小倉原爆取材

卯月晦日となる今日、サンレー本社で「毎日新聞」の取材を受けました。
テーマは「小倉原爆の真相」でした。ある講演会で、わたしは小倉に落ちるはずだった原爆について話しました。そして、その真相に関する推測を述べるとともに、最近わたしのHPに届いた1通のメールの内容を紹介しました。そのことを伝え聞いたという「毎日新聞」の記者の方々から取材の依頼があったのです。


小倉原爆の真相について取材を受けました



HPに届いたのは、女性読者の方からのメールでした。
おそらくは、ブログ『原爆投下は予告されていた』を読まれたのでしょう(このブログ記事にはこれまでも大きな反響があったのです)、「小倉への原爆投下が見送られたわけについて」という件名のメールには、その方のお父様が「小倉に原爆が落ちなかったのは、自分たちのおかげだ」とよく語っておられたと書かれていました。お父様は中学生の頃、八幡製鉄所を守るために煙幕隊として、コールタールを燃やす作業をされていたそうです。その結果、昭和20年8月9日(原爆が小倉に投下されず、長崎に投下された日)も空を真っ黒に覆っていたそうです。メールの最後には、「もう、父も、85歳。もしかしたら、大事な生き証人なのかもしれないと思い、メールしました」と書かれていました。


原爆投下は予告されていた 国民を見殺しにした帝国陸海軍の「犯罪」

原爆投下は予告されていた 国民を見殺しにした帝国陸海軍の「犯罪」


くだんのブログ記事は2011年8月10日にUPしたのですが、『原爆投下は予告されていた』古川愛哲著(講談社)という本を紹介した書評ブログでした。その本によれば、爆弾を落とさせないために、当時の小倉では2つの作戦が実行されたそうです。1つは、アメリカ人の捕虜を大量に集めるという古典的な作戦。もう1つは、人工の煙幕で空を覆うというハイテクを駆使した作戦。本当にこれらの作戦が実行されたとすれば、これはもう、危機を回避する最大のリスク・マネジメントであり、「史上最大の作戦」と呼べるかもしれません。



もちろん、「史上最大の作戦で小倉の人々の命が救われた」などとはしゃぐ気などまったくありません。わたしは、そんな破廉恥な人間ではありません。広島と長崎の原爆で亡くなられた犠牲者の方々に対して、そんな非礼はできません。しかし、この広島・長崎の犠牲者への配慮こそが、小倉への原爆投下回避という大作戦の存在がこれまで隠されてきた一番の原因だったかもしれませんね。いずれにせよ、小倉の人々はつねに広島と長崎の死者を忘れずに生きていかなければならないと思います。そして、米国民は人類で初めてアメリカが核兵器によるジェノサイドを実行したという事実を忘れてはなりません。


わたしが知っていることをお話しました



小倉原爆は、わたしにとって大問題です。なぜならば、わたしの「生き死に」に関わる重大事だからです。「小倉に落ちるはずの原爆〜死者を忘れて生者の幸福はない」などに書いたように、わたしにとって、8月9日は1年のうちでも最も重要な日です。 わたしは小倉に生まれ、今も小倉に住んでいます。
小倉とは何か。それは、世界史上最も強運な街です。
なぜなら、広島に続いて長崎に落とされた原爆は、本当は小倉に落とされるはずだったからです。



長崎型原爆・ファットマンは69年前の8月6日にテニアン島で組み立てられました。 8日には小倉を第1目標に、長崎を第2目標にして、9日に原爆を投下する指令がなされました。9日に不可侵条約を結んでいたソ連が一方的に破棄して日本に宣戦布告。 この日の小倉上空は視界不良だったため投下を断念。第2目標の長崎に、同日の午前11時2分、原爆が投下されました。 この原爆によって7万4000人もの生命が奪われ、7万5000人にも及ぶ人々が傷つき、現在でも多くの被爆者の方々が苦しんでおられます。



もし、この原爆が予定通りに小倉に投下されていたら、どうなっていたか。 広島の原爆では14万人の方々が亡くなられていますが、当時の小倉・八幡の北九州都市圏(人口約80万人)は広島・呉都市圏よりも人口が密集しており、おそらく想像を絶する数の人々が瞬時にして生命を落とす大虐殺が行われたであろうと言われています。 そして当時、わたしの母は小倉の中心部に住んでいました。よって原爆が投下された場合は確実に母の生命はなく、当然ながらわたしはこの世に生を受けていなかったのです。


2013年8月9日「毎日」「朝日」「読売」「西日本」新聞朝刊広告



小倉ほど強運な街は世界中どこをさがしても見当たりません。 その地に本社を構えるわが社のミッションとは「死者の存在を生者に決して忘れさせないこと」であると、わたしは確信しています。 小倉の人々は、原爆で亡くなられた長崎の方々を絶対に忘れてはなりません。 いつも長崎の犠牲者の「死者のまなざし」を感じて生きる義務があります。 なぜなら、長崎の方々は命の恩人だからです。 しかし、悲しいことにその事実を知らない小倉の人々も多く存在します。 そこで「長崎原爆の日」にあわせて、わが社では毎年、「昭和20年8月9日 小倉に落ちるはずだった原爆。」というキャッチコピーで、「毎日新聞」をはじめとした各紙に「鎮魂」の意見広告を掲載しています。


新聞記者の方から質問を受けました



なぜ、小倉に原爆が落ちなかったのか?
本当に、八幡製鉄は小倉の上空を煙幕で覆ったのか?
わたしは、これまで北九州の人々の八幡製鉄に対する想いの深さに接するたびに、「この人たちにとっては単なる大企業だけではないな」と感じていました。なんというか、八幡製鉄に対する信仰にも似た感情を察知していたのですが、もし自分たちの命を救ってもらっていたとしたら、それもよく納得できます。もっとも、広島と長崎の犠牲者たちに気遣って、「八幡製鉄のおかげで助かった」と口に出すことはなかったでしょうが・・・・・・。
もし、当時の八幡製鉄に「多くの人々の命を救うにはどうしたらいいか」と真剣に考え、果敢に実行に移したリーダーがいたとしたら、これはもう最高のリーダーです。責任感と行動力において、沈没した韓国旅客船セウォル号の逃亡船長とは正反対です。


資料を示しながら説明しました



先日、小倉で3人の方々と会食しました。メンバーは、「月の織姫」こと築城則子先生、「ダンディ・ミドル」ことゼンリンプリンテックスの大迫益男会長、それからもう1人、黒崎播磨の伊倉信彦社長です。伊倉社長は新日鉄のご出身で、新日鉄総務部長、新日鉄USA社長などを歴任されています。わたしは伊倉社長に、八幡製鉄の煙幕の件をお話し、「八幡製鉄の中で、そういった言い伝えはありましたか」と質問させていただきました。
しかし、伊倉社長の答えは「知りませんね。それは初めて聞きました」でした。同席した築城先生や大迫会長も「そんな話は初耳だ!」とたいそう驚かれていました。わたしは数日後、アマゾンで購入した『原爆投下は予告されていた』をみなさんにお送りしました。



じつは、わたしはこの小倉原爆の真相をNHKさんに取材していただきたいと思って、NHK北九州放送局の村益健太局長に相談し、その後、情報交換させていただいています。
日本国内はおろか海外にもおよぶNHKの取材力で真相解明ができれば、終戦70年記念の「NHKスペシャル」にふさわしい良質のドキュメンタリー番組ができるように思います。そんなこんなで各方面でこの話をしていたら、「毎日新聞」の方々が興味を抱かれ、今日、取材に来ていただいた次第です。くだんのメールの送り主の連絡先もわかっていますので、これから本格的な取材がスタートすると思います。


なんとか終戦70周年までには・・・・・・



先の戦争に関しては、まだまだ真相がわからないことが多々あります。ノモンハン事件の勝敗も、南京事件従軍慰安婦の問題も、ゼロ戦での特攻作戦の成果も、これまでわたしたちが学校で習ったり、新聞で読んだりしていた内容とはどうも真相は違うような気がします。しかし、それらの問題も気にはなりますが、わが最大の関心事は、「小倉に原爆が落ちなかった」真相です。なぜなら、原爆が小倉に落ちていたら、わたしはこの世にいなかったからです。“他人事”ではない、これ以上ないほど切実な“自分事”だからです。
これから毎日新聞社さんやNHKさんとも情報交換させていただきながら(とはいえ、わたしのような一個人では何の力もありませんが)、なんとか終戦70周年までには真相を究明したいと考えています。このブログを読まれているみなさんも、何か情報があれば、お知らせ下さい!



*よろしければ、「一条真也の新ハートフル・ブログ」もどうぞ。



2014年4月30日 佐久間庸和