たった一字に深い意味を秘めている文字は、世界でも漢字だけです。
そこには、人のこころを豊かにする言霊が宿っています。
その意味を知れば、さらに、こころは豊かになるでしょう。
今回ご紹介するハートフル・キーワードは、「詩」です。



わたしは、朝礼や会議あるいは式典などで自作の短歌や俳句を披露します。たとえば俳句では、有名なほととぎすの句にちなみ、信長は「殺してしまえ」、秀吉は「鳴かせてみよう」、家康は「鳴くまで待とう」とその性格を表現され、これにちなんで松下幸之助は「鳴かぬなら それもまたよし ほととぎす」と詠みました。さらには、サービス精神やホスピタリティ・マインドの重要性を込めて、「鳴かぬなら 我が鳴こうか ほととぎす」と社員の前で披露しました。



短歌も詠みます。かつて、新興のハウスウエディング施設と激戦を繰り広げていた松柏園ホテルの朝礼では、「松柏」が『論語』に由来する不易の常緑樹であることを説明したあと、 「ハウスなど 流行り廃れの根無し草 松と柏は常に青々」
セレモニーホールの紫雲閣グループの会議に際しては、「紫雲」が人の臨終の際に迎えに来るという仏が乗る紫色の雲であることを説明し、司馬遼太郎の名作『坂の上の雲』にかけて、
「坂のぼる上に仰ぐは白い雲 旅の終わりは 紫の雲」


500人以上もの社員を集めて行う新年祝賀式典や創立記念式典などでは、サンレーという社名の由来とミッションなどを次のように歌に詠みました
「陽の光 むすびの心 そして礼 三つの力 秘めしサンレー 」
「万人に等しく光降り注ぐ 天に太陽 地にはサンレー 」
最初は、警戒まではしないにしろ、「また、社長が変なことをはじめたぞ」ぐらいにしか思っていなかった社員たちも、最近では「新作はまだですか?」とか「サラリーマン川柳ならぬプレジデント短歌ですね!」などと言ってくれ、楽しみにしていてくれるようです。
長々と社長訓示をするよりも、短い言葉の中にメッセージを凝縮して入れ込んであるので、みんながそれを楽しんでくれることは大変ありがたいです。経営者の最たる仕事とは、経営理念や経営方針などのメッセージを社員に伝えることだからです。



戦国史研究の第一人者である静岡大学教授の小和田哲男氏によれば、和歌や連歌は戦国武将たちの教養として欠くべからざるものであったといいます。加藤清正などは、武士があまりに和歌・連歌に熱中してしまうと、本業である「武」の方がおろそかになってしまうことを警戒していたぐらいでした。
北条早雲などは、「歌道を心得ていれば、常の出言に慎みがある」と述べています。
歌は五・七・五・七・七の三十一文字、連歌は五・七・五の上の句と、七・七の下の句の連続で、いずれにしても、きわめて短い言葉で自分の思いを表現しなければなりません。早雲は、そうした鍛錬が、日常、何気ない言葉にもあらわれるとみていました。



歌心のあるなしで、その人の品格のあるなしがわかり、また、情のあるなしもそこに反映されるという考え方は昔からありました。徳川家康は何人かの家臣たちと雑談していて、話が源義経のことにおよんだとき、「源義経は生まれつきの大将ではあるが、歌学のなかったことが大きな失敗だった」と言い出しました。家臣たちは、「義経に歌道がなかったというのは聞いておりません」と家康に言うと、家康は、「義経は、“雲はみなはらひ果たる秋風を松に残して月を見るかな”という古歌の心を知らなかった。そのために身を滅ぼした。平家を少しは残すべきだったのだ」と答えたといいます。



家康は自分で詩作をするのは苦手だったようですが、よく勉強はしていたと思われます。
そして、古歌をただ教養として学んでいたのではなく、自身の生活態度、さらに政治・軍事にも応用していたことがわかります。家康にとって歌学は、生きた学問だったわけです。
また、連歌の場合はもう一つの意味があり、「出陣連歌」といって、合戦の前に連歌会を開き、詠んだ歌を神社に奉納し、戦勝祈願をするためにも必要でした。「連歌を奉納して出陣すれば、その戦いに勝つことができる」といった信仰があったのです。



連歌ではありませんが、大分県宇佐市宇佐紫雲閣をオープンしたとき、わたしは、
「宇佐の地の よき人々の旅立ちに 魂を送らん 紫雲閣より」
という歌を詠み、宇佐神宮に奉納しました。
連歌の場合は連衆といって、何人かが車座になって上の句と下の句をつなげていくわけで、明らかに「輪」の文化です。「輪」は「和」に通じ、家臣団の意思統一につながっています。
そして、それは、和歌・茶の湯についても同様でした。



わたしされてかどうかは知りませんが、わが社にも歌を詠む社員がだんだん増えてきたので、いつか社員のみんなと車座になって連歌会を開くのが、わたしの夢です。もちろん、そこではわが社の「志」を詠みたいです。
古来、中国でも日本でも詩歌とは志を詠むものとされました。
新時代の建設に向けて青雲の志を抱いていた幕末の志士たちも、驚くほど多くの歌を残しています。病身の高杉晋作幕府軍の象徴であった小倉城をついに陥落させた後で下関に戻り、一首詠もうと筆を取ったが何も浮かばず、「志を果たせば、すなわち詩というものは不要なのであろう」とつぶやいたといいます。



わたしはこれからも、社長として、わが社の志をさまざまな歌にして、社員のみんなに伝えたいと思います。何しろ、歌を詠むのは原価がゼロですから、これで少しでもみんながやる気になってくれれば、こんなに優れたコスト・パフォーマンスはありません。
なお、「詩」については、『孔子とドラッカー 新装版』(三五館)に詳しく書きました。


孔子とドラッカー 新装版―ハートフル・マネジメント

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*よろしければ、「一条真也の新ハートフル・ブログ」もどうぞ。



2016年1月17日 佐久間庸和