに進めた形で、遺体を完全に焼いた後、遺灰を持ち帰らずに捨ててくるのが「0葬」です。わたしは、葬儀という営みは人類にとって必要なものであると信じています。故人の魂を送ることはもちろんですが、葬儀は残された人々の魂にも生きるエネルギーを与えてくれます。もし葬儀が行われなければ、愛する家族の死によって遺族の心には大きな穴が開き、おそらくは自殺の連鎖が起きるでしょう。葬儀という営みをやめれば、人が人でなくなります。儀式という「かたち」は人間の「こころ」を守り、人類の滅亡を防ぐ知恵なのです。


葬儀は社会にとって必要なものです!



わたしは、決してわが社や業界のために『永遠葬』を書いたのではありません。わたしは、「会社は社会のもの」と考えています。社会に要らない会社や業界など消えてもいいと思っています。でも、葬儀は社会にとって必要なものです。
そして、日本人の「こころ」に必要なものです。日本人が本気で「葬式は要らない」と考えはじめたら、日本は世界の笑いものになります。いや、それどころか、人類社会からドロップアウトしてしまう危険性があります。そんな事態は絶対に避けなければなりません。ですから、わたしは悲壮感をもって『葬式は、要らない』に対抗して『葬式は必要!』を書き、今また『0葬』に対抗して『永遠葬』を書きました。


0葬』に対抗して『永遠葬』について語る

有限の存在である“人”は、無限の存在である“仏”となる!



葬儀によって、有限の存在である“人”は、無限の存在である“仏”となり、永遠の命を得ます。これが「成仏」です。葬儀とは、じつは「死」のセレモニーではなく、「不死」のセレモニーなのです。そう、人は永遠に生きるために葬儀を行うのです。「永遠」こそが葬儀の最大のコンセプトであり、わたしはそれを「0葬」に対抗する意味で「永遠葬」と名づけたのです。『永遠葬』で、わたしは葬儀の本質と重要性を述べるとともに、通夜も告別式もせずに火葬場に直行するという「直葬」あるいは遺骨を火葬場に置いてくる「0葬」を批判しました。 これらの超「薄葬」が、いかに危険な思想を孕んでいるかを声を大にして訴えました。葬儀を行わずに遺体を焼却する行為は、ナチスオウム真理教イスラム国の闇に通じています。


団塊の世代」と四大「永遠葬」について



今年は終戦70周年の年です。日本人だけでじつに310万人もの方々が亡くなられた、あの悪夢のような戦争が終わって70年目の節目なのです。今年こそは、日本人が「死者を忘れてはいけない」「死者を軽んじてはいけない」ということを思い知る年であると思います。今こそ、「血縁」や「地縁」の重要性を訴え、有縁社会を再生する必要がある。わたしは、そのように痛感しています。そして、わたしたちは、どうすれば現代日本の「葬儀」をもっと良くできるかを考え、そのアップデートの方法について議論することが大切ではないでしょうか。本書で、わたしが現在取り組んでいる葬イノベーション――四大「永遠葬」を紹介します。日本人の他界観を大きく分類すると、「山」「海」「月」「星」となりますが、それぞれが対応したスタイルで、「樹木葬」「海洋葬」「月面葬」「天空葬」となります。
この四大「永遠葬」は、個性豊かな旅立ちを求める「団塊の世代」の方々にも大いに気に入ってもらえるのではないかと思います。


戦後70年を記念して出版された『永遠葬』と『唯葬論



それから、もう1冊の最新刊『唯葬論』(三五館)について話しました。こちらも、終戦70周年記念の本です。わたしは、葬儀とは人類の存在基盤であると思っています。約7万年前に死者を埋葬したとされるネアンデルタール人たちは「他界」の観念を知っていたとされます。世界各地の埋葬が行われた遺跡からは、さまざまな事実が明らかになっています。「人類の歴史は墓場から始まった」という言葉がありますが、たしかに埋葬という行為には人類の本質が隠されていると言えるでしょう。それは、古代のピラミッドや古墳を見てもよく理解できます。


唯葬論』について語る



わたしは人類の文明も文化も、その発展の根底には「死者への想い」があったと考えます。世の中には「唯物論」「唯心論」をはじめ、岸田秀氏が唱えた「唯幻論」、養老孟司氏が唱えた「唯脳論」などがありますが、わたしは本書で「唯葬論」というものを提唱します。結局、「唯○論」というのは、すべて「世界をどう見るか」という世界観、「人間とは何か」という人間観に関わっています。わたしは、「ホモ・フューネラル」という言葉に表現されるように人間とは「葬儀をするヒト」であり、人間のすべての営みは「葬」というコンセプトに集約されます。 


カタチにはチカラがあります!



カタチにはチカラがあります。カタチとは儀式のことです。わたしは冠婚葬祭会社を経営していますが、冠婚葬祭ほど凄いものはないと痛感することが多いです。というのも、冠婚葬祭というものがなかったら、人類はとうの昔に滅亡していたのではないかと思うのです。
わが社の社名である「サンレー」には「産霊(むすび)」という意味があります。神道と関わりの深い言葉ですが、新郎新婦という2つの「いのち」の結びつきによって、子どもという新しい「いのち」を産むということです。「むすび」によって生まれるものこそ、「むすこ」であり、「むすめ」です。結婚式の存在によって、人類は綿々と続いてきたと言ってよいでしょう。



最期のセレモニーである葬儀は、故人の魂を送ることはもちろんですが、残された人々の魂にもエネルギーを与えてくれます。もし葬儀を行われなければ、配偶者や子供、家族の死によって遺族の心には大きな穴が開き、おそらくは自殺の連鎖が起きたことでしょう。葬儀という営みをやめれば、人が人でなくなります。
葬儀というカタチは人類の滅亡を防ぐ知恵なのです。


問われるべきは「死」でなく「葬」です!



オウム真理教の「麻原彰晃」こと松本智津夫が説法において好んで繰り返した言葉は、「人は死ぬ、必ず死ぬ、絶対死ぬ、死は避けられない」という文句でした。死の事実を露骨に突きつけることによってオウムは多くの信者を獲得しましたが、結局は「人の死をどのように弔うか」という宗教の核心を衝くことはできませんでした。
言うまでもありませんが、人が死ぬのは当たり前です。「必ず死ぬ」とか「絶対死ぬ」とか「死は避けられない」など、ことさら言う必要などありません。最も重要なのは、人が死ぬことではなく、死者をどのように弔うかということなのです。問われるべきは「死」でなく「葬」です。よって、本書のタイトルは『唯死論』ではなく『唯葬論』としました。


葬祭業ほど素晴らしい仕事はありません!



その『唯葬論』で、わたしはさまざまな角度から「葬儀こそ人類の最重要問題」であることを訴えました。本書を読めば、読者は「葬儀ほど知的好奇心を刺激するテーマはない」ことを思い知るでしょう。いつもは「なるべく平易な言葉で書こう」「難解な哲学書などを引用するのはやめよう」などといった配慮をするのですが、今回はガチンコで行きました。文体も「です」調ではなく「である」調ですし、ヘーゲルの『精神現象学』やハイデガーの『存在と時間』などの哲学書もガンガン引用しました。その結果、前代未聞の本が完成したように思います。最後に、わたしは「葬祭業ほど素晴らしい仕事はありません!」と訴えました。
参加者は、こちらが怖ろしくなるくらい、みんな真剣な表情で聴いていました。


国葬祭責任者懇親会のようす

挨拶する佐久間会長

わたしも挨拶しました



社長訓話後は、サンレー本社から松柏園ホテルに移動して、懇親会が開催されました。
冒頭、佐久間進会長が挨拶しました。佐久間会長は、「来年は創立50周年。あと30店は紫雲閣をつくろう!」と述べました。続くわたしは「地域の皆様から、紫雲閣に進出してほしいというオファーが相次ぐように頑張ろう!」と述べました。
それから、サンレー北陸の東孝則常務の音頭で声高らかに乾杯しました。



懇親会は、無礼講で大いに盛り上がりました。懇親会の最後は、サンレー北九州の祐徳秀徳部長がサンレー・オリジナルの「末広がりの五本締め」で締めました。わが社のオリジナル文化は色々とありますが、この「末広がりの五本締め」もそのひとつです。これをやると、みんなの心が本当にひとつになるような気がします。やはり、カタチにはチカラがあります! 


二次会も開催されました



いま、冠婚葬祭互助会業界は大きな過渡期にあります。
しかし、わたしたちは「人間尊重」をミッションとする礼業の会社として、正々堂々と胸を張って葬儀のお世話をさせていただきたいものです。そして、互助会の会員さんが幸せになるためのお手伝いができるように、つねにアップデートを心がけ、アップグレードを目指したいと思います。懇親会終了後は、松柏園のラウンジにて二次会が行われ、サンレー沖縄の黒木昭一部長が乾杯の音頭を取りました。



ブログ『稲盛流コンパ』では組織の団結を実現するコンパについて紹介しました。経営トップも管理職も若手社員もすべて胸襟を開いて飲んで語り合うコンパには、人間関係を良くして、業績を向上させる力があります。まさに、理念とコンパは経営の両輪ですね。
じつは、わが社には50年来のコンパの伝統があります。
そして、今夜のサンレー流コンパも大いに盛り上がりました。
やはり、理念と志をともにする「同志」とのコンパは最高です!


茂木健一郎&奥田知志のご両人と



二次会を終えて小倉の夜の街を歩いていたら、ブログ「有縁社会」で紹介したように、思いがけない方々とお会いしました。ブログ「茂木健一郎&奥田知志講演会」で紹介した講演会で講師を務められたお二人です。わたしは、そのとき、講演会の冒頭でお二人の対談本の書評コメントを述べたのでした。ちょうど、わたしは前日、茂木さんの最新刊である『頭は「本の読み方」で磨かれる』(三笠書房)を読んだばかりで、その話を茂木さんにしたところ、「それはご苦労様です!」と言われました(笑)。また、奥田さんとはブログ「荒生田塾講演」でご一緒したばかりでした。そんなお二人を路上でバッタリ会って、わたしは「この世は有縁社会だなあ!」と痛感しました。お二人には、わたしの最新刊である『唯葬論――なぜ人間は死者を想うのか』(三五館)を送らせていただきます。


唯葬論

唯葬論

*よろしければ、「一条真也の新ハートフル・ブログ」もどうぞ。



2015年7月22日 佐久間庸和