中学の同窓会

9日の夜、中学の同窓会に参加しました。
わたしの母校は日新館中学ですが、わたしたちは二期生になります。当時の日新館は中高一貫教育でしたが、わたしはそのまま高校には行かず、小倉高校に進学しました。ですから、中学の卒業式以来で35年ぶりに再会した同級生が多く、なつかしかったです。会場を訪れると、「おお、佐久間が来た〜!」とみんなから驚かれました。(苦笑)


中学の同窓会に参加しました



昨今、フェイスブックの普及により、これまで音信不通だった同級生との連絡が可能になってきました。その結果、各地で同窓会の開催が活発化しているようです。特に1963年生まれであるわたしたちは、今年でちょうど50歳になったこともあり、同窓会を開くには最高のタイミングでした。昨年、日新館高校の同窓会は開催されたそうですが、今年はわたしのような外部の高校に進学した者にも声をかけてくれました。わたしは谷内科クリニック院長の谷良樹君から連絡を貰って参加することができました。谷君には大変感謝しています。


久々に再会した同級生たち



わたしが、なぜ日新館中学に入学したのかというと、初代校長の小田郁男先生と両親が面識があったからです。わたしの母の佐久間徳子が、福岡教育大学付属小倉中学校で小田先生の教え子でした。両親とも、小田先生をとても尊敬していました。その御縁で、開校二年目の日新館に入学することになったのです。小田校長には、大変お世話になりました。
公私ともに御指導いただきましたが、平成15年8月にご逝去されました。謹んでご冥福を祈り、いま一度先生の教えに感謝の意を表します。その小田校長は、同校HPの「恩師寄稿『校名と校章について』」で、「日新館」という高名の由来を次のように述べておられます。
「日新館中学校創設の構想が胎動しはじめた当初から、いつも議題になったのは、当然の事ながら、校名であった。その候補として、『日新』以外では『修成・明和・北星・啓明・啓林・明光・明親・東小倉・光林・顕真』など、また『○○学園中学・○○社中学・学習院中学』も議に上がった。どの候補名も立派だが、どれも気に入らない。似た名称が他にあって気になる。随分古めかしいのもある。しかし、県に設立申請書を出すまでには名称を決定せねばならぬタイムリミットがある。昭和49年10月11日の第3回設立準備委員会で、慎重なる審議と理事長の断で、『日新館中学校』と決定し、翌12日の理事会で本決定となった。
『日新』の2字が教育の本質をズバリ一言で、表現している事、四書の一つである『大学』に【日日新又日新】【日日に新たにして又日に新たなり】とあって、原拠が良いことで、理事長はじめ全委員が一致して決定した。私は良い命名ができて嬉しい気持ちとホッとする気分と同時に、日新!日新!日新!と何度か心に繰り返し、名にふさわしい教育を実にする決意を新たにして、気持ちの高ぶりと責任の重さを感じた。親がはじめて子供の誕生に、名前をつけその未来に期待する気持ちも同じかという思いもした」
恩師寄稿「校名と校章について」より)



正直言って、「日新館」という校名は在校中はまったくピンときませんでした。
しかし今となってみれば、「日新館」は素晴らしい校名であると思います。「日新館」といえば会津の藩校として有名です。わたしが第二回「孔子文化賞」を受賞させていただいたとき、財団法人稲盛財団理事長の稲盛和夫氏とともに、会津藩校日新館名誉顧問の高木厚氏が同時受賞者でした。わたしは、「会津藩校日新館」という高木氏の肩書きを見たとき、「ああ、わたしの母校と同じ名前だなあ・・・」としみじみと思ったことを憶えています。


なつかしい顔が続々と現れました



わたしは、この日集まった同級生たちと次々に名刺交換しました。以下の面々です。
井口学君(井口商店社長)、浦橋斉悟君(うらはし整形外科クリニック院長)、江藤裕之君(東北大学大学院国際文化研究科教授)、加治敬通君(ハローデイ社長)、河島文雄君(Sweet Roomカワシマ)、城戸正開君(城戸内科クリニック院長)、真浄淳君(ゴールドマン・サックス証券ヴァイス・プレジデント法人営業部長)、田尻元宏君(田尻歯科医院院長)、平田雅哉君(フジテレビジョン技術管理部長)、古園伸一郎君(日本政策金融公庫北九州支店 中小企業事業統括)、松本研二君(クリーク・アンド・リバー社ライツ・マネジメント・グループ グループマネジャー)、村上智彦君(デンタルサポート村上 代表)。その他、名刺交換はできませんでしたが、釜木君、杉岡君、安田君、松岡君などが参加しました。


東北大・江藤教授の音頭で乾杯!



最初に、最も遠方である仙台から駆けつけてくれた江藤君の乾杯の発声で同窓会がスタートしました。わたしは、みんなから「佐久間は変わったなあ」「痩せたなあ」と言われました。
昔はもっとスマートだったのですが、さらに前の中学時代はたしかに太っていました。なにしろ、わたしは日新館中学相撲部の主将で、「大熊大士」というシコ名を持つ東の横綱だったのです。西の横綱が斎藤卓也君で、張出横綱が相川信二君でした。本当は、この両横綱にも会いたかったです。ちなみに城戸クリニック院長の城戸君は関脇で、ゴールドマンサックス証券ヴァイス・プレジデントの真浄君は小結だったと思います。(笑)
あと、わたしが各紙で連載しているコラムやエッセイを読んでくれている人が多くて、恐縮しました。わたしの本を購入してくれたという人も何人かいて、嬉しかったです。


多田篤尊先生



この日の同窓会は「多田先生を囲む会」という趣旨でした。多田篤尊先生は年配の先生方が多かった日新館において、数少ない若手の先生の1人でした。わたしたちが入学したときは、25歳だったそうです。数学の先生でしたが、大変な熱血漢で、いつも竹の棒を持って授業を行い、問題に答えられない生徒、授業中たるんだ態度を取った生には容赦なく竹の棒で叩きました。わたしも何度も叩かれ、とても恐ろしかったのを憶えています。みんな、「今なら、間違いなく暴力教師として問題になりますよ」と笑いながら言っていました。


卒業アルバムに見入る同級生たち

近況報告をする真浄君

近況報告をする松本君



何人かが卒業アルバムを持ってきていて、それを回覧しながら盛り上がりました。
それから、1人づつ近況報告をかねたスピーチを行いました。
各人の話を聴きながら、わたしは50男の年輪を感じました。
そのうち、わたしはの順番が回ってきました。わたしは、まず「佐久間です。今日は、お呼びいただき、ありがとうございました。みんなトシを取っているので(笑)、最初は誰が誰だかわかりませんでしたが、3分も話せば当時の面影がよみがえってきました」と言いました。


わたしも近況報告しました



それから現在の仕事のことなど近況を報告した後、次のように述べました。
じつは、今日ここに来ることが少しだけ不安でした。わたしは、みなさんとは違う高校に進学したので、『この裏切りもんが!』とか『何しに来たんか!』と言われそうな気がしたからです。でも、来て本当に良かったです。やっぱり、同級生というのはいいもんです。
いま、『無縁社会』などと言われて血縁も地縁も薄くなり、結婚式や葬儀の参列者も少なくなってきています。そんな中で、同じ学校で学び、同じ時間を共有したみなさんとの『縁』は本当にかけがえのない宝物だと思います。今日は、わたしにも声をかけていただいて、本当にありがとうございました」


多田先生の熱い話に感動!



全員が近況報告を終えた後、多田先生の御挨拶がありました。
多田先生は日新館に6年間勤務された後、富野中学校に移られました。そこで壮絶な苦労もされましたが、決して逃げず、あきらめず、情熱的に生徒たちに向っていかれたそうです。誰かが「リアル金八先生ですね」と言っていましたが、本当にその通りだと思いました。
富野中学に6年間おられた後も多くの学校に移られましたが、先生が学校の名前をあげるたびに「ぼくは今、その学校の校医ですよ」という声がいくつか出て、「縁は異なもの」という感じでした。最後に多田先生は、「みんな、本当に立派になった。指導的な立場にある人も多いと思うけど、指導で最も大切なことは『ほめる』ことです。中学3年で九九もできない生徒もいたが、『ほめる』ことによって数学ができるようになった者もたくさんいました。どうか、みなさんの社員や部下を大いにほめてあげて下さい」と言われ、わたしは胸が熱くなりました。
熱血経営で知られるハローディ社長の加治君も、頷きながら聴いていました。


集合写真(多田先生不在)

集合写真(多田先生を囲んで)



その後は、参加者全員で記念写真を撮影しました。
多田先生を囲んで撮影しようとしたら、先生がお手洗いに立たれたので、まずは先生抜きで撮影し、先生が帰ってこられてから改めて撮影し直しました。同級生のみなさん、この集合写真はブログやフェイスブックなどでどうぞ自由にお使い下さい。
また、必要な方は右クリックで写真データを保存されるといいでしょう。


多田先生に記念品が贈られました

なんと、竹の棒でした!

竹の棒で尻を叩く多田先生(笑)



最後は、多田先生への記念品贈呈が行われました。
田尻君から何か細長いものが先生に手渡されましたが、開けてみると、なんと竹の棒でした。それを見た加治君や真浄君が「その棒で、わたしを叩いて下さい」と言って、尻を突き出しました。多田先生は笑いながら、嬉しそうに2人の尻を叩かれました。
その他にも、杉岡君から渋いネクタイが多田先生手渡されました。


二次会のようす



同窓会は「一椿」という和食店でしたが、二次会が「K’s BAR」で開かれました。
わたしは、二次会ではジントニックや赤ワインをかなり飲みました。
そして、一次会では席が遠くて話せなかった同級生たちと話しました。
北九州予備校早慶コースでも一緒だった江藤君と話せて、なつかしかったです。


江藤君(東北大教授)と



江藤君は英語が得意で、上智大学の外国語学部に進学したのですが、上智のスター教授であった渡部昇一先生に憧れていました。予備校の授業中によく渡部先生の本を読んでいたことを憶えています。その彼は上智に入学し、渡部先生の指導を受け、今では東北大学の教授にまでなりました。専攻は英語学です。中学や予備校の頃、「英語の江藤、国語の佐久間」と言われていた時代もあった(?)ので、同級生としてすごく嬉しいです。
なお、江藤君は同じ北九州予備校早慶コースにいた女性と知り合って交際し、それが現在の奥さんだそうです。奥さんもわたしのことをよく憶えておられるそうで、そんな話を聞くと嬉しくなります。江藤君は翌日、渡部昇一先生の誕生日祝いの会に参加されるそうです。渡部先生とPHPから共著も上梓しているとのことで、憧れの人に近づいていく理想の人生を歩んでいる江藤君は本当に幸せな人だと思います。


加治君(ハローデイ社長)と



また、ハローデイ社長の加治君とも久々に飲めて良かったです。
加治君とわたしは「平成会」という若手経営者の勉強会に入っており、30代の頃はよく一緒に飲み歩いていました。彼は家業のスーパーを継いだとき、会社のバランスシートを見て絶望的な気分になったそうですが、「とりあえず2年は頑張ろう」と決心したそうです。その後、会社はV字回復を果たし、その後はずっと増収増益を続けています。
ときどき、彼の活躍を紹介したテレビ番組などを見て、同級生として嬉しく思っていました。加治君も「佐久間の活躍を見ると嬉しいよ」と言ってくれました。
世の中には、「他人の不幸は蜜の味」というか、他人の成功をうらやんだり、特に同級生の活躍を妬むような人もいるようですが、お互いの活躍に刺激を受けて鼓舞され、それによって自分も活躍できるように頑張る。これが本当の同級生の関係であるべきだと思います。



加治君は大変な読書家で、人間学の雑誌である「致知」なども愛読しています。
彼とは本の話もしましたが、彼の一番の愛読書は渡部昇一先生の著書だそうです。
ここでも、江藤君と加治君の2人の同級生が不思議な縁で結ばれていることを知りました。
わたしも渡部先生の著書はほとんど読んでいるつもりですが、最初に読んだ本は大ベストセラー『知的生活の方法』(講談社現代新書)でした。この本を中学1年のときに読み、非常にショックを受けました。読書を中心とした知的生活を送ることこそが理想の人生であり、生涯を通じて少しでも多くの本を読み、できればいくつかの著書を上梓したいと強く願いました。
書斎にある『知的生活の方法』は、もう何十回も読んだためにボロボロになっています。表紙も破れたので、セロテープで補修しています。そう、この本は、わたしのバイブルなのです。
わたしは『あらゆる本が面白く読める方法』(三五館)という「読書」をテーマにした本を書きましたが、これは恩書である『知的生活の方法』へのオマージュだと思っています。



そして、『知的生活の方法』の存在を中学1年生だったわたしに教えてくれた人こそ、日新館中学の初代校長である小田郁男先生だったのです。たしか、「校長の時間」のような授業で、小田先生はわたしたちに「本を読みなさい。わたしは最近、こういう本を読んで面白かった」と同書の実物を示して紹介してくれたのです。このとき、小田先生に『知的生活の方法』を教わらなかったら、わたしは今のような本の虫にならず、おそらくは著書もこんなに執筆していなかったでしょう。すべての運命の鍵は日新館にあったのです。
「嗚呼、無情」じゃなくて、「嗚呼、有縁」ではありませんか!
さらに、江藤君も加治君もPHPから著書を上梓しています。
わたしも含めて、「PHP縁」というものが3人にはあるのです。
本当に、この世界は目に見えない縁の糸で張りめぐらされている「有縁社会」です。


三次会で加治君、城戸君と



二次会の後は、三次会も行きました。城戸君が「ぼくの趣味はクラブ活動です」と近況報告で述べたので、彼の行きつけの店を加治君と3人で訪れました。城戸君とはたしか中学の3年間とも同じクラスで仲良しでした。彼は昭和大学医学部に進学しましたが、五反田に住んでおり、戸越に住んでいたわたしとよく遊びました。
三次会はカラオケのある部屋で、わたしは桑田佳祐の「祭りのあと」を歌いました。
35年ぶりの同窓会という「祭り」の直後で、まさに「祭りのあと」の心境でした。
加治君も歌いましたが、「こうやって佐久間とカラオケを歌うと、レパードに通っていた頃がなつかしいな」と言っていました。そう、ブログ「小倉の止まり木」で紹介したスナック「レパード」は今ではもう存在しませんが、30代の頃の思い出が詰まっています。


三次会も盛り上がりました



日付も変わって閉店の時間となり、わたしたち3人は店を出ました。
そして固い握手を交して、「また会おう」と約束し、別れました。
同窓会に参加して本当に良かった。やっぱり、同級生はいいもんです。
最後に、わたしはフェイスブックが好きではなく、自分でもやっていません。
でも、こうやって、なつかしい同級生に会わせてくれるのは、やっぱり凄い!
今回だけは、マーク・ザッカーバーグ氏に感謝します。



*よろしければ、「一条真也の新ハートフル・ブログ」もどうぞ。



2013年11月10日 佐久間庸和