松尾芭蕉像

各地には多くの銅像が建立されており、先人の志を感じることができます。当然ですが銅像はその人物ゆかりの地に建立されているわけですが、日本における紀行文学の金字塔とも呼ぶべき『おくのほそ道』で有名な松尾芭蕉銅像は全国に30体以上があるそうです。


芭蕉曽良銅像



ほんの一例ですが、秋田県象潟町の蚶満寺、埼玉県草加市の札場河岸公園、山形県 酒田市 日和山公園 、東京都江東区芭蕉庵史跡展望公園と海辺橋採茶庵、岩手県平泉の中尊寺などがあります。また、「奥の細道」に同行した弟子の曾良と一緒に銅像が建立されている福島市白河の関山形市の山寺も有名ですね。
Wikipedia「おくのほそ道」には以下のように書かれています。
芭蕉が、ほとんどの旅程で弟子の河合曾良を伴い、元禄2年3月27日(新暦1689年5月16日)に江戸深川の採荼庵(さいとあん)を出発し(行く春や鳥啼魚の目は泪)、全行程約600里(2400キロメートル)、日数約150日間で東北・北陸を巡って元禄4年(1691年)に江戸に帰った。『おくのほそ道』では、このうち武蔵から、下野、岩代、陸前、陸中、陸奥、出羽、越後、越中、加賀、越前を通過して旧暦9月6日美濃大垣を出発するまでが書かれている」


芭蕉 おくのほそ道―付・曾良旅日記、奥細道菅菰抄 (岩波文庫)

芭蕉 おくのほそ道―付・曾良旅日記、奥細道菅菰抄 (岩波文庫)

つまり、紀行しながら俳句を詠んだ場所が「ゆかりの地」となるだけに、全国各地で数多くの銅像が建立されているわけです。「俳聖」と呼ばれた松尾芭蕉に数多くの有名な俳句がありますが、その中のひとつに「秋深き隣は何をする人ぞ」という句があります。
多くの人は「秋の夜、隣の家の住人たちは何をしているのかなあ」というような意味にとらえているでしょうが、じつはこの句には深い意味があります。
芭蕉は、51歳のときにこの句を詠みました。1694年(元禄7年)9月29日のことでしたが、この日の夜は芭蕉最後の俳句会が芝柏亭で開かれることになっていました。しかし、芭蕉は体調が悪いため句会には、参加できないと考えました。そこで、この俳句を書いて送ったそうです。結局これが、芭蕉が起きて詠んだ生涯最後の俳句となりました。彼はこの日から命日となる10月12日まで病床に伏せ、ついに一度も起きあがることなく死んでいきました。



「秋深き隣は何をする人ぞ」には「隣」という字が出てきます。
「隣」の字の左にある「こざとへん」は人々の住む「村」を表します。右には「米」「夕」「井」の文字があります。3つとも、人間にとって最重要なものばかりです。それぞれ、「米」は食べ物を、「夕」は人の骨を、「井」は水を中心とした生活の場を表しています。
すなわち、「隣」という字は、同じ村に住む人々が衣食住によって生活を営み、その営みを終えた後は仲間たちによって弔われ、死者となるという意味なのです。そこから、「死者を弔うのは隣人の務めである」といったようなメッセージさえ読み取れます。


隣人の時代―有縁社会のつくり方

隣人の時代―有縁社会のつくり方

ということは、「隣」の真の意味を考えれば、くだんの句は次のように解釈できます。
「いよいよ秋も深まりましたね。紅葉は美しく、夜には虫の音も響き渡って、想いが膨らみます。村の皆さんは、何をして秋を楽しむのでしょうか。私は間もなく死んでしまいますが、皆さんはこれからどのような人生を送るのでしょうか。ぜひ、実りのある人生を過ごされることを願っています。それでは、さようなら・・・・・」
この句に「隣」の字を使った芭蕉の心には、単なる惜別のメッセージだけでなく、もっと切実な「人の道」への想いがあったのでしょう。そう、「となりびと」とは「おくりびと」の別名なのです。


山寺のふもとで



さて、昨年6月に全互連総会のオプションで、米沢&山形観光ツアーとして山寺立石寺に参拝しました。「山寺」の通称で親しまれている立石寺山形市にある天台宗寺院です。
公式HPには、その概要・歴史が次のように説明されています。
「当山は宝珠山立石寺といい通称『山寺』と呼ばれています。天台宗に属し、創建は貞観二年(860年)天台座主第3世慈覚大師円仁によって建立されました。当時、この地を訪れた慈覚大師は土地の主より砂金千両・麻布三千反をもって周囲十里四方を買い上げ寺領とし、堂塔三百余をもってこの地の布教に勤められました。開山の際には本山延暦寺より伝教大師が灯された不滅の法灯を分けられ、また開祖慈覚大師の霊位に捧げるために香を絶やさず、大師が当山に伝えた四年を一区切りとした不断の写経行を護る寺院となりました」


芭蕉銅像とわたし



公式HPには、続いて次のように書かれています。
「その後鎌倉期に至り、僧坊大いに栄えましたが、室町期には戦火に巻き込まれ衰えた時期もありましたが、江戸期に千四百二十石の朱印地を賜り、堂塔が再建整備されました。
元禄二年(1689年)には俳聖松尾芭蕉奥の細道の紀行の際この地を訪れ、『閑さや 岩にしみ入る 蝉の声』の名句を残しました。現在は約百町歩(33万坪)の境内を持ち、その中に大小30余りの堂塔が残され、三つの不滅(法灯・香・写経行)が今尚護られています」



この「閑さや岩にしみ入る蝉の声」という名句はあまりにも有名です。
この蝉が「どのような蝉だったのか」という論争がありますが、Wikipedia「閑さや岩にしみ入る蝉の声」には次のような説明があります。
「1926年、歌人斎藤茂吉はこの句に出てくる蝉についてアブラゼミであると断定し、雑誌『改造』の9月号に書いた『童馬山房漫筆』に発表した。これをきっかけに蝉の種類についての文学論争が起こった。1927年、岩波書店岩波茂雄は、この件について議論すべく、神田にある小料理屋『末花』にて一席を設け、茂吉をはじめ安倍能成小宮豊隆中勘助、河野与一、茅野蕭々、野上豊一郎といった文人を集めた。
アブラゼミと主張する茂吉に対し、小宮は『閑さ、岩にしみ入るという語はアブラゼミに合わないこと』、『元禄2年5月末は太陽暦に直すと7月上旬となり、アブラゼミはまだ鳴いていないこと』を理由にこの蝉はニイニイゼミであると主張し、大きく対立した。この詳細は1929年の『河北新報』に寄稿されたが、科学的問題も孕んでいたため決着はつかず、持越しとなったが、その後茂吉は実地調査などの結果をもとに1932年6月、誤りを認め、芭蕉が詠んだ詩の蝉はニイニイゼミであったと結論付けた。
ちなみに7月上旬というこの時期、山形に出る可能性のある蝉としては、エゾハルゼミニイニイゼミ、ヒグラシ、アブラゼミがいる」


曽良銅像と西ヒロシ氏



まあ、芭蕉が聴いた蝉の声が「何蝉」であったとしても、この句の素晴らしさは揺らぐことはないでしょうが、芭蕉が「こころの耳」で虚心坦懐に聴いたものは「古人の跡」を求めたのではなく古人の求めたるところ」を求めたに相違ありません。
ところで、立石寺の根本中堂といえば、「不滅の法灯」です。
公式HPには次のように紹介されています。
伝教大師が灯し比叡山より分けられた法灯を建立当時以来一千百数十年の間一度も消えることなく仏法の護持を示す光としてお護りしてきました。過去に織田信長に焼討で本山延暦寺の法灯が消えた際、再建時には逆に立石寺から分けたといわれています」


立石寺の根本中堂



わたしは、「不滅の法灯」を見学して、「一燈照隅行」という言葉を思い出しました。おのおのが、それぞれ一燈となって、一隅を照らす、すなわち自分が存在する世界の片隅を照らすことです。伝教大師こと最澄は、著書『山家学生式』の中で、この「一隅を照らす」という言葉を使っています。最澄が開いた比叡山は多くの灯をともす者たちを輩出しました。すなわち、法然親鸞栄西道元日蓮といった日本仏教史の巨人たちです。彼らはみな、もともと比叡山で修行する天台宗の僧侶であり、開祖である最澄の「一隅を照らす」という志を受け継ぐ者たちでした。灯をともす人間が増えていくと、一燈が万燈になります。それが「万燈遍照」です。わたしたち、すべての人類がめざす道です。


根本中堂を背に

まずは、一燈から。すべては、一燈から。
人間は、誰でも一燈を灯すことができます。
それが万燈になり、大いなる文化や文明がつくられてゆきます。そう、「灯」とは人間の営みそのものなのです。なんと偉大なことでしょうか!


この奥に「不滅の法灯」があります

人類の平和を祈りました



かつて、わたしは『リゾートの思想』(河出書房新社)という本を書きました。さまざまな「千年リゾート」創造のためのコンセプトやキーワードを提示しながら、最後は「日本人のためのリゾート」について言及します。もともと日本には「まほろば」という言葉がありました。「すぐれて良い場所」という意味ですが、わたしはこの「まほろば」にこそ日本人にとっての心のリゾートのイメージが集約されていると考えました。


リゾートの思想』(1991年2月15日刊行)



同書で有名になったのですが、わたしは空海・利休・芭蕉を「日本の三大リゾートプランナー」として捉えました。まずは、空海が開いたといわれる四国八十八ヵ所の霊場。全部を巡り終わった時には大いなる達成感があり、真の精神的満足が生まれます。次に、千利休が完成させた茶室。現在のリゾートはやたら空間を広く取りたがるけれども、むしろ日本人には狭い空間のほうがリラックスできるという部分があることを指摘しました。そして、松尾芭蕉が旅した奥の細道。日本人にとってリゾートに行くことはセンチメンタルな旅であり、道とは極楽浄土へと続く道です。このように、日本にはハードに頼らなくても素晴らしいリゾートを楽しむノウハウが伝統的に存在していたことを示したのです。


去来抄―影印/解説/校註

去来抄―影印/解説/校註

また、芭蕉の俳論をまとめた書物『去来抄』に「不易を知らざれば基立ちがたく、流行を知らざれば風新たならず」とあります。「不易」とは、時を越えて不変の真理、「流行」とは時代や環境の変化によって革新されていくことを指しますが、今風にいえば「初期設定」と「アップデート」とでもいいでしょうか。冠婚葬祭にも「不易流行」がありますが、わたしは「変えてはならないものは何か」を問い続けながら、時代の風に敏感でありたいと考えています。



*よろしければ、「一条真也の新ハートフル・ブログ」もどうぞ。



2016年7月18日 佐久間庸和