営業責任者会議

13日、 サンレーグループ全国営業・相談室責任者会議が開催されました。
16時半からは社長訓話の時間です。訓話に先立ち、営業部門の各種表彰を行いました。
わたしは感謝の念を込めて、表彰状や金一封、それからトロフィーを表彰者に渡しました。


最初に、営業優績者の表彰をしました



表彰式が終わると、わたしは60分ほどの社長訓話をしました。
まず最初に、ブログ「開成の運動会」に書いた一件の自分なりの意見を述べた後で、「人として堂々と生きる」「卑怯な振る舞いをしない」という話をしました。
それから、わたしが敬愛する戦国武将の上杉謙信武田信玄について話しました。
まず、上杉謙信は「非道を知らず存ぜず」という言葉を残しています。謙信が越後国一宮・彌彦神社に奉納した願文の中に出てくる言葉です。原文は「不知非道不存」と漢文で表記されており、昭和44年(1969年)に国の重要文化財に指定されています。
「毘」の旗を掲げて戦国の世を生きた謙信は、不正や不義を許すことが出来ない人でした。彼は武将として天賦の才に恵まれた上に、教養人としても第一流だったのです。
そして、礼節に基づいた「心ゆたかな社会」の実現をめざしていたように思います。


営業・相談室責任者会議を開催しました



謙信は、川中島で何度も激闘を繰り広げた信玄に対して終始気高い見本を示したとされています。信玄の領地は海から隔たった山間の甲州であり、彼は塩の供給を東海道の北条氏の所領に仰いでいました。北条氏康はそのころ、あからさまに信玄と戦っていたわけではありませんでしたが、信玄の勢力を弱めたいと願っており、この重要な物資の供給を断ってしまいます。謙信はその敵である信玄の窮状を聞き、自領の海岸から塩を得ることができるので、これを商人に命じて価格を公平にした上で分けてあげました。有名な「敵に塩を送る」の故事です。謙信はもともと熱心な仏教信者でしたが、それだけに大将としての権謀術数ぶりもさることながら、戦い方は情け深く公平で、相手の非に付け込まなかったといいます。それはまさに、江戸時代に確立する武士道の源と言えるでしょう。


謙信と信玄について話しました



一方の信玄ですが、当然ながら多くの敵がいました。しかし、信玄について詳しく描いた『甲陽軍艦』には「敵の悪口はいうな」という信玄の言葉が紹介されています。
この信玄、じつは彼の敵たちからも一目置かれていました。
戦国時代、上杉謙信武田信玄と14年にわたって戦っていました。合戦さなかに信玄の死が伝えられると、謙信は食べていた箸を取り落として「敵中の最もすぐれた人物」を失ったとさめざめと泣いたといいます。そして、家臣たちが「今、武田を撃てば勝てる」と浮き足立つのを、「人の落ち目を見て攻め取るのは本意ではない」と戒めました。


信玄と謙信が残した言葉



徳川家康も、敵である信玄が陣中に没したと聞いたとき、「まことに惜しい人を亡くしたものだ。信玄は古今の名将で、自分は若い時からその兵法を見習ってきた。いわば私の師とも言える。その上、隣国に強敵があれば、政治でも軍事でも、それに負けないようにと心がけるから、自分の国もよくなる。そういう相手がいないと、つい安易に流れ、励むことを怠って弱体化してしまう。だから、敵ではあっても信玄のような名称の死は、まことに残念であり、少しも喜ぶべきことではない」と家臣に言ったそうです。



家康といえば「海道一の弓取り」と言われたように、戦の名手で、ほとんど戦って負けを知らない武将でした。秀吉でさえも、小牧・長久手の合戦では、局地戦において一敗地にまみれているほどです。その家康にして完敗したのが武田信玄でした。三方ヶ原の合戦がそれで、両軍の軍勢にも差があったとはいえ、名人芸のような信玄の戦いぶりの前に、善戦むなしく家康自身が九死に一生を得るといった姿で打ち破られたのです。その直後に強敵が突然に死んだのですから、手を打って喜びたいところです。しかし家康は、そんな目先のことではなく、もっと大きな観点から、信玄を自分の真の実力を鍛えてくれる師ととらえ、だから信玄のような相手がいてくれることが、自分の長久の基礎を作るためには必要だと考えたのです。


なぜ、敵の悪口を言ってはいけないのか?



さて、信玄の「敵の悪口はいうな」に戻ります。
なぜ、敵の悪口を言ってはいけないのか。敵とはそもそも相容れない相手であって、ののしりあうのは当然とまでは言わないにしても、いたしかたないのではないか。
そこには、まず、敵をののしることで相手を憤慨させ、逆に相手を強大化させてしまうといけない、という計算も含まれているかもしれません。しかし、その根本には、信玄と謙信の間にあるような互いを尊重する「礼」の精神こそが、武士の戦いには必要であると考えていたのではないでしょうか。また信玄の日頃のそういった考え方が謙信の心に届き、塩の一件や、信玄死去の際の慟哭につながったように思います。


戦国武将について語りました



徹頭徹尾、フェアプレイ精神に生きた謙信に比べて、家康はその晩年に代表されるようにアンフェアな印象があります。「国家安康、君臣豊楽」の文字を徳川家への呪いの言葉とした方広寺梵鐘の鐘銘事件は前代未聞の言いがかりですし、それによって大坂冬の陣を強引に起こしました。大坂方との和解によって冬の陣が終わった後も、詐欺まがいの手口で大坂城の内堀を埋めたところなど、当時の家康はまるで暴力団の親分そのものです。
しかし、その家康でさえ、信玄の日頃の考え方には敬意を表していました。



後の徳川幕府において儒学が取り入れられ、武士道が完成しますが、それには信玄の思想も影響していたのではないでしょうか。いま考えると、江戸時代に完成した武士道には、家康の「神」、謙信の「仏」、信玄の「儒」といった3つの思想がバランスよく混ざり合っているように思います。ブログ『武士道』にも書いたように武士道の基本は神仏儒であり、それは冠婚葬祭の基本でもあります。神道と仏教と儒教は、日本人の「こころ」の三本柱なのです。



もちろん、わたしは会社の営業責任者会議で戦国武将の話がしたいのではありません。謙信の「非道を知らず存ぜず」、信玄の「敵の悪口をいうな」という名言を社員への具体的なメッセージにしたいと思っているのです。
わたしは、同業他社であっても良い点はどんどん素直に学ぶことを心がけ、社員にもそう勧めています。また、どんなにいわれのない誹謗中傷を他社から受けても、法的手段に出ることはあっても、絶対に相手の悪口は言わないように決めています。そんな会社はいずれ自滅することがわかっているからです。



いま、わたしは冠婚葬祭互助会業界の倫理規範の原案を書いているところです。
全日本冠婚葬祭互助協会(全互協)の前会長で、現在は九州ブロック長である(株)ラックの柴山文夫社長から依頼されたのです。残念なことに業界の中には、他社の誹謗中傷を行って会員の切り替えしをしている互助会があるそうです。互助会の社会的使命が問われている大切な今の時期に、まだそんなことをしている会社があるとは驚きですが、その会社が業界を代表する大手だと知って開いた口が塞がりません。まあ、そんなモラルのない互助会は消費者団体からの攻撃にでもあって消えていく運命にあるように思います。



その後は、ブログ『本を読んだら、自分を読め』で紹介した本に出てくる「本にも載っていないデータを読み解く力を持つ」、「自分の中に教師の人格を持て」などの話をしました。特に、警察への110番通報のエピソードにはみんな興味を抱いたようでした。
さらに、ブログ『プロカウンセラーの聞く技術』で紹介した本のエッセンスを話しました。特に、「自分のことは話さない」「聞き上手には上下関係なし」「嘘はつかない、飾らない(オープンということ)」「LISTENせよ、ASKするな」といったテーマを重点的に話しました。みんな、熱心にメモを取っていました。このように、わが日々の読書の果実を会議の席で披露することは「情報の共有」という点においても意味があると思っています。


松柏園ホテルにて



社長訓話後は、サンレー本社からに移動して、懇親会が開催されました。
最初にてわたしが挨拶し、それから橋本常務の音頭で乾杯しました。
懇親会では、多くの社員がわたしのブログを楽しみにしていると言ってくれました。「ブログを再開して下さって、本当にありがとうございます」とも言われました。営業員さんや相談員さんたちも、毎朝必ずチェックしてくれているとか。
お客さんとの会話をするときに、「じつはウチの社長が・・・・・」という具合に、話題を提供できるというのです。それを聞くと、疲れた体で書くブログにも張り合いが出ます。



懇親会の最後は、松田部長が中締めの挨拶をしました。
松田部長は、「末広がりの五本締め」を行いました。
いま、冠婚葬祭互助会業界は大きな過渡期にあります。
しかし、わたしたちは「天下布礼」を生業とする礼業の会社として、正々堂々と胸を張って冠婚葬祭互助会の営業や相談室の業務を行っていきたいです。



*よろしければ、「一条真也の新ハートフル・ブログ」もどうぞ。



2013年5月14日 佐久間庸和