始皇帝像

日本各地、いや世界各地には多くの銅像が建立されています。
そこでは、さまざまな偉人や英雄たちの功績を偲ぶことができます。
先日、「アジア冠婚葬祭業国際交流研究会」のミッションで中国を訪問しました。
その際、2005年以来、じつに12年ぶりに兵馬俑を訪れました。


兵馬俑に到着しました



兵馬俑といえば、銅像ではありませんが、「秦の始皇帝」の巨大石像が建立されています。
始皇帝前人未到の大事業を成し遂げましたが、その死後、彼の大帝国は脆くも崩壊してしまいました。とはいえ、統一の経験は、中国の人々の胸に強く、そして長く残りました。
三国時代南北朝、宋金対峙など、中国はその後しばしば分裂しましたが、そのときでも、誰もがこれは常態ではないと思っていたのです。中国が1つであることこそ、本来の自然な姿であると思っていたのです。


これは、イギリス、フランス、イタリア、ドイツ、スペインなどの国々に分かれ、20世紀の終わりになってやっとEUという緩やかな共同体が誕生したヨーロッパの歴史を考えると、本当に物凄いことです。よほど強烈なエネルギーがなければ、中国統一のような偉業を達成することはできません。1人の人間が発したそのエネルギーの量たるや、わたしには想像もつきません。


始皇帝



中国すなわち当時の世界そのものを統一するとは、どういうことか。他の国々をすべて武力で打ち破ったことは言うまでもありませんが、それだけでは天下統一はできません。始皇帝は度量衡を統一し、「同文」で文字を統一し、「同軌」で戦車の車輪の幅を統一し、郡県制を採用しました。そのうちのどれ1つをとっても、世界史に残る一大事業です。始皇帝は、これらの巨大プロジェクトをすべて、しかもきわめて短い期間に1人で成し遂げたわけです。


始皇帝像と



かくして、広大な中国は統一され、彼はそのシンボルとして「皇帝」という言葉を初めて使いました。以後、王朝や支配民族は変われど、中国の最高権力者たちは20世紀の共産主義革命が起こるまで、ずっと皇帝を名乗り続けました。すなわち、秦の始皇帝がファースト・エンペラーであり、清の宣統帝溥儀がラスト・エンペラーでした。この2人の皇帝の間には2000年を超える時間が流れています。


また、始皇帝は2つの水利工事や阿房宮という未完の宮殿を造ろうとしたことでも知られていますが、何と言っても有名なのが、かの万里の長城です。いま残っているのは明時代のもので、始皇帝の時代はもう少し原始的なものだったそうですが、それにしても国境線をすべて城壁にするというのは、実に雄大な英雄ならではの発想です。月から地球をながめるというのは私の人生最大の夢ですが、万里の長城こそは月面から肉眼で見える唯一の人工建造物だと俗に言われています。この上ない壮大なスケールと言う他はありません。


それほど絶大な権力を手中にした始皇帝でしたが、その人生は決して幸福なものではありませんでした。それどころか、人類史上もっとも不幸な人物ではなかったかとさえ思います。
なぜか。それは、彼が「老い」と「死」を極度に怖れ続け、その病的なまでの恐怖を心に抱いたまま死んでいったからです。始皇帝ほど、老いることを怖れ、死ぬことを怖れた人間はいません。そのことは世の常識を超越した死後の軍団である兵馬俑の存在や、徐福に不老不死の霊薬をさがせたという史実が雄弁に物語っています。
中国統一という誰もなしえなかった巨大プロジェクトを成功させながら、その晩年は、ひたすら生に執着し、死の影に脅え、不老不死を求めて国庫を傾け、ついには絶望して死んだ。そして、その墓は莫大な財を費やし、多くの殉死者を伴うものでした。
兵馬俑とは、不老不死を求め続けた始皇帝の哀しき夢の跡にほかならないのです。わたしは、12年前に兵馬俑で次のような歌を詠みました。


 不老不死求めてあがく夢の跡
        まこと哀しき兵馬俑かな   庸軒


兵馬俑



いくら権力や金があろうとも、老いて死ぬといった人間にとって不可避の運命を極度に怖れたのでは、心ゆたかな人生とはまったくの無縁です。逆に言えば、地位や名誉や金銭には恵まれなくとも、老いる覚悟と死ぬ覚悟を持っている人は心ゆたかな人であると言えます。どちらが幸福な人生かといえば、疑いなく後者でしょう。心ゆたかな社会、ハートフル・ソサエティを実現するには、万人が「老いる覚悟」と「死ぬ覚悟」を持つことが必要なのです。兵馬俑をながめながら、そんなことを考えました。


中国ミッションの一行とともに



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2017年5月6日 佐久間庸和