和来

わたしは、これまで多くの言葉を世に送り出してきました。
この際もう一度おさらいして、その意味を定義したいと思います。
今回は、「和来(わらい)」という言葉を取り上げることにします。



2014年3月9日、日本人宇宙飛行士の若田光一氏が、国際宇宙ステーション(ISS)の新船長に就任しました。若田氏は前任のオレッグ・コトフ宇宙飛行士(ロシア)から引き継ぎを受け、第39代目のISS船長に就任。日本人としては初の快挙です。
記者会見の場で、若田氏は「和の心を持って舵取りをしたい。チーム全員でいい仕事をできるように頑張っていきたい」と意気込みを述べました。就任後に3人が帰還し、現在滞在している飛行士は3人。広い船内でばらばらに作業することもあるため「夕食は3人で一緒にとるようにしている』と、チームの和を重視する若田流の運営を明かしました。



第39次長期滞在クルーのコマンダーに就任した若田氏は、次の第40次クルーも含めた6人のチームの指揮をとることになります。異なる国籍の人々が宇宙空間でチームを結成するわけです。日本人である若田氏は、司令塔として5名の宇宙飛行士メンバーの体調や仕事の負荷を見ながら、「和の心」でスケジュール調整をしていきます。本当に素晴らしいことです。宇宙飛行士としての若田氏の能力や人間性が高く評価されたのは当然ですが、これは日本人が国際的に信用される民族として認められたことにもなります。そして、日本人の根本精神こそは「和」の心です。


「和」は、日本文化を理解する上でのキーワードです。陽明学者の安岡正篤によれば、日本の歴史を見ると、日本には断層がないことがわかるといいます。文化的にも非常に渾然として融和しているのです。征服・被征服の関係においてもそう。諸外国の歴史を見ると、征服者と被征服者との間には越えることのできない壁、断層がいまだにあります。しかし日本には、文化と文化の断層というものがありません。早い話が、天孫民族と出雲民族とを見てみると、もう非常に早くから融和してしまっています。



三輪の大神神社大国主命、それから少彦名神を祀っていますが、少彦名神出雲族参謀総長ですから、本当なら惨殺されているはずです。それが完全に調和して、日本民族の酒の神様、救いの神様になっています。その他にも『古事記』や『日本書紀』を読むと、日本の古代史というのは和の歴史そのものであり、日本は大和の国であることがよくわかります。


「和」を一躍有名にしたのが、かの聖徳太子です。太子の十七条憲法の冒頭には「和を以って貴しと為す」と書かれています。十七条憲法の根幹は和というコンセプトに尽きます。しかもその和は、横の和だけではなく、縦の和をも含んでいるところにすごさがあります。上下左右全部の和というコンセプトは、すこぶる日本的な考えです。それゆえに日本では、多数少数に割り切って線引きする多数決主義、いわゆる西欧的民主主義流は根付きませんでした。日本とは、何事も辛抱強く根回しして調整する全員一致主義の国なのです。


記者会見では、若い日本人記者から「船長の特権で何かしたいことはありますか? 例えば、食事のメニューを決定するとか、ベッドを大きくするとか?」といった能天気な質問が飛び出しました。それを聞いて一瞬きょとんとした表情をした若田氏は、次の瞬間、大笑いしました。まさに破顔一笑という感じでしたが、それから「食事のメニューを決められたらいいですけど、残念ながら、そんな権限が船長にはないんですよ」とニコニコしながら答えました。



その笑い方の豪快なこと! また、その笑顔の魅力的なこと!
わたしは一発で、若田氏の大ファンになりました。そして、その「笑い」と「笑顔」こそが彼の言う「和」の心に通じているのだと気づきました。
「笑い角には福来る」という言葉がありますが、「笑う角には和が来る」でもあるのです。そう、「笑い」とは「和来(わらい)」ではないでしょうか。


ユーモアの必要性を説いた『孔子とドラッカー新装版



「和」は「わ」とも読みますが、「なごみ」とも読みます。
孔子とドラッカー新装版』(三五館)にも書きましたが、人の上に立つ者にはユーモアが必要です。なぜなら、ユーモアは組織の雰囲気を和ませるからです。「ユーモア」の語源であるラテン語の「フモール」という言葉は、元来、液体とか液汁、流動体を意味するものであり、みずみずしさ、快活さ、精神的喜びなどを連想させます。



まことに意外ですが、「謹厳実直」のイメージそのものである吉田松陰はよくギャグを言ったそうです。野山獄に投じられた松陰に、兄から熊の敷皮が差し入れられたことがあります。それに対し松陰は礼状で、「熊が寅のものになった」と述べています。松陰の通称は「寅次郎」だったからです。いわゆるダジャレですね。



あるいは同じく兄が、書籍と一緒に果物を差し入れてくれたことがありました。兄の添え状には、数は九つとなっていましたが、実際は十ありました。そこで松陰は返事に「その実十あり、道にて子を生みにしか」と記しました。途中で果物が子どもを生んだらしいというのです。



またあるいは、松下村塾の増築工事が行われた時のこと。梯子に上り、壁土を塗っていた品川弥二郎が、あやまって土を落とし、それが松陰の顔面を直撃しました。ひたすら恐縮する弥二郎に対し松陰は、「弥二よ、師の顔にあまり泥を塗るものでない」と言って、周囲のみんなを笑わせたといいます。



萩博物館高杉晋作資料室室長の一坂太郎氏は、「ときには議論が白熱する松下村塾にあって、ギャグは欠かせなかったのだろう」と推測しています。議論を戦わせ対立すると、どうしても険悪な雰囲気が生まれることだってあります。そんなとき、さりげなく、邪魔にならない程度のギャグが出ると、雰囲気は和むもの。松陰にとってギャグとは、そんなガス抜きの意味があったに違いありません。しかしながら一坂氏によれば、明治以降に松陰が神格化される中で、ギャグを言う松陰はいつしか忘れ去られていったそうです。



*よろしければ、「一条真也の新ハートフル・ブログ」もどうぞ。



2014年6月21日 佐久間庸和