「天下布礼」の道を極める

17日の午後、東京から北九州へ戻ってきました。
18日は、早朝から松柏園ホテルの神殿で月次祭を行いました。
戸上神社の是則神職が神事を執り行って下さいました。
祭主である佐久間進会長に続いて、わたしは参列者を代表して玉串奉奠しました。


月次祭のようす

玉串奉奠する佐久間会長



神事の後は、恒例の「平成心学塾」を開催しました。
最初に、サンレーグループ佐久間進会長が檀上に立ち、簡単に訓話をしました。
一般社団法人・全日本冠婚葬祭互助協会(全互協)の初代会長でもある佐久間会長は「冠婚葬祭互助会は日本人に最も合った、世の中に必要な事業であると確信しています」と述べ、互助会業界の現状に対しての持論を述べました。


平成心学塾のようす

訓話する佐久間会長



続いて、わたしが檀上に立ちました。
まずは、ブログ『火花』で紹介した「ピース」の又吉直樹氏の小説が芥川賞を受賞した話から始まって、ブログ「読書インタビュー」で紹介した取材の話、さらにはブログ「杉山雄吉郎氏祝賀会」で紹介した“リオのカーニバル”の話などをしました。


わたしが講話を行いました



それから、安保関連法案通過についての私見を述べました。
また、それに関連して自民党民主党に対する私見も語りました。
8月15日、ついに終戦70周年を迎えます。じつに日本人だけで310万人もの方々が亡くなった、あの悪夢のような戦争から70年という大きな節目を迎えたのです。
3月20日には、地下鉄サリン事件から20周年を迎えました。ということは、いわゆるオウム真理教事件はちょうど戦後50年の年に起こったことになります。


麻原彰晃は「ナチス」に異様な関心を抱いており、自身をヒトラーに重ね合わせていたことは有名です。ナチスやオウムは、かつて葬送儀礼を行わずに遺体を焼却しました。ナチスガス室で殺したユダヤ人を、オウムは逃亡を図った元信者を焼いたのです。今年になって、「イスラム国」と日本で呼ばれる過激派集団「ISIL」が人質にしていたヨルダン人パイロットのモアズ・カサスベ中尉を焼き殺しました。わたしは、葬儀を抜きにして遺体を焼く行為を絶対に認めません。しかし、イスラム国はなんと生きた人間をそのまま焼き殺したのです。


戦後70年を記念して出版された『永遠葬』と『唯葬論



現在の日本では、通夜も告別式もせずに火葬場に直行するという「直葬」が増えつつあります。あるいは遺灰を火葬場に捨ててくる「0葬」といったものまで注目されています。 
しかしながら、「直葬」や「0葬」がいかに危険な思想を孕んでいるかを知らなければなりません。葬儀を行わずに遺体を焼却するという行為は「礼」すなわち「人間尊重」に最も反するものであり、ナチス・オウム・イスラム国の巨大な心の闇に通じているのです。


永遠葬』について話しました



20年前の一連のオウム真理教事件の後、日本人は一気に「宗教」を恐れるようになり、「葬儀」への関心も弱くなっていきました。もともと「団塊の世代」の特色の一つとして宗教嫌いがありましたが、それが日本人全体に波及したように思います。それにしても、なぜ日本人は、ここまで「死者を軽んじる」民族に落ちぶれてしまったのでしょうか?
このたび、一条真也として書いた著書『永遠葬』(現代書林)が刊行されました。
サブタイトルは「想いは続く」です。葬儀によって、有限の存在である“人”は、無限の存在である“仏”となり、永遠の命を得ます。これが「成仏」です。
葬儀とは、じつは「死」のセレモニーではなく、「不死」のセレモニーなのです。
そう、人は永遠に生きるために葬儀を行うのです。「永遠」こそが葬儀の最大のコンセプトであり、わたしはそれを「0葬」に対抗する意味で「永遠葬」と名づけたのです。


唯葬論』について話しました



さらに、わたしは『唯葬論』(三五館)を上梓しました。サブタイトルは「なぜ人間は死者を想うのか」です。わたしのこれまでの思索や活動の集大成となる本です。
わたしは、人類の文明も文化も、その発展の根底には「死者への想い」があったと考えています。約7万年前に、ネアンデルタール人が初めて仲間の遺体に花を捧げたとき、サルからヒトへと進化しました。その後、人類は死者への愛や恐れを表現し、喪失感を癒すべく、宗教を生み出し、芸術作品をつくり、科学を発展させ、さまざまな発明を行いました。
つまり「死」ではなく「葬」こそ、われわれの営為のおおもとなのです。
葬儀は人類の存在基盤です。葬儀は、故人の魂を送ることはもちろんですが、残された人々の魂にもエネルギーを与えてくれます。もし葬儀を行われなければ、配偶者や子供、家族の死によって遺族の心には大きな穴が開き、おそらくは自殺の連鎖が起きたことでしょう。葬儀という営みをやめれば、人が人でなくなります。葬儀というカタチは人類の滅亡を防ぐ知恵なのです。そして、死者を弔う行為は「人の道」そのものなのです。


「久高オデッセイ」のオープニング映像を上映



また、わたしはブログ「久高オデッセイ」で紹介した大重潤一郎監督の映画について話しました。昔から沖縄の久高島では、男は海人(アマンチュ)、女は神人(カミンチュ)と定められて生きてきました。そして月の満ち欠けに基づいた旧暦の暦に沿って漁や祭祀が行われてきました。琉球王朝時代以降、久高島は「神の島」と呼ばれ、12年に一度の午年神女の継承式であるイザイホーが行われてきました。イザイホーは1978年を最後に後継者不足のため途絶えましたが、その後も地下水脈は流れ続けています。映画「久高オディッセイ」は2002年から2014年までの12年間その地下水脈の流れを見続けてきた記録です。
今日は第一部のオープニングのみ上映しましたが、参加者はみんな興味深そうでした。


それから、ブログ「シネマトークのお知らせ」で紹介した2本の映画を紹介しました。
1本は、イギリス・イタリア合作映画である「おみおくりの作法」です。
孤独死した人の葬儀を執り行う公務員の姿を描く感動の人間ドラマです。
わたしも非常に感動し、ブログ「おみおくりの作法」で紹介しました。


それから、もう1本は「マルタのことづけ」というメキシコ映画です。
監督の実際の体験をもとにして、孤独な女性と余命わずかなシングルマザーとその子どもたちとの交流を描いた美しい物語です。「私がいなくなっても、笑顔でいてほしいから」「遺したい、愛しいあなたたちへ」というキャッチフレーズで、世界の映画祭で絶賛されました。


死が怖くなくなるお手伝いがしたいです!



じつは、ブログ「小倉昭和館」で紹介した名画座で、この2本について語ることになりました。それぞれ葬儀映画、終活映画の決定版であり、今からワクワクしています。
この日は2本の予告編を上映し、シネマトークへの参加者を募りました。
わたしは、参加者のみなさんには「ぜひ鑑賞してほしい」と言いました。
わたしは、互助会の会員様に読書や映画鑑賞をおススメしたいと考えています。
というのも、互助会を単なる「死んだら葬式をあげてくれる会」にしたくないのです。
互助会の会員様に豊かな「老い」と安心できる「死」を提供させていただきたいのです。
サンレーさんに入会したら、トシを取るのが楽しいし、死ぬのも怖くなくなったよ!」と言っていただけたら、どんなに素敵でしょうか! これからも、「老いる覚悟」と「死ぬ覚悟」を与えることができる冠婚葬祭互助会の運営をめざしたいです。


業界の動向を説明する佐久間室長



わたしの講話の後は、佐久間康弘室長が業界の動向などについて説明しました。
現在、冠婚葬祭互助会業界は非常に大きな過渡期を迎えています。
ここは各社が一致団結して、なんとか未来を切り拓かなければなりません。
互助会の存亡を決するのは、施設の数でも売上でも財務内容でもありません。
「互助会とは何か」「冠婚葬祭とは何か」についての明確な哲学であると思います。
檀家減少による「寺院消滅」、氏子減少による「神社消滅」・・・これらを防ぐのも儀式を国民に提供する「こころのインフラ」としての冠婚葬祭互助会であると思っています。


サンレーは「天下布礼」の道を極めます!



サンレーは、これからも高い志をもって「天下布礼」の道を極めていく所存です。
最後は佐久間会長が再び登壇して、沖縄で思いついたという画期的なアイデアを披露しました。それは、「水引き」などに代表される「結び」の文化を世界遺産に申請するというものです。和食や和紙に続いて、「結び」が世界遺産になれば素晴らしいですね。
最後に一言。何事も「ロマンとソロバン」が大事であると思います!



*よろしければ、「一条真也の新ハートフル・ブログ」もどうぞ。



2015年7月18日 佐久間庸和