たった一字に深い意味を秘めている文字は、世界でも漢字だけです。
そこには、人のこころを豊かにする言霊が宿っています。
その意味を知れば、さらに、こころは豊かになるでしょう。
今回ご紹介するハートフル・キーワードは、「過」です。



誰でも過失を犯します。失敗しない人間などいません。孔子ドラッカーもその点はよくわかっていて、「過ちを犯すな」とは決して言っていません。むしろ、人間が過ちを犯すことはやむを得ないことであり、むしろ犯した後の行動が大切であるとしています。
絶対に犯してならない過ちもある。それはプロが知っていて害をなすことです。これはプロにとって最大の責任であり、古代ギリシャの名医ヒポクラテスの誓いの中にも「知りながら害をなすな」という言葉で明示されています。ドラッカーは、この言葉こそプロとしての倫理の基本であり、社会的責任の基本であるとしました。



孔子は、本当の過ちについて述べています。『論語』の「衛霊公」篇には、「過ちて改めざる。是れを過ちと謂う」という言葉が出てきます。「過ちをしても改めない。これを本当の過ちというのだ」の意味であります。また「学而」篇には、「過てば則ち改むるに憚ること忽なかれ」という言葉もあります。「過ちがあれば、ぐずぐずせずに改めよ」というのです。



論語』には「過」という言葉がたくさん登場しますが、過ちを犯した後の態度は小人と君子では違うといいます。「子張」篇に「小人の過つや、必ず文(かざ)る」とあります。「小人が過ちをすると、必ず飾ってごまかそうとする」というのです。
一方で同じ「子張」篇に、「君子の過ちや、日月の蝕するが如し。過つや人皆なこれを見る、更むるや人皆なこれを仰ぐ」という言葉もあります。「君子の過ちというものは日食や月食のようなもの。過ちを犯すと一目瞭然なので、誰もがそれを見るし、改めると誰もがみなそれを仰ぐ」というわけです。このように過失を犯してしまったら、決してごまかしてはなりません。そして、反省した上で二度と同じ失敗を繰り返さないことが重要です。



ただ、失敗には「成功のもと」とか「成功の母」という一面があることも事実です。
「失敗学」というものを提唱している工学者の畑村洋太郎氏は、著書『失敗学の進め』(講談社)で次のように述べています。
「失敗はたしかにマイナスの結果をもたらすものですが、その反面、失敗をうまく生かせば、将来への大きなプラスへ転じさせる可能性を秘めています。事実、人類には、失敗から新技術や新たなアイデアを生み出し、社会を大きく発展させてきた歴史があります」



人は行動しなければ何も起こりません。世の中には失敗を怖れるあまり、何も新しい行動を起こさない人が多いですね。確かに、それで失敗を避けることはできるでしょう。しかし、アクションを起こさない者は何もできないし、何も得ることができないのです。
ドラッカーも、失敗が機会の存在を教えてくれるという考え方の持ち主で、『イノベーション起業家精神』(ダイヤモンド社)で次のように述べています。
「予期せぬ失敗の多くは、計画や実施の段階における過失、貪欲、愚鈍、雷同、無能の結果である。だが慎重に計画し、設計し、実施したものが失敗したときには、失敗そのものが、変化とともに機会の存在を教える」(上田淳生訳)



さて、失敗しても次なる成功への学びにしてしまえばいいのですが、その失敗や過失によって迷惑をかけてしまった相手にはお詫びをしなければなりません。つまり、「謝罪」が必要になります。信じられないような大企業の不祥事が相次ぎ、企業トップが謝罪する光景をテレビでよく見かけます。しかし、はっきり言って、みな謝り方のなんと下手なことでしょうか。まったく「申し訳ない」という意識が伝わってこないものばかりです。



ビジネスコンサルタントの山崎武也氏によると、以前、ある会社の管理下にある建物のなかで、設備の1つがうまく作動しなかったために事故が起こったといいます。そのため客の1人の命が奪われたのですが、そのときの記者会見で担当役員が言った言葉は信じられないものでした。「このようなことになって、ショックを受けています」と言ったのです。
そのような事態になることは予測しておらず、ショッキングであったことは当然です。しかし、そこには設備は自社のものであっても、それを製造したメーカーに事故の責任があると考え、責任を転嫁しようとする心理が見て取れます。



そのメーカーを被害者に見立てて、自分たちも被害者側に立とうとしたのでしょうが、結局は亡くなった人の遺族の怒りを買い、マスコミにも厳しく批判されました。山崎氏によれば、自分の所有ないし利用しているものの機能不全のために人に害を与えたときは、自分は加害者であるという明確な意識の下に、徹底的に責任を取る姿勢を示す必要があるといいます。それに、死亡事故が起こったにもかかわらず、担当役員が記者会見するという逃げ腰も情けないですね。当然ながら、最高責任者の社長が出てこなくてはなりません。



社長が即座に出てくれば、全社一丸となって謝罪し、今後の対策を図ろうとするメッセージが伝わりますが、社長以外の者ではかえって不信感を与えるだけです。そのような社長に限って、企業として脚光を浴びるようなことがあると、その手柄を独り占めするべく前面に出てきます。そのような社長は人から尊敬されたり、信頼されたりすることはありません。勇将の下に弱卒なしであるように、弱将の下に有卒なしです。上が逃げ腰で無責任なら、下もそうなります。



そもそもどのような場合であれ、問題が起こったときは、関係していた人で100%責任がないという人はいません。無理やり自分の非を見つけ出し、その点について誤り責任を取る姿勢を示すべきです。自分に少しでも悪いところがあれば即座に謝る人は、自分の言動の隅々にまで気を配っている人であり、人から信頼を得るのです。
なお、「過」については、『孔子とドラッカー 新装版』(三五館)に詳しく書きました。


孔子とドラッカー 新装版―ハートフル・マネジメント

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*よろしければ、「一条真也の新ハートフル・ブログ」もどうぞ。



2016年2月11日 佐久間庸和