なぜ節分に厄を祓うのか

サンデー毎日」2016年2月14日号が出ました。
わたしは、同誌にコラム「一条真也の人生の四季」を連載しています。
第17回目のタイトルは、「なぜ節分に厄を祓うのか」です。


サンデー毎日」2月14日号



2月3日は「節分」です。例年、この日は小倉の神社で行われる節分祭に参加しています。厄を迎えた社員や取引先の関係者などが合同で厄除けのお祓いをし、わが社のホテルで祝賀会を開く習慣です。祝賀会が終了すると、いつも自宅で「豆まき」をします。娘たちが小さかった頃はよく鬼の仮面をかぶったものです。今では、なつかしいですね。



でも、「鬼は外」と豆を投げつけられるのは、どうにも切ない感じがします。鬼を忌むべき存在として決めつけているからです。そこには「排除」の構図があります。幼い頃に読んだ『泣いた赤鬼』では、赤鬼がかわいそうで涙が出ました。そこで、「鬼は外 豆を投げれど 赤鬼の泣いた顔見て 鬼も内へと」という歌を詠んだことがあります。



さて、厄年の「厄」とは、災厄の「厄」ではなく、役員の「役」、つまり共同体の中で一定の役割を果たすという意味での「厄」年だといいます。厄年が災いの年になることがあるのは、年齢に応じて与えられた役割を果たすことができない、つまりさまざまな難題課題を解決することができず、それに振り回されてしばしば失敗してしまうからだという考え方から来ています。



厄年は時代や土地によってさまざまに決められていました。現在でも信じる人が多いのは男性の25歳と42歳、女性の19歳と33歳で、特に42は「死に」、33は「さんざん」と語呂合わせされるところから大厄と言われています。大厄の前後を前厄、後厄とするのも全国的です。



男性の42歳というのは、たしかに重要な時期です。
というのも、50代、60代といった老年期にある者と、10代、20代にある若者や青年たちとの間をつなぎ、文化を伝達し、集団内で中心的な役割を果たさなければならないからです。このとき、その年齢に達した人々は、集団の中での主要な役割を与えられます。それを災いとするのも、人生のよき糧、養分とするのも、すべてはその人次第なのです。


サンデー毎日」2月14日号の表紙



*よろしければ、「一条真也の新ハートフル・ブログ」もどうぞ。



2016年2月2日 佐久間庸和