みやこ紫雲閣竣工式

12日の11時から、みやこ紫雲閣の竣工神事が行われました。
もともと「行橋西紫雲閣」の名前で昨年9月3日に起工式を行い、オープン準備を進めていましたが、竣工式の本日になって「みやこ紫雲閣」への名称変更を決断しました。「みやこ」こそは最高に美しい響きを持つ大和言葉の言霊であることに気づいたからです。
場所は、福岡県京都郡みやこ町勝山黒田字深沼619−1。サンレーグループとして、福岡県内で34番目、全国では記念すべき60番目(いずれも完成分)の紫雲閣です。


完成したみやこ紫雲閣の外観

たくさんの花が届いていました

神饌=「おもてなし」の原点



神事の進行役は、サンレー総務課の國行課長が務めました。神事では、地元を代表する神社である正八幡宮の鶴我盛完権禰宜にお越しいただきました。鶴我権禰宜は、起工式で「これまで行橋や田川の紫雲閣さんでお世話になってきましたが、スタッフの方々の心配りにはいつも感銘を受けています。今や、九州で紫雲閣の名前を知らない人はいないでしょう。ここ勝山町はちょうどネックになっていた地区ですが、紫雲閣ができることになって近所の方々もさぞお喜びのことかと存じます。この国道201号線は、わたしが神社に通う通勤路なのですが、「サンレー紫雲閣建設予定地」の看板を見て、本当に嬉しかったです」と心温まる挨拶を述べていただいた方です。


竣工式のようす

一同礼!



開式の後、修祓之儀、降神之儀、献饌、祝詞奏上、清祓之儀を行いました。
それから、玉串奉奠です。最初にサンレーグループ佐久間進会長、続いて、株式会社サンレーの社長であるわたしが玉串を奉奠しました。


柏手を打つ佐久間会長

わたしも玉串奉奠しました



それから、株式会社ズズキ設計の鈴木会長、日本建設株式会社の出水執行役員福岡支店長、サンレー北九州本部長の橋本常務、紫雲閣推進本部長の東孝則常務が次々に玉串を奉奠しました。両常務とともに、関係部署のスタッフも二礼二拍手一礼しました。その後、撤饌、昇神之儀、そして閉式と、滞りなく竣工清祓神事を終えました。


感謝状を贈呈させていただきました



それから、感謝状贈呈式を行いました。
スズキ設計の鈴木会長、日本建設の出水執行役員に感謝状をお渡ししました。
わたしは、金一封を添えて、お二人に心よりの感謝を込めてお渡ししました。


主催者挨拶をしました



そして、主催者挨拶です。わたしは施主として次のように挨拶しました。
「このように立派なホールを建設できて、本当に嬉しく思います。これで、会員様に満足のゆく『おもてなし』を提供することができます。わたしは最近、『決定版 おもてなし入門』という本を書きましたが、もともと日本人の『おもてなし』の心は、言葉を交わさなくても相手の気持ちを『察する』という行為そのものにあり、日本人はその心に長けていました。なぜか。そこには日本の神道の『神祭』があります」


神饌を示しながら、「おもてなし」について語りました



わたしは、背後の神饌を示しながら、「これが『おもてなし』の源流です。ここには、お神酒や米や野菜などのお供え物がある。神様は『酒が飲みたい』とか『野菜をくれ』などとは一言も言いません。しかし、人間の側が『神様はきっとこういったものをお求めではないか』と察して行動する。お客様から『お水をください』と言われたら、『かしこまりました』と言って水をお出しする。これは、サービスです。おもてなしとは、『このお客様は喉が渇いておられるのではないか』と察して、何も言われなくても水をお持ちすることです。わたしたちは、最高の『おもてなし』を心掛けたいと願っています」と述べました。


「みやこ」は古代日本の首都だった!?



また、わたしは「この京都郡一帯の土地は日本の首都であったという説があります。1842(天保13)年、京都郡岡崎(現苅田町)に生まれ、漢学や国学を学んだ挟間畏三という人が1899(明治32)年、『神代帝都考』という書を出版しました。この本で、挟間は『神代の帝都、すなわち天孫降臨の地は日向ではなく、豊前の国の京都郡であって、ここがかつての日本の首都だ』と訴え、日本中に大センセーションを巻き起こしたのです」と述べました。


『神代帝都考』について説明しました

古代史の常識を覆す『神代帝都考』(1899年)



続いて、「挟間畏三は、正史に対する認識を改めてもらおうと1冊を宮内省に献上しました。だが、国史に関する異説だけに完全に無視されました。それから50年以上が経過した1960年代、日本中で耶馬台国論争が展開された頃、行橋市郷土史家らの目にとまり、『神代帝都考』は素晴らしい古代史研究であることがわかり、再評価を受けたのです」と説明しました。


いにしへのみやこ偲びて 如月の佳き日に出づる紫の雲



そして、わたしは「あの松本清張も『神代帝都考』の内容に大いに注目し、清張自身の著書『鴎外の婢』でも紹介しています。現在でも、「邪馬台国は、やっぱり行橋だった」と信じる古代史マニアの方もおられます。そのようなロマンあふれる土地に新しい紫雲閣をオープンすることができ、光栄に思っております」と述べた後、心を込めて以下の歌を詠みました。



いにしへのみやこ偲びて
        如月の佳き日に出づる紫の雲(庸軒)



その後、谷口恵吾支配人より、この地の方々の人生の卒業式を心をこめてお世話させていただき、地域に愛される会館をめざしますという力強い決意を受け取りました。
決意表明の後は、参加者全員で集合写真を撮影しました。


直会(なおらい)のようす

直会の冒頭で挨拶する佐久間会長



集合写真を撮影した後は、直会(なおらい)に移りました。
直会の冒頭では、佐久間会長が挨拶しました。会長はニコニコしながら「こんな素晴らしい土地にこんな素晴らしい施設ができ、まことに有難いことです」と述べました。また、会長は「先程、社長も言っていましたが、この地は世が世なら日本の都だったところです。ヤマトタケルノミコトの父親である景行天皇ゆかりの勝山御所が近くにあり、先日訪れてきました。政治的な配慮から編纂されたとされる『古事記』『日本書記』には登場しませんが、この京都は奈良のような首都であった可能性があると思います」と語りました。


鶴我権禰宜の発声で神酒拝戴しました



会長の挨拶の後は、正八幡宮の鶴我権禰宜が挨拶をされました。
鶴我権禰宜は「神主になって33年が経ちますが、今日ほど緊張したことはございません。佐久間会長様が國學院の大先輩で、かつOBの重鎮であると知り、挨拶や祝詞や作法をどのようにすべきかなどと考えていましたら、眠れない一夜を過ごしました。佐久間社長様より『おもてなし』のお話が出ましたが、紫雲閣様の『おもてなし』のレベルの高さは常々感じております。どうか、これからも『目配り』『気配り』『心配り』に努めて下さいますように。本日は、誠におめでとうございました」と述べられ、その後の乾杯の発声で直会がスタートしました。


最後は、末広がりの五本締めで・・・

儀式イノベーションを実現する「禮鐘」の前で



乾杯後は、松柏園ホテルの美味しい弁当を食べながら、みんなで楽しく歓談しました。
最後は、橋本洋介常務がサンレー名物「末広がりの五本締め」を行いました。直会を終えて外に出ると、新時代の儀式イノベーションを実現する「禮鐘」が置かれていました。


「毎日」「読売」「朝日」「西日本」新聞2月12日朝刊広告



このみやこ紫雲閣の見学会は、2月14日(土)10:00〜18:00、15日(日)10:00〜15:00に行われます。お楽しみ大抽選会も行われますので、ご来場をお待ちしております。なお、本日の「毎日」「読売」「朝日」「西日本」の各紙朝刊に広告が掲載されました。




*よろしければ、「一条真也の新ハートフル・ブログ」もどうぞ。



2015年2月12日 佐久間庸和