「てんびんの詩」

20日の午後、東京からスターフライヤーに乗って北九州に戻りました。
雪雲の中を通過するフライトでけっこう揺れましたが、無事に到着して良かったです。
なにしろ悪天候のために北九州空港に到着できない場合は福岡空港へ向かうか、最悪の場合は羽田空港に引き返すという条件付き飛行だったのです。ハラハラドキドキしました。


クラブ・フォーラムの会場にて



北九州空港に着いたわたしは、迎えの車に乗って、サンレー本社へ・・・。
27日の北九州賀詞交歓会、28日の「古事記」北九州公演、および「古事記トークショーの打ち合わせなどをしました。それから18時過ぎにリーガロイヤルホテル小倉に向かいました。18時30分から開かれる小倉ロータリークラブのクラブ・フォーラムに参加するためです。
司会は合馬会員で、ソングリーダーは二村会員でした。
わたしは、このお二人の顔を見ると、いつも癒されます。
この日も、ハードな出張ラッシュの疲れが吹っ飛ぶようでした。


てんびんの詩 第一部(原点編)」を上映しました



この日のクラブ・フォーラムでは「てんびんの詩 第一部(原点編)」という90分のDVDを上映して、鑑賞後に各テーブルで意見を述べ合い、発表するというものでした。
わたしは、ロータリークラブに入会して初めて映画らしきものを鑑賞しました。


てんびんの詩 第一部(原点編)」は、近江商人の子育てを描いており、1984年に製作されました。滋賀県ブルーレイク賞および京都新聞文化賞を受賞しています。
小学校の卒業祝いに少年が父から贈られたのは鍋蓋でした。父は「売ってこい。それができなければ、店を継がせることはできない」と息子に言い放つのでした。
タイトルにある「てんびん」とは、売り手の心と買い手の心のバランスを意味します。


DVD上映のようす



公式HPによれば、「てんびんの詩 第一部(原点編)」の「ストーリー」は以下の通りです。
「その日、主人公・近藤大作は小学校を卒業した。近江の大きな商家に生まれた彼は、何不自由なく育ち、今日の日を迎えていた。そんな彼に、父は祝いの言葉と共に一つの小さな包みを手渡す。中には鍋の蓋が入っていた。彼には意味がわからない。だが、その何の変哲もない鍋蓋が大作の将来を決めることになる。父はそれを売ってこいというのだ。売ってこなければ、跡継ぎにはできないという。しかたなく、大作は鍋蓋を売りに歩く。まず店に出入りする人々に押し売りのようにしてすすめる。だが、そんな商いがうまくいくはずもない。道ゆく人に突然声をかけても、まったく見向きもされない。親を恨み、買わない人々を憎む大作。父が茶断ちをし、母が心で泣き、見守る人々が彼よりもつらい思いをしていることを彼は知らない。その旅は、近江商人の商いの魂を模索する旅だったのだ。
行商人のようにもみ手をし卑屈な商いをしても、乞食をまねて泣き落としをしても、誰も彼の鍋蓋を買うものはいない。いつしか大作の目には涙があふれていた。そんなある日、農家の井戸の洗い場に浮かんでいる鍋をぼんやりと見つめながら、疲れ切った頭で彼は考える。〈鍋蓋がなくなったら困るやろな。困ったら買うてくれるかもしれん〉。しかし、次の瞬間には〈この鍋蓋も誰かが難儀して売ったものかもしれん〉。無意識のうちに彼は鍋蓋を手に取り洗いはじめていた。不審に思った女は尋ねる、なぜ、そんなことをしているのかと。
大作は、その場に手をついて謝る。『堪忍して下さい。わし悪いやつです。売れんかったんやないんです。物を売る気持ちもできてなかったんです』女は彼の涙をぬぐいながら、その鍋蓋を売ってくれというのだった」



この映画、掃除で有名な鍵山秀三郎氏が製作プロデュースをしています。
いわゆる近江商人の「三方よし」を教育する営業マンの研修教材という感じで、すでにそれぞれの職業を通じて社会奉仕をされているロータリアンのみなさんが観るには幼稚な印象がありました。時代的制約もあるのでしょうが、結果として内容が根性論になっており、現在では「ブラック企業」の理論武装に使われかねないという感じがしました。
上映中、神社の神主さんとお寺の僧侶が何度も中座していましたが、ビジネスマン以外のメンバーには違和感があったように思います。



*よろしければ、「一条真也の新ハートフル・ブログ」もどうぞ。



2017年1月21日 佐久間庸和