坂本龍馬像

坂本龍馬銅像といえば高知県桂浜に建立された巨大像が有名ですが、出身県である高知県内はもとより、龍馬の銅像は全国各地に建立されています。高知市内の桂浜の銅像が最も有名です。京都の円山公園内には中岡慎太郎像と一緒に建立されています。京都には寺田屋にも銅像がありますね。また、熊本県や鹿児島県にも建立されています。


高知・桂浜の龍馬像



そして、龍馬が創設した亀山社中ゆかりの地・長崎市内でも龍馬の銅像があります。
平成元年に長崎港を一望できる風頭公園内に建立されました。長崎市在住の彫刻家である山崎和國氏による作品です。この公園の周囲には龍馬を写真撮影した上野彦馬の墓や、亀山社中跡などがあります。寺町通禅林寺、深崇寺の間から亀山社中跡を経て風頭公園に至る坂道は「龍馬通り」と名付けられています。


長崎・風頭公園の龍馬像の前で



わたしは、ハートフル・リーダーとしての龍馬について拙著『龍馬とカエサル』(三五館)に詳しく書きました。龍馬は日本史の、カエサルは世界史の、それぞれ「人気ランキング」の首位を指定席としています。2人は大変な人気者なのです。そのバックボーンには、司馬遼太郎塩野七生といった国民的人気作家の存在も大きく影響しています。


龍馬とカエサル―ハートフル・リーダーシップの研究

龍馬とカエサル―ハートフル・リーダーシップの研究

司馬遼太郎の膨大な作品群は多くの日本人に読まれています.
その中でも最も売れた作品が『竜馬がゆく』です。わたしが生まれた1963年に初版単行本が出版されて以来、単行本・文庫本合わせて累計2200万部以上が売れたといいます。この作品が書かれる前の坂本龍馬は、それほどの有名人ではありませんでした。
わたしも含めて現在の日本人のほとんどは、龍馬に明るく愛嬌のあるイメージを抱いていますが、それはずばり、『竜馬がゆく』の影響なのです。


竜馬がゆく (新装版) 文庫 全8巻 完結セット (文春文庫)

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龍馬は日本史の、カエサルは世界史の、それぞれ「人気ランキング」の首位を指定席としています。2人は大変な人気者なのです。そのバックボーンには、司馬遼太郎塩野七生といった国民的人気作家の存在も大きく影響しています。司馬遼太郎の膨大な作品群は多くの日本人に読まれていますが、その中でも最も売れた作品が『竜馬がゆく』です。わたしが生まれた1963年に初版単行本が出版されて以来、単行本・文庫本合わせて累計2200万部以上が売れたといいます。



竜馬がゆく』が書かれる前の坂本龍馬は、それほどの有名人ではありませんでした。わたしも含めて現在の日本人のほとんどは、龍馬に明るく愛嬌のあるイメージを抱いていますが、それはずばり、この作品の影響なのです。タイトルを「龍馬」ではなく「竜馬」とした理由については、司馬遼太郎自身が「自分は自分の竜馬を書きたい」「龍の字は画数が多い」などと語ったといいます。吉川英治の『宮本武蔵』が決して等身大の武蔵を描いたわけではないように、司馬遼太郎も自らの理想の人間像としての竜馬を描いたのです。しかし、『竜馬がゆく』には、日本人が理想とするリーダー像があますところなく魅力的に描かれています。


京都・霊山歴史館で龍馬と記念撮影



龍馬は「世に生を得るは事を成すにあり」との言葉を残しました。
これは、「志」というものの本質を語った言葉であると思います。
「志」は「死」や「詩」と深く結びついています。いずれも「シ」と読みますね。
日本人は辞世の歌や句を詠むことによって、「死」と「詩」を結びつけました。
死に際して詩歌を詠むとは、おのれの死を単なる生物学上の死に終わらせず、形而上の死に高めようというロマンティシズムの表われではないでしょうか。


亀山社中にて



そして、「死」と「志」も深く結びついていました。
死を意識し覚悟して、はじめて人はおのれの生きる意味を知ります。
有名な龍馬の「世に生を得るは事を成すにあり」こそは、死と志の関係を解き明かした言葉にほかなりません。また、山本常朝の『葉隠』には「武士道といふは死ぬ事と見つけたり」という句があります。これは、武士道とは死の道徳であるというような単純な意味ではありません。
武士としての理想の生をいかにして実現するかを追求した、生の哲学箴言なのです。
このように、もともと日本人の精神世界において「死」と「詩」と「志」は不可分の関係にあったのです。龍馬の言葉に触れると、その生き様とあわせて、「何のために生きるのか」といったことを考えずにはおれません。


龍馬の写真の前で日本刀を持つ



しかし、そんな龍馬も幼少のとき、コンプレックスの塊であったといいます。自分は頭が悪いと信じていたのです。これは子どもの頃の塾の先生によって植えつけられました。先生が龍馬の物覚えの悪さに驚き、「とても預かることができない」と教授を断ってきたほどだったのです。
龍馬の器量は、なまじの教師ではとても推し量ることができなかったわけです。しかし、このとき少年の心には劣等感が芽生え、周囲の軽蔑の視線が痛いほど突き刺さってきました。龍馬は「自力」でそこから脱出してゆきます。その方法は明快でした。14歳から剣術を学びましたが、そこで頭角を現したのです。自分には何一つできないと思っていた少年がはじめて一つのことに夢中になりました。一生懸命に稽古すればするほど上達することで、達成感を得ました。それで「自信」を取り戻し、顔つきまで変わっていったのです。 



ひとたび自信を得た龍馬は、18歳のとき、「世の中の人は何とも云わば云え、わがなすことはわれのみぞ知る」という歌を詠んでいます。かつて劣等感に苦しんだ少年が、これほど自信に満ちあふれた若者に成長したのです。しかし、剣という一芸で秀でた人間は、その一芸の固執することで「自家中毒」になる幣に陥りやすいものです。
龍馬は意識してそれを避け、狭量になることを防ぎました。
自分の芸によって身動きがとれず時代遅れの頑固者になることを怖れ、秀才だった親友の武市半平太に学問を習ったのです。  



武市は中国の史書『資治通鑑』を学ぶことを薦めました。まずは読み方から始めましたが、龍馬の読み方は目茶苦茶でした。しかし、意味を尋ねると、しっかり把握していたといいます。同じような話が蘭学をかじったときにもありました。オランダ語の法律書を十分に読めないのに、先生の間違いを的確に指摘したのです。龍馬について司馬遼太郎は、人について学ぶ型であるよりも「自得」するタイプだったと述べています。



そして、龍馬ほど「自」にこだわらなかった人物はいません。つまり、私心がなかったのです。そのことは、明治維新の最大の功労者であるのにもかかわらず、閣僚名簿に自分の名前を加えなかった事実が何よりも示しています。龍馬は、これからの相手を日本ではなく世界としたというが、それにしても、あまりの無欲ぶりです。
やはり司馬遼太郎は、「古来、革命の功労者で新国家の元勲にならなかった者はいないであろう」と、『竜馬がゆく』に書いています。これには、あの度量の大きな西郷隆盛でさえ驚き、二の句がつげなかったといいます。龍馬は、新国家そして日本人のために、あえて私心を捨て、自分をむなしくしたのです。
世にリーダーと呼ばれる人は多いですが、どちらかというと自己主張の強い目立ちたがり屋が多いように思います。こうした中で、龍馬は異能のリーダーだと言えるでしょう。結局、龍馬はどこまでも「自由」な人だったのではないでしょうか。



*よろしければ、「一条真也の新ハートフル・ブログ」もどうぞ。



2016年5月22日 佐久間庸和