小倉に小笠原流あり!

今日の「毎日新聞」朝刊に第40回目の「北九州発 ハートフル通信」が掲載されました。
早いもので、このコラムももう40回目になるのですね。
今回のタイトルは、「小倉に小笠原流あり!」です。



毎日新聞」11月20日朝刊



今月、小倉の松柏園ホテル小笠原家茶道古流の「立居振舞い・茶道教室」が始まりました。古流とは豊前小倉藩に伝わる茶道の流派です。後に侘び茶を完成させた千利休よりも古い起源という意味で、後世になって「古流」と名付けられたと考えられています。



流祖の古市胤栄と古市澄胤の兄弟は大和国の人で、村田珠光の高弟です。珠光といえば、千利休の師と言われる武野紹鴎より古い室町時代中期の茶人で「侘び茶」の創始者と目されている人物です。利休は「術は紹鴎、道は珠光より」とも説いており、侘び茶を完成させた利休にとっても珠光は心の師でした。



江戸時代初期、豊前小倉藩初代藩主である小笠原忠真古市澄胤の後裔である古市了和を茶堂として召し抱え、小笠原家古流と称するようになりました。
小笠原家といえば、礼法の家元として有名です。父が礼法の師範であったこともあり、小倉生まれのわたしは幼少期より小笠原流礼法第32代宗家の小笠原忠統先生に師事し、後に免許皆伝を許されました。



小笠原流礼法の歴史は鎌倉時代にまでさかのぼり、武家作法として始まり、発展していきました。小笠原家では、弓馬の法を代々嫡子に伝えましたが、室町時代の7代目貞宗のときになって、礼法が加えられ、弓・馬・礼の三法をもって小笠原の現代へとつながる伝統の基盤ができあがったのです。貞宗南北朝時代後醍醐天皇に仕え、「小笠原は日本武士の定式たるべし」という御手判を賜り、合わせて家紋として「王」の字の紋を賜りましたが、これが小笠原家の三階菱です。



また、18代の貞慶は、「三議一統」後に加えられた記述をし、武家礼法を「小笠原礼書七冊」としてまとめました。貞慶の子である秀政は、大阪夏の陣にて長男と共に戦死しますが、次男の忠真がその功により、松本から播州明石11万石を経て、豊前小倉15万石の領主となりました。ここから、小倉の地と小笠原家との深い縁が始まります。
小笠原流礼法は一日にして成ったものではありません。
連綿とした歴史の流れの中で形づくられて、今日まで伝えられてきたものです。
それは、多くの人々がその合理性を認めていたからでしょう。



現代社会においても、人と人とのコミュニケーションを円滑に進めるためには「礼儀作法・マナー」は大切なツールになります。人々のココロをカタチに表した礼儀作法は、わたしたち日本人の大切な文化のひとつです。この素晴らしい文化を絶やすことなく後世に伝えていくため、わたしは今後も小倉の地で小笠原流を広めていきたいと思います。


小笠原流の茶室(松柏園ホテル内)にて



*よろしければ、「一条真也の新ハートフル・ブログ」もどうぞ。



2015年11月20日 佐久間庸和