「終活」 ではなく「修活」と呼びたい

昨夜は、会社の忘年会でいささか飲み過ぎました。
いよいよ、今年も終わるのだという実感がしましたね。
さて、「サンデー毎日」2017年1月8日・15日合併号が発売されました。
わたしは同誌にコラム「一条真也の人生の四季」を連載しています。
第62回目のタイトルは、「『終活』ではなく『修活』と呼びたい」です。


サンデー毎日」1月8日・15日合併号



いま、世の中は大変な「終活ブーム」です。
多くの犠牲者を出した東日本大震災の後、老若男女を問わず、「生が永遠ではないこと」を悟り、「人生の終わり」を考える機会が増えたようです。かくいうわたしも多くの終活セミナーや講演会に招かれ、『決定版 終活入門』(実業之日本社)という著書も上梓しています。



高まるブームの中で、気になることもあります。
「終活」という言葉に違和感を抱いている方が多いことです。特に「終」の字が気に入らないという方に何人もお会いしました。もともと「終活」という言葉は就職活動を意味する「就活」をもじったもので、「終末活動」の略語だといいます。ならば、わたしも違和感を覚えてしまいます。なぜなら、死は終わりではなく、「命には続きがある」と信じているからです。



そこで、わたしは「終末」の代わりに「修生」、「終活」の代わりに「修活」という言葉を考案し、提唱しています。「修生」とは文字通り、「人生を修める」という意味です。
考えてみれば、「就活」も「婚活」も広い意味での「修活」ではないでしょうか。学生時代の自分を修めることが就活であり、独身時代の自分を修めることが婚活なのです。そして、人生の集大成としての「修生活動」がああります。



かつての日本には死生観というものがしっかり存在していたように思います。
直葬」や「0葬」など最近の一連の薄葬化に見られるように、死者を軽んじることもありませんでした。自らの死に様、遺された家族の人生についても、きちんと考えていました。どうも、今の日本人は「修業」「修養」「修身」「修学」という言葉で象徴される「修める」という覚悟を忘れてしまったようですね。



老いない人間、死なない人間はいません。死とは、人生を卒業することであり、葬儀とは「人生の卒業式」にほかなりません。老い支度、死に支度をして自らの人生を修める・・・・・・この覚悟が人生をアートのように美しくすると思うのです。


サンデー毎日」1月8日・15日合併号の表紙



*よろしければ、「一条真也の新ハートフル・ブログ」もどうぞ。



2017年12月27日 佐久間庸和