たった一字に深い意味を秘めている文字は、世界でも漢字だけです。
そこには、人のこころを豊かにする言霊が宿っています。
その意味を知れば、さらに、こころは豊かになるでしょう。
今回ご紹介するハートフル・キーワードは、「書」です。



わたしは、とにかく毎日、書いています。
何を書くか。まず、原稿を書きます。現在はコラムなどの連載が新聞・雑誌・ネットを合わせて月に12本あります。毎月の社内報にも、社員へのメッセージを書きます。そのうえ、新聞社や出版社から単発の原稿依頼も来ます。当社のミッションやわが志を世の人々に伝えたいので、よほどの理由がない限りは執筆の依頼を断らないようにしています。



さらに、単行本を執筆する場合は、それこそ寝る間も惜しんで書きまくります。
別に早く書く技術を学んだわけでもありませんが、本を書くのは早い方です。
最近も、約1か月で合計600枚の原稿を書き、『唯葬論』を脱稿したばかりです。
およそ四半世紀前に上梓した『ロマンティック・デス〜月と死のセレモニー』はハードカバーで440ページもあり、かなり濃度の濃い内容だが、1か月かからないで書き上げましたた。2003年末には『結魂論〜なぜ人は結婚するのか』と『老福論〜人は老いるほど豊かになる』を2冊同時に上梓しました。わたしとしては実に10年ぶりの単行本の執筆でしたが、それぞれ約2週間ずつで書き、2冊あわせて1か月かかりませんでした。



それもパソコンではなく、手書きで書くのです。何を隠そう、築90年におよぶ骨董住宅に住むわたしは、自身も超アナログ人間であり、2006年4月刊の『孔子とドラッカー』が生まれて初めてパソコンを使って書く本でした。その前の『ハートフル・ソサエティ』も、すべて手書きで書きました。わたしは万年筆が好きで、少々集めてもいます。社長に就任したときは、父、友人一同、先輩経営者などから記念にそれぞれ万年筆を贈られました。わたしの宝物です。でも原稿は万年筆では書きませんでした。200字詰めのぺラの原稿用紙にユニボールの黒のサインペンで書くのです。処女作『ハートフルに遊ぶ』からずっと一貫して愛用しており、今でも手帳にメモなどを書き込むときは、このペンです。わたしは筆圧が強くて無理な力が入るため、1冊分の原稿を書いた後は、いつも右手の中指が変形するほど腫れあがっていたものです。そういう意味では、目は疲れるけれども指は痛くないので、パソコンはありがたいですね。
 


何を書くか。手紙を書きます。わたしは、毎日のように誰かに手紙を書いています。初めて面会した政治家や経済人や文化人、研修旅行などで同行した人、パーティーで知り合って名詞交換をした人、読んで感動した本の著者、とにかくありとあらゆる人に手紙を書きます。社員や友人に誕生日のカードも書きます。それも結構長文で、ノッてくると便箋で10枚ぐらいは平気で書きます。それによって、ずいぶん多くの方々との縁を深められたのではないでしょうか。



きみに読む物語」という映画で、恋人に365通のラブレターを出した男というのが出てきて話題を呼んだことがありますが、はっきり言って、わたしがその気になればキミヨムを軽く超える自信はあります。以前は、絵ハガキもよく書きました。出張が多いので、出張先から家族や友人にさまざまな写真のポストカードを出したものです。わたしが疲れたときに寄る止まり木のような小さなスナックが小倉にあって、そこのマスターに絵ハガキを出すと、とても喜んでくれました。それが嬉しくて、ついつい調子に乗って全国各地から、また海外からも出していたら、気づくと500枚ぐらいになっていた。わたしが出した絵ハガキはすべて店内に飾られていましたが、その店も今はもうありません。



何を書くか。筆で自作の短歌を短冊に書きます。わたしは、当社の使命やわが志を歌に込めて、社員に披露しています。そんな達筆ではないので本当は恥ずかしいのですが、社長が自らの直筆で書くことが大事と思い、書いた短冊は社員にプレゼントしたり、会社のエレベーター内に展示したりしています。



何を書くか。大切な本を書き写します。『論語』や吉田松陰の『留魂録』などは筆で書き写しましたが、10年ぐらい前はよくサインペンで司馬遼太郎の主要作品の重要部分を書き写しました。伊東屋で求めた皮製のちょっと贅沢な手帳を使ったものです。ただ読むだけでなく、自分の手で愛読書を書き写すと、内容が強く心のなかに入ってきます。戦国時代や幕末明治を描いた司馬作品はすべて筆写しましたが、人間探求の絶好の勉強となり、『孔子とドラッカー』や『龍馬とカエサル』などの執筆に大いに役立ちました。



何を書くか。お経を書き写します。「般若心経」を中心として、写経がブームになって久しいようです。初期の仏教では、経典は口承で伝えられ、文字化されていませんでした。お経の書写が行なわれるようになったのは、紀元前後、ちょうど部派と大乗との区別ができあがったころと言われています。事実、『般若経』や『法華経』などの大乗仏典には、経典の授受、読誦と並んで、写経の功徳が強調されています。



写経は、仏の教えを体得するための仏道修行でもあります。かつて写経生や僧侶は、斎戒沐浴して身を清め、部屋を荘厳にして写経に臨んだといいます。しかし、初めて写経に取り組むときは、そうした厳しい作法に従うよりも、とにかくまず書いてみることが大切であり、習字の練習をするような気持ちで筆を取る方がよいようです。とはいえ、仏の言葉であるお経を書き写すのですから、一字一句を仏と思って心を込めなければなりません。



心静かに書き写していると、次第に気持ちが落ち着き、書き終えたときは非常にすがすがしい気分が味わえます。これこそ写経の功徳かもしれません。わたしは冠婚葬祭業を営むうえで、各宗派のお経について勉強する義務があると思っています。まだ「般若心経」レベルですが、今後はさまざまなお経を書き写して、仏の心を感じてみたいと思います。
なお、「書」については、『孔子とドラッカー 新装版』(三五館)に詳しく書きました。


孔子とドラッカー 新装版―ハートフル・マネジメント

孔子とドラッカー 新装版―ハートフル・マネジメント

*よろしければ、「一条真也の新ハートフル・ブログ」もどうぞ。



2015年4月28日 佐久間庸和