今日は「母の日」

5月12日は「母の日」です。
今日は、妻と一緒に実家を訪れました。
妻が自分で花を買ってきて作ったバラのフラワー・アレンジを持って行きました。


妻が作った「母の日」のフラワー・アレンジメント


5月は、わたしにとって特別な月です。
5日の「子どもの日」、10日の自分の「誕生日」、そして「母の日」があるからです。
「母の日」は5月の第2日曜日なので、今年は12日というわけです。
幼いときから、いつもこの3つの「日」は3点セットでした。
最近は、この3つは実は同じことなんだと気づきました。
それは、自分を産んでくれた母親に感謝する日だということです。



ヒトの赤ちゃんというのは自然界で最も弱い存在です。
すべてを母親がケアしてあげなければ死んでしまう。
2年間もの世話を必要とするほどの生命力の弱い生き物は他に見当たりません。
わたしは、ずっと不思議に思っていました。
「なぜ、こんな弱い生命種が滅亡せずに、残ってきたのだろうか?」と。



あるとき、その謎が解けました。
それは、ヒトの母親が子どもを死なせないように必死になって育ててきたからです。
出産のとき、ほとんどの母親は「自分の命と引きかえにしてでも、この子を無事に産んでやりたい」と思うもの。実際、母親の命と引きかえに多くの新しい命が生まれました。
また、産後の肥立ちが悪くて命を落とした母親も数えきれません。
まさに、母親とは命がけで自分を産み、無条件の愛で育ててくれた人なのです。


「母の日」に母と



実家に行くと、母は嬉しそうに迎えてくれました。
「母の日」の花を手渡すと、とても嬉しそうでした。今日は父も在宅で、みんなで一緒にお菓子を食べ、コーヒーを飲んでから、母と一緒に写真を撮りました。
最後に、母に「いつまでも元気で」と言って、実家を後にしました。


おかあさんのばか―細江英公人間写真集

おかあさんのばか―細江英公人間写真集


帰宅してから、ブログ『おかあさんのばか』で紹介した本を読みました。わたしは、母親の有難さが心に沁みるこの本を「母の日」のたびに読み返すのですが、もうすぐ上梓する『死をみつめる本』(現代書林)にも取り上げる予定です。さらに、安達充のハートフル・ソング「僕が生まれた時のこと−It was when I was born−」を聴いて、しんみりしました。
東京の長女からは、妻宛てにハンドソープやタオルセットが送られてきました。
親元を離れてみて、あらためて母親への感謝の念が強くなっているようです。
この世のすべてのお母さんに幸あれ!



*よろしければ、「一条真也の新ハートフル・ブログ」もどうぞ。



2013年5月12日 佐久間庸和

ナイチンゲール(1)


明確な行動が伴っていなければ、
 思いを十分に伝えることは難しい




言葉は、人の人生をも変えうる力を持っています。
今回の名言は、「看護の母」と呼ばれたナイチンゲールの言葉です。
5月12日は彼女の誕生日であり、「国際看護の日」でもあることをご存知ですか。
ナイチンゲールは「看護とは、ひとつの芸術である」と言いました。
そして、「明確な行動が伴っていなければ、思いを十分に伝えることは難しい」という言葉を残しています。彼女の人生は、まさにその言葉の通りでした。


ナイチンゲール 心に効く言葉

ナイチンゲール 心に効く言葉


19世紀のイギリス人女性であるフローレンス・ナイチンゲールは、上流階級の出身でありながら、自ら志願して女性看護師となりました。彼女は、17歳のときに「わたしに仕えよ」という神の声を聞き、神のみ心にかなう仕事を真剣に求めていたのです。当時のイギリスには恵まれた家庭の主婦が貧しい病人の世話をする奉仕活動があり、幼いころからフローレンスは母親について病人の家を訪問していました。彼女は、そのときがいちばん生き生きとすることに気づき、いつしか、病人の看護をすることが自分の使命であると信じるようになりました。



しかし、当時のヨーロッパにおいて、看護師という職業は、まともな女性の仕事ではないと考えられていました。そのころの病院も、病気になった貧しい人々を収容する救貧院のような施設で、無秩序で不衛生きわまりない場所でした。貧しい女性たちが雇われて病人の面倒を見ましたが、その行動は無責任そのもので、何の手も施さず、多くの病人たちは次々に死んでいったといいます。そんな社会的地位のきわめて低い仕事に良家の令嬢であったフローレンスはみずから志願したわけです。



家族の猛反対も、2人の男性からの求婚も断り、フローレンスは女性看護師への道を選びました。そして、1854年10月9日、フローレンスは手にした新聞に、クリミア半島の戦地で2000人ものイギリス軍兵士が負傷や病気で苦しんでいることを知りました。しかも、彼らは手当も受けられずにいるというのです。  ロンドンの病院で女性看護師の監督を務めていたフローレンスは、戦地に赴くことを即座に決意。同月21日の朝には、もう選び抜いた18人の女性看護士たちとともに出発しました。



戦地の病院で彼女たちが目にしたのは、冷たい床の上に転がされるばかりで、何の手当も受けられずに死を待つおびただしい数の兵士たちの姿でした。フローレンスは、まずシーツを調達しました。そして、下着や枕や包帯をつくりました。さらにはみずから床をみがいて、衛生的な環境をととのえました。その仕事ぶりを見た軍医たちは、フローレンス率いる看護師団を信頼し、治療の指示を与えるようになります。



フローレンスは重症の患者に気を配り、大手術には必ず付き添いました。
息を引き取る兵士がいれば、必ずそばに寄り添いました。そして、夜毎、病院中をまわりました。大きな病院は6キロにわたってベッドがつづいていましたが、彼女はランプをかざして1人ひとりの様子を確認します。
そんな彼女を兵士たちは感謝と尊敬の意を込めて、「ランプの貴婦人」と呼び、その影に接吻して敬意を表したといいます。



人類史上、フローレンス・ナイチンゲールをもって専門看護が始まったとされています。
彼女は社交パーティーを繰り返すような恵まれた家庭に生れ育ちながらも、生涯にわたって弱者の痛みや苦しみから目をそらしませんでした。彼女は、わたしたちに語りかけます。苦しんでいる人、困っている人がいたら、ためらうことなく手をさしのべ、助けてあげなければならない、と。そして、そんな生き方のできる人こそが「わたしは生きている」という実感に満たされる人であり、真に幸福な人なのだ、と。



彼女が生まれた8年後の1828年には、スイスのジュネーヴの裕福な家にアンリ・デュナンが生まれました。彼は、敵味方の区別なく、戦争で傷ついた人々を救う国際赤十字をつくった人です。1901年の第1回ノーベル平和賞を受賞したアンリは、「赤十字の精神は、フローレンス・ナイチンゲールがお手本である」と明言しています。
いま、アンリの誕生日である5月8日は「国際赤十字の日」、フローレンスの誕生日である5月12日は「国際看護の日」になっています。余談ですが、わたしの誕生日は2人のちょうど間の5月10日です。そのことを子どものときに知ったわたしは、2人を心から尊敬するとともに、2人のように苦しむ人、困った人を救う人間になりたいと強く思った記憶があります。今も、そのときの想いを忘れてはいません。なお、今回のナイチンゲールのエピソードは『涙は世界で一番小さな海』(三五館)にも登場します。


涙は世界で一番小さな海―「幸福」と「死」を考える、大人の童話の読み方

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2013年5月12日 佐久間庸和