伊達政宗像


各地には多くの銅像が建立されており、先人の志を感じることができます。
独眼竜の異名を持つ伊達政宗は、「遅れてきた戦国武将」とも形容されます。
政宗が生まれた永禄10年(1567)の時点で武田信玄47歳、上杉謙信38歳、織田信長34歳です。また、政宗が70歳にして世を去った寛永13年(1636)は三代将軍家光の治世であり、家光は33歳の時です。翌年には有名な島原の乱が起こっています。


伊達政宗公の像の下で



政宗の幼名は梵天丸、11歳で元服し「政宗」と名乗り、天正12年(1584)18歳で家督相続しますが、同17年には宿敵であった蘆名義広を「摺上原の戦い」で破って南奥州での覇権を極めます。しかし、戦乱の世は織田信長の後継者である豊臣秀吉によって終止符が打たれようとしていました。天下統一の総仕上げともいえる「小田原征伐」が始まると、さすがに天下の形勢を悟った政宗は秀吉に恭順することになります。



小田原に遅参した政宗の出で立ちは白装束。つまり「首をはねられても仕方ありません」という演出ですが、秀吉は「あと少し遅ければこの首はなかったぞ」と叱責したものの、本領はおおむね安堵されました。秀吉の性格を見抜いた上であえて、乾坤一擲、派手なパフォーマンスをやってのける肝のすわった人物です。時に政宗24歳ですが、いみじくも秀吉が信長の下で桶狭間合戦に参戦した時の年齢です。



慶長5年(1600)に起きた関が原の戦いでは徳川家康に組みし、奥州の脅威となっていた上杉景勝の牽制に尽力します。関が原合戦の直前に家康より「百万石のお墨付き状」を送られていましたが、関ヶ原合戦後の加増は2万石のみでした。
お墨付きは反故になっています。ちなみに一緒に上杉軍の牽制をしていた最上義光は33万石も加増されています。



なぜかといえば、政宗は「天下分け目」の合戦が長引くと判断し、旧領の奪取を画策して水面下で工作していたことが露見したことが理由のようです。家康も「油断ならぬ梟雄」とみていたのではないでしょうか。時局を悟った政宗は、その後は徳川家に恭順した人生を送り、仙台藩62万石の藩祖となり、伊達家は減封、移封されることなく明治維新を迎えています。



徳川家光から「伊達の親父殿」と慕われ、その処遇は破格のものであったようです。なんと政宗は家光の前での脇差帯刀を許されています。しかし家光の側近が酔って居眠りする政宗の刀を調べると中身は木刀であったという逸話がありますが、これも政宗らしい演出でしょうか。


政宗危篤の報に接した家光は自らの御典医政宗のもとに遣わし、江戸中の寺社に快癒の祈祷を行わせています。そして政宗が亡くなると、父である秀忠を亡くしたとき以上に嘆き悲しみ、江戸で7日間、京都で3日間にわたり殺生や遊興を禁止したそうです。
泰平の世に生まれながらに将軍であった家光は、「戦国乱世」を雄々しく生き抜いた政宗の武将としての矜持に心酔していたのでしょう。



政宗の言葉かどうか確証はないものの、次の訓話が伝わっています。

仁に過ぎれば弱くなる。
義に過ぎれば固くなる。
礼に過ぎれば諂いとなる。
智に過ぎれば嘘をつく。
信に過ぎれば損をする。

仁・義・礼・智・信は儒教五常と言われる徳目ですが、政宗は「五常は大事だが無条件に受け入れて守るべきものではなく、己の立場や状況に応じた対処が道を誤らない上で大事であることを諭したといわれます。



「あるべき姿」のみ追求する原理主義だけでは現実と乖離してしまい、「人の情」を汲めなくなり、引いては家臣や領民から支持されず国が治まらなくなることを戒めたのでしょう。
本末転倒に留意せよということでしょう。
その政宗の辞世は次のとおりです。
「曇りなき心の月を先だてて 浮世の闇を照らしてぞ行く」



ブッダの教えに「自灯明・法灯明」があります。ブッダが入滅に際し、弟子たちに示された最後の教えだといわれています。政宗の辞世には「他者に頼らず、自己を拠りどころとし、法を拠りどころとして生きよ」というブッダの教えを彷彿とさせます。



月といえば、金色の三日月形の前立をもつ兜は伊達政宗のトレードマークです。
ちなみに映画「スターウォーズ」のダースベイダーのヘルメットは、仙台市博物館所蔵の「黒漆五枚胴具足 伊達政宗所用」の兜を参考にしたといわれています。



しかし、政宗の辞世にある月は「曇りなき心」という表現からもわかるとおり、三日月ではなくフルムーン、すなわち満月でしょう。一度ならず天下を夢見た政宗ですが、天下人である家光を心服させることで「こころ」で天下をとったぞという覇気が漲る辞世ではないでしょうか。



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2015年12月17日 佐久間庸和