たった一字に深い意味を秘めている文字は、世界でも漢字だけです。
そこには、人のこころを豊かにする言霊が宿っています。
その意味を知れば、さらに、こころは豊かになるでしょう。
今回ご紹介するハートフル・キーワードは、「灯」です。




冠婚葬祭業を営むわたしは、結婚式でも葬儀でもロウソクが使われることを昔から興味深く思っていました。結婚披露宴では、キャンドル・サービスや、最近ではキャンドル・リレーといった演出も普及しています。葬儀はもちろん、法要や追悼式、供養祭などでもロウソクは欠かせません。さらに言えば、神道でも仏教でも儒教でも、ユダヤ教でもキリスト教でもイスラム教でも、その宗教儀式においてロウソクはきわめて重要な役割を果たします。そういえば、ゾロアスター教という火そのものを崇拝する宗教もありました。




火があらゆる宗教儀礼で使用されることはそんなに不思議なことではないのかもしれません。照明は火の模倣からはじまっています。焚き火以前にも、自然界には火山もありましたし、山火事のような自然発火もありました。そのように、もともと存在していたものを人間がコントロールできるようにして製品化し、生活に活かしてきたものがロウソクなどの照明なのです。




そして、火とは何かと考えた場合、それは天上の太陽を地上に降ろしたものに他なりません。世界中のあらゆる民族に共通した信仰の対象は太陽と月です。焚き火や松明が地上の太陽光なら、かすかなロウソクの炎は地上の月光です。月光は天国や極楽といった「あの世」を幻視させる力をもっています。宗教儀礼で使われてきたことは当然でしょう。




わたしは、世界各地の宗教の発達においてロウソクが果たした役割は非常に大きかったと思っています。それは、ロウソクの炎が揺れることも大きな原因があったことでしょう。最近、ロウソクの炎を見つめて瞑想する人が増えてきています。これは、古代のロウソクと宗教の結びつき想像させるものです。




ロウソクの炎の揺れ方は、いわゆる「1/fゆらぎ」だという説があります。人の心拍の間隔、電車の揺れ、小川のせせらぎ、木漏れ日、蛍の光り方なども「1/fゆらぎ」だとされているようです。ロウソクの炎が揺れれば心も揺れる。人間の心の歴史にロウソクは深く関わってきました。宗教のみならず、哲学においてもそうでした。




ロウソクの起源は、紀元前2000年から1500年のギリシャにさかのぼります。ミノア文明とかクレタ文明と呼ばれる古代文明がありました。当時のクレタ島ギリシャキプロス、エジプトなどとの交流ポイントにありましたが、このクレタ島からロウソクを置く燭台が発見されたのです。古代エジプトではミイラ作成のために古くからミツロウが使われていました。2300年前のツタンカーメン王の墓からも燭台が発見されています。



当然ながら、時代が下ったギリシャアテネでもロウソクが活躍していました。紀元前3世紀には相当に普及していたようです。その頃、ソクラテスが誕生しました。いわゆる哲学そのものを生んだのは彼だとされています。アテネの夜、ロウソクを前にして、さまざまな哲学談義が交わされたことは想像に難くありません。まさに、ロウソクは哲学の産婆である、揺りかごだったのかもしれません。




信仰や思想が対立すれば戦争になります。でもロウソクは、あらゆる宗教や哲学を結びつけます。まさに平和のシンボルです。「和ろうそく」というものがあります。日本製のロウソクという意味です。日本には奈良時代に中国から仏教とともにロウソクが入ってきたとされています。しかし、和ろうそくの「和」には「平和」そのものの意味も込められているのではないでしょうか。和ろうそくに火をともせば、世界が平和になれば素敵ですね。
ロウソクは自らの身を細らせて燃えるもの。自己を犠牲にして周囲を照らすものです。ただひたすら他者に与える存在であり、それは「利他」の実践にほかなりません。人間がみなロウソクのように生きれば、世界は平和になるはずです。



わたしは、かつてこんな短歌を詠みました。
「ただ直き心のみにて見上げれば 神は太陽 月は仏よ」
神が放つ太陽光、仏が照らす月光。その両方が人間にとって必要なことは言うまでもありません。人間は光を放つことはできないが、灯をともすことはできる。天の光を仰ぎ、地に灯をともす。それが、人の道かもしれません。



人の道といえば、それを体系的に説いた教えが儒教です。孔子の開いた儒教では、個人を家庭や社会と結びつけて一貫した人格形成を説きます。そのメインテキストとして、『大学』『論語』『中庸』『孟子』の、いわゆる「四書」があります。いずれも「修己知人の書」といわれ、日本で独自の発展を遂げました。そのテーマは、身を修めた一人のともした灯が、やがて家族を照らし、社会を照らすにいたるというものです。



「一燈照隅行」という言葉があります。おのおのが、それぞれ一燈となって、一隅を照らす、すなわち自分が存在する世界の片隅を照らすことです。伝教大師こと最澄は、著書『山家学生式』の中で、この「一隅を照らす」という言葉を使っています。最澄が開いた比叡山は多くの灯をともす者たちを輩出しました。すなわち、法然親鸞栄西道元日蓮といった日本仏教史の巨人たちです。彼らはみな、もともと比叡山で修行する天台宗の僧侶であり、開祖である最澄の「一隅を照らす」という志を受け継ぐ者たちでした。灯をともす人間が増えていくと、一燈が万燈になります。それが「万燈遍照」です。わたしたち、すべての人類がめざす道です。



まずは、一燈から。すべては、一燈から。
人間は一燈を灯すことができます。
それが万燈になり、大いなる文化や文明がつくられてゆきます。    
そう、「灯」とは人間の営みそのものなのです。なんと偉大なことでしょうか!
なお、「灯」については、『灯をたのしむ』(現代書林)に詳しく書きました。



*よろしければ、「一条真也の新ハートフル・ブログ」もどうぞ。



2015年2月20日 佐久間庸和