西郷隆盛像

地震が発生し、九州が試練の時を迎えています。
九州が生んだ史上最高の人気者といえば、西郷隆盛ではないでしょうか。
すべての九州人にエールを送る意味で、西郷隆盛銅像について書きます。
東京・上野恩賜公園の入口には、「維新の英傑」である西郷隆盛銅像があります。
これは、日本人なら誰でもよく知っている「日本一有名な銅像」と言えるでしょう。


これが上野の西郷隆盛像だ!!



西南戦争により逆賊となった西郷ですが、明治22年(1889)に大日本帝国憲法発布に伴う大赦が行われ、西郷を慕っていた明治天皇より正三位を追贈されます。
これを契機として明治維新の大功労者として西郷を顕彰する動きが起こり、上野明治31年(1898)12月に時の総理大臣であった山県有朋勝海舟大山巌東郷平八郎など800名が参加して盛大な除幕式が行われました。わが国彫刻界の巨匠高村光雲による作品ですが、傍らの犬は後藤貞行という人の作だそうです。
しかし、なぜ上野の地に西郷像が建立されたのでしょうか? 銅像建立の発起人の一人であった樺山資紀の伝記によれば、当初は宮城(皇居)前広場にある楠公(楠正成)の銅像のあたりとの意見もあったようですが、「衆議の結果上野あたり」と決まったと記されています。


「日本一有名な銅像」の前で



たしかに上野戦争での勝利で事実上、明治維新がなったわけです。西郷と勝海舟の談判により江戸城無血開城しましたが、上野寛永寺には旧幕府軍である彰義隊が立て籠もり、薩長土肥を中心とした新政府軍と激突します。寛永寺の正門であった黒門口を西郷が指揮する薩摩藩が突破したのをきっかけに新政府軍が勝利を収めたのです。
ちなみに上野恩賜公園内には彰義隊の墓も建立されています。



銅像は顕彰という意味合いで建立されることが多いようですが、この世には、いろんな人の名前を冠した賞も存在します。芥川龍之介直木三十五、大宅荘一、小林秀雄三島由紀夫、そして海外ではアルフレッド・ノーベルなど・・・・・。じつに多くの賞がありますが、受賞者にとっては、賞の冠となっている人が心からリスペクトしている人物であった場合の喜びはひとしおです。わたしは2012年に第2回「孔子文化賞」を受賞しました。


稲盛和夫先生と名刺交換する



わたしは、これまでに何度も述べてきたように、人類史上で最も孔子を尊敬しています。
また、現在もお元気な方の中では、稲盛和夫先生を最も尊敬しています。
尊敬している人の名前が入った賞を、これまた尊敬している方と同時受賞する。まるで奇跡のような喜びでしたが、その稲盛先生が敬愛する歴史上の人物こそ西郷隆盛なのです。


西郷隆盛を尊敬する稲盛和夫先生


敬天愛人―私の経営を支えたもの

敬天愛人―私の経営を支えたもの

稲盛先生が名誉会長を務めておられる京セラの社是は、西郷の座右の銘敬天愛人」です。
稲盛先生は『敬天愛人―私の経営を支えたもの』 (PHP研究所)などの著書で、西郷隆盛の思想や生き様がご自身の経営に多大な影響を与えていることを語っておられます。


敬天愛人」の文字が刻まれた石碑の前で



上野恩賜公園の西郷像の脇には「敬天愛人」の文字が刻まれた石碑もあります。
西郷隆盛は、幕末の儒者である佐藤一斎を尊敬していました。
佐藤一斎といえば、吉田松陰にも大きな影響を与えたことでも知られます。彼は歴史の流れについて、「天の意思も人間世界のあり方も刻一刻と変化している。それゆえ、歴史の必然的な流れをとどめることはできない。しかし、人間の力ではその流れを早めることもできない」と述べています。つねに天を意識していた一斎の思想は西郷隆盛に受け継がれ、西郷は「敬天愛人」を座右の銘としました。さらに現在では、鹿児島出身の名経営者・稲盛和夫先生にその精神が受け継がれているわけです。


西郷といえば「敬天愛人」(鹿児島・維新ふるさと館)



ある日、陸軍大将であった西郷が、坂道で苦しむ車夫の荷車の後ろから押してやったところ、これを見た若い士官が西郷に「陸軍大将ともあろう方が車の後押しなどなさるものではありません。人に見られたらどうされます」と言いました。すると、西郷は憤然として、「馬鹿者、何を言うか。俺はいつも人を相手にして仕事をしているのではない。天を相手に仕事をしているのだ。人が見ていようが、笑おうが、俺の知ったことではない。天に対して恥じるところがなければ、それでよい」と言い放ったといいます。
他人の目を気にして生きる人生とは、相手が主役で自分は脇役です。
正々堂々の人生とは、真理と一体になって生きる作為のない生き方です。天とともに歩む人生であれば、誰に見られようとも、恥をかくことはありません。  



東洋思想を象徴する言葉に「天人合一」があります。天、つまり宇宙と人生とは別のものではなく、一貫しているという意味です。宇宙には「道」という根本的な法則性があって、宇宙の一員である人間も、そこを外れては正しい人生も幸せな人生も歩むことができません。
それに対して、西洋では「天」つまり自然と人間とを対立するものととらえてきました。人間は自然の一部というより、自然は人間が征服すべきものという考え方です。その成れの果てが、地球環境の破壊ではないでしょうか。西郷隆盛は明治以後で特に人望のあった日本人でした。わたしたちも、西郷のように、天を相手に正々堂々と生きたいものです。


維新の英雄・西郷隆盛銅像



西郷隆盛稲盛和夫といえば鹿児島。わたしは鹿児島市内に残る西郷像、西郷の旧跡を訪ねたことがあります。維新の大功労者であった西郷ですが、西南戦争で新政府軍と戦い敗北し、ふるさと鹿児島・城山の地で自刀しました。その城山を背景にして建立された銅像があります。西郷の没後50年祭記念として鹿児島市出身の彫刻家である安藤照が8年もの歳月をかけて製作し、昭和12年(1937)5月に完成しています。安藤は渋谷の「忠犬ハチ公」の制作者でもあります。わが国初の陸軍大将の正装で直立不動、堂々たる威容の銅像です。


西郷隆盛銅像を背にして

サンレーグループ社員は歴史に学ぶ!

西郷隆盛終焉の地で

致命傷を負った西郷洞窟の前で



西郷洞窟の前にも銅像が建立されています。
当然、ここでも「せごどん」と同じポーズで「気」を感じました。
西郷隆盛という人は、とにかく大人物だったようです。自身も大物ぶりを存分に発揮したあの坂本龍馬でさえ、「大きく叩けば大きく響き、小さく叩けば小さく響く。馬鹿なら大馬鹿だし、利口なら大利口だ」と西郷を評しています。龍馬の師匠にあたる勝海舟も、「いわゆる天下の大事を負担するのは、はたして西郷ではあるまいかと、ひそかに恐れたよ」とまで述べています。勝海舟はまた、「西郷はどうにも人にわからないところがあった」とも述べています。


せごどん像の前で

せごどんの等身大ロボットと(鹿児島・維新ふるさと館)

西郷は島津斉彬の「忍者」ではなかったかという説さえあります。
それくらい、彼の生涯は大きな謎に包まれているのです。そもそも、彼の正式な写真が残っておらず、正確な顔がわかりません。一般に西郷の顔については、上野の西郷像でも参考にされたキヨソーネの肖像画が元になっています。しかし、ブログ『西郷の貌』にも書いたように、あれは西郷の本当の顔ではないという説が広く流布しています。
鹿児島市内にある「維新体感シアター」には西郷隆盛の等身大ロボットがありましたが、やはりキヨソーネ画の呪縛が解かれていませんでした。果たして、地元・加治屋町の人々は西郷ロボットの顔についてどう思っているのか。そのことが、わたしは非常に気になりました。


これが西郷隆盛の巨大銅像だ!



そして、2015年9月のサンレー本社社員旅行で鹿児島の西郷公園を訪れたのですが、そこで日本一の大きさを誇る西郷隆盛像に遭遇したのです。
鹿児島県観光サイトでは、以下のように説明されています。
「人物像としては日本一の大きさの西郷隆盛像が迫力のある西郷公園。無料で入れる公園は薩摩藩の別邸を彷彿とさせる門構えで、庭園や噴水を配した石畳の広場の周囲には、西南戦争を描いた53枚の錦絵をはじめ、西郷隆盛明治維新に関する資料、軍服、西郷さんにまつわるエピソードなどが展示されています。お土産品店には、溝辺のお茶や、鹿児島銘菓の『かるかん』、西郷さんの大好物『さつまあげ』などが並んでいます。 西郷隆盛像は昭和63年8月に建立。高さ10.5メートル、重さ30トン、台座の高さ5メートル。(古賀忠雄作)」


西郷銅像をバックに・・・

いやあ、感動しました!



いやあ、この巨大銅像に遭遇したときの感動といったら!
わたしは三度の飯より銅像が好きなのですが、社員のみなさんが「社長は銅像がお好きなんですよね」などと口ぐちに言うので驚きました。え〜、なんで知っているの?(笑) 
みなさんも巨大銅像に感銘を受けたようで、それぞれ記念写真を撮影していました。


大物になりたいでごわす!



銅像立つところには志が立つ」すなわち立志です。
全国には綺羅星の如く銅像が建立されています。今回ご紹介した西郷隆盛のように、全国各地に複数の銅像が建立されている歴史上の人物もいます。サンレーでは、わたしだけでなく社員のみなさんも出張先や社員旅行で出会う銅像に先人たちの志に学ぶ企業風土を創っていきたいものです。そして、学びて時にこれを習う亦説(またよろこ)ばしからずや! 



*よろしければ、「一条真也の新ハートフル・ブログ」もどうぞ。



2016年4月21日 佐久間庸和