お墓の作法とは


25日は、朝から会社で健康診断があります。
今回から、胃集団検診も受けることになりました。
川島なお美さんが54歳の若さで亡くなられたニュースには驚きました。心より御冥福をお祈りいたします。わたしももう50代ですので、今まで以上に健康に留意したいと思います。
今日の「毎日新聞」朝刊に第38目の「北九州発 ハートフル通信」が掲載されました。
今回のタイトルは、「お墓の作法とは」です。



毎日新聞」9月25日朝刊



いま、お彼岸のさなかです。お彼岸には、お墓参りをします。
お墓の「かたち」は非常に多様化してきています。従来の石のお墓もあれば、海や山に遺灰をまく自然葬を求める人も増えてきています。遺骨を人工衛星に搭載して宇宙空間を周回させる天空葬もあれば、月面をお墓にする月面葬も登場しました。



わたしは、人間とは死者とともに生きる存在であると思います。それは、人間とはお墓を必要とする存在だということでもあります。
血縁も地縁も希薄になり、「無縁社会」という言葉がよく聞かれます。「葬式は、要らない」という葬儀不要論に続いて、「墓は、造らない」という墓不要論も取りざたされました。でも、わたしは生き残った者が死者への思いを向ける対象物というものが必要だと思います。



以前、『千の風になって』という歌が非常に流行したとき、「私のお墓の前で泣かないでください、そこに私はいません」という冒頭の歌詞のインパクトから墓不要論を唱える人が多くいました。しかし、新聞で東海地方の葬儀社の女性社員の方のコメントを読み、その言葉が印象に残りました。それは「風になったと言われても、やはりお墓がないと寂しいという方は多い。お墓の前で泣く人がいてもいい」といったような言葉でした。その言葉を目にしたとき、すとんと腑に落ちたような気分でした。



わたしは、風になったと思うのも良ければ、お墓の前で泣くのも良いと思います。死者をしのぶ「こころ」さえあれば、その「かたち」は何でもありだと思うのです。
これからは既存のスタイルにとらわれず、自分らしいお墓について考える時代です。先祖代々のお墓を引っ越さなければならないという「墓じまい」や、新たにお墓を造るという「墓じたく」も大切な問題です。



最近、わたしは『墓じまい・墓じたくの作法』(青春新書インテリジェンス)という本を上梓しました。この本では、さまざまな「お墓の作法」について紹介しています。作法といえば、決して「墓」とは呼ばずに「お墓」と呼ぶことが大切です。「墓」とは石材をはじめとした単なる物体であり、唯物論的な世界の言葉です。でも、「お墓」と呼べば、そこには「こころ」が入ります。どうも、「墓」と呼び捨てにしている人は自分自身の墓が無縁化する運命にあるような気がしてなりません。一方、「お墓」と呼ぶ人のお墓はいつまでもお参りに訪れる人が絶えないように思います。いわゆる「言霊」ですね。ぜひ、みなさんも「お墓」と呼んでいただきたいと思います。


*よろしければ、「一条真也の新ハートフル・ブログ」もどうぞ。



2015年9月25日 佐久間庸和