たった一字に深い意味を秘めている文字は、世界でも漢字だけです。
そこには、人のこころを豊かにする言霊が宿っています。
その意味を知れば、さらに、こころは豊かになるでしょう。
今回ご紹介するハートフル・キーワードは、「笑」です。



笑顔は世界共通のコミュニケーションの「かたち」です。
わが社には経営理念の1つとして、「スマイル・トゥー・マンカインド〜すべての人に笑顔を」というものがあります。わが社のような「ホスピタリティ」すなわち「親切な思いやり」というものを提供する接客サービス業においては、笑顔・挨拶・お辞儀といったスキルが非常に大切となります。中でも特に笑顔が必要であるといえるでしょう。



サービスの現場だけではありません。営業においても、明るい笑顔でお客様に接するのと暗い無表情で接するのとでは雲泥の差があり、それは確実に成果の差となって出てきます。
マンカインドとは、すなわち人類であり、すべての人という意味です。すべての人は、わたしたちのお客様になりえます。ぜひ、お客様のみならず、取引業者の方や社内の人たち、部下や後輩にも笑顔で接していただきたいと社員の皆さんにお願いしています。



かつて、クレイジーキャッツの「日本全国ゴマスリ行進曲」という歌で、ゴマスリは手間もかからないし元手もいらないので、「大いにゴマをすろう!」というような内容で、亡くなった植木等さんが歌っていました。笑顔もまた、手間もかからず、元手もいりません。ゴマスリなどする必要はありませんが、そのかわりに笑顔を心がけたいものです。これほど安上がりで効果が高いサービス業のスキルは他に存在せず、まさに最高のコスト・パフォーマンスと言えるでしょう。



笑顔は、サービス業においてだけでなく、ありとあらゆるすべての人間関係に大きな好影響を与えます。国籍も民族も超えた、まさに世界共通語、それが笑顔なのです。また、性別や年齢や職業など、人間を区別するすべてのものを超越してしまいます。「すべての人に笑顔を」は、「人間尊重」そのものなのです。笑顔のない組織に潤いはなく、殺伐とした非人間的な集団にすぎません。そんな会社は、ハートレス・カンパニーであり、ハートフル・カンパニーには笑顔が溢れているのです。笑顔のもとに人は集まることは不変の真理です。



笑顔など見せる気にならないときは、無理にでも笑ってみせることです。アメリカの心理学者ウイリアム・ジェイムズによれば、動作は感情に従って起こるように見えるが、実際は、動作と感情は並行するものであるといいます。ですから、快活さを失った場合には、いかにも快活そうにふるまうことが、それを取り戻す最高の方法なのです。不愉快なときにこそ、愉快そうに笑ってみることが大切です。



「笑う門には福来たる」という言葉があるように、「笑い」は「幸福」に通じます。笑いとは一種の気の転換技術であり、笑うことによって陰気を陽気に、弱気を強気に、そして絶望を希望に変えるのです。さらに、地上を喜びの笑いに満たすことが政治や経済や宗教の究極の理想ではないでしょうか。「笑い」のない宗教も哲学もどこかいびつで、かたよっているように思います。



実際、ソクラテスはよく笑ったし、老子もよく笑ったそうです。如来もそうですし、ブッダもしかりです。さらには、孔子もよく笑っていたと想像されます。『論語』の中には、孔子が弟子をからかってみたり、冗談を言ってみたり、非常に和やかなムードが満ちています。おそらく孔子教団には笑いが絶えなかったのではないでしょうか。ちなみに、ドラッカーもユーモアにあふれた人で、よく笑ったそうです。



わが社の経営理念の1つに「スマイル・トゥー・マンカインド」を入れたとき、「営業や冠婚部門に笑顔が必要なのは当然だが、葬祭部門には関係ないのでは」と思った人がいたようです。しかし、それは誤った認識です。仏像は、みな穏やかに微笑んでいます。これは優しい穏やかな微笑みが、人間の苦悩や悲しみを癒す力を持っていることを表しています。葬儀だからといって、暗いしかめ面をする必要などまったくないのです。わが会社のセレモニーホールの「お客様アンケート」を読むと、「担当の方の笑顔に癒されました」とか、「担当者のスマイルに救われた」などの感想が非常に多いです。


これは大変嬉しいことであります。もちろん、葬儀の場で大声で笑ったり、ニタニタすることは非常識ですが、おだやかな微笑は必要ではないかと思います。会社内においても、笑いは必要です。特に、ユーモアは組織の雰囲気を和ませます。「ユーモア」の語源であるラテン語の「フモール」という言葉は、元来、液体とか液汁、流動体を意味するものであり、みずみずしさ、快活さ、精神的喜びなどを連想させます。



ちょっと意外ですが、「謹厳実直」のイメージそのものである吉田松陰という人はユーモアのセンスにあふれていたといいます。たとえば、野山獄に投じられた松陰に、兄が果物を差し入れてくれたことがありました。兄の添え状には、その数が9個と書かれていましたが、実際に数えてみたら10個ありました。そこで松陰は「その実十あり、道にて子を生みにしか」と返事に記したといいます。途中で果物が子どもを生んだのではないかというユーモアですね。



また、松下村塾の増築工事が行なわれた時のこと。弟子の品川弥二郎が梯子に上り、壁土を塗っていましたが、あやまって土を落とし、それが松陰の顔面を直撃するというアクシデントがありました。当然ながら、弥二郎は恐縮して謝りました。そのとき松陰は、「弥二よ、師の顔にあまり泥を塗るものでない」と呼びかけて、周囲のみんなを笑わせたそうです。萩博物館高杉晋作資料室室長の一坂太郎氏はは、「ときには議論が白熱する松下村塾にあって、ギャグは欠かせなかったのだろう」と推測しています。



議論を戦わせ対立すると、どうしても険悪な雰囲気が生まれることだってあります。そんなとき、さりげなく、邪魔にならない程度のギャグが出ると、雰囲気は和みます。松陰にとってギャグとは、そんなガス抜きの意味があったのです。
なお、「笑」については、『孔子とドラッカー 新装版』(三五館)に詳しく書きました。


孔子とドラッカー 新装版―ハートフル・マネジメント

孔子とドラッカー 新装版―ハートフル・マネジメント



*よろしければ、「一条真也の新ハートフル・ブログ」もどうぞ。



2016年7月30日 佐久間庸和