上杉謙信像


各地には多くの銅像が建立されており、先人の志を感じることができます。
今年6月、わたしが会長を務める全国冠婚葬祭互助会連盟(全互連)の定時総会が山形県米沢市で開催されました。長年の念願が叶って、わたしは平生より敬愛してやまない上杉謙信を祀る米沢の上杉神社へ参拝してきました。この神社は米沢城跡公園内に鎮座していますが、この公園には上杉謙信公の銅像が建立されています。


上杉謙信銅像前で



ちなみに、謙信の銅像は、新潟県上越市の「春日山城跡」、「埋蔵文化財センター(リージョンプラザ上越にあった銅像を移設)」、同県栃尾市の「栃尾美術館内謙信廟」と「秋葉公園」 にあります。さらに「川中島古戦場跡」の武田信玄との一騎討の像もありますね。
また、最近開業した北陸新幹線が停車する妙高上越駅前にも建立されましたから、現在7体の銅像があるわけです。


上杉謙信公家訓十六ヶ条」



米沢城跡には謙信像の他に「上杉謙信公家訓十六ケ条」の碑もあります。
この「上杉謙信公家訓十六ケ条」は別名「宝在心」と呼ばれている家訓です。
「宝は心に在り」とは、まさに言い得て妙です。家訓とは、家を守り立て存続させていくために家長が一族や子孫のために記したものです。鎌倉時代以後、武家にこうした家訓を残す習慣が生れました。江戸時代になると商家も経営の心構えとして家訓を定めるようになりました。



さて、上杉謙信は一体どのような家訓を残しているのでしょうか。
上杉謙信公家訓十六ケ条」は次のとおりです。
一、心に物なき時は心広く体 泰(やすらか)なり
(物欲がなければ、心はゆったりとし、体はさわやかである)
一、心に我儘なき時は愛敬失わず
  (気ままな振舞いがなければ、愛嬌を失わない)
一、心に欲なき時は義理を行う
  (無欲であれば、正しい行い、良識な判断ができる)
一、心に私なき時は疑うことなし
  (私心がなければ他人を疑うことがない)
一、心に驕りなき時は人を教う
  (驕り高ぶる心がなければ、はじめて人を諭し教えられる)
一、心に誤りなき時は人を畏れず
  (心にやましい事がなければ、人を畏れない)
一、心に邪見なき時は人を育つる
  (間違った見方がなければ、人が従ってくる)
一、心に貪りなき時は人に諂(へつら)うことなし
  (貪欲な気持ちがなければ、おべっかを使う必要がない)
一、心に怒りなき時は言葉和らかなり
  (おだやかな心である時は、言葉遣いもやわらかである)
一、心に堪忍ある時は事を調う
  (忍耐すれば何事も成就する)
一、心に曇りなき時は心静かなり
  (心がすがすがしい時は、人に対しても穏やかである)
一、心に勇みある時は悔やむことなし
  (勇気を持っておこなえば、悔やむことはない)
一、心賤しからざる時は願い好まず
  (心が豊かであれば、無理な願い事をしない)
一、心に孝行ある時は忠節厚し
  (孝行の心があれば忠節心が深い)
一、心に自慢なき時は人の善を知り
  (うぬぼれない時は、人の長所や良さがわかる)
一、心に迷いなき時は人を咎め
  (しっかりした信念があれば、人を咎めだてしない)


「上杉家訓十六ヶ条」の前で



謙信が実際に書き残した古文書が残っているわけではなく、自作かどうかは不詳です。歴代藩主と家臣団によって編纂されたのかもしれません。しかし、内容は謙信の人となりを見事に表現しているのではないでしょうか。武家の家訓ではありますが、「上杉家十六箇条」に通底しているのは「御仏の教え」のように思えます。つまり、ブッダの教えですね。特に、「八正道」や「六波羅蜜」との共通項が多いように感じます。



上杉謙信は神仏を篤く敬い、自ら出家もしています。
「謙信」とは法名、つまり僧侶としての名前です。青年期までは曹洞宗林泉寺天室光育から禅を学んでいますが、上洛時には臨済宗大徳寺の宗九に参禅し「宗心」という法名を受けています。そして晩年には高野山金剛峯寺内の無量光院の清胤から伝法潅頂を受け阿闍梨権大僧都の位階まで授けられています。名言ブログ「第一義」にも書いたとおり、謙信の代名詞ともいえる言葉も実はブッダの教えなのです。



この「上杉謙信公家訓十六ケ条」は、人のこころの在り様を見事に集約した家訓ですが、わたしが上杉謙信の遺した言葉の中で最も感銘を受けた言葉が、「非道を知らず存ぜず」です。これは、謙信が越後国一宮・彌彦神社に奉納した願文の中に出てくる言葉です。
原文は、「不知非道不存」と漢文で表記されています。
これは、昭和44年(1969年)に国の重要文化財に指定されています。



毘沙門天を崇拝するがゆえに「毘」の旗を掲げて戦国の世を生きた謙信は、不正や不義を許すことが出来ない人でした。彼は武将として天賦の才に恵まれた上に、一流の教養人でもありました。そして、礼節に基づいた「心ゆたかな社会」の実現をめざしていたのです。
謙信の最大のライバルであった武田信玄は「敵の悪口はいうな」という言葉を残していますが、もちろん謙信も敵の悪口は言わない人でした。
それどころか、2人は互いの存在を心から認め合っていました。
謙信と信玄は14年にわたって戦いましたが、合戦さなかに信玄の死が伝えられると、謙信は食べていた箸を取り落として「敵中の最もすぐれた人物」を失ったとさめざめと泣いたといいます。そして、家臣たちが「今、武田を撃てば勝てる」と浮き足立つのを、「人の落ち目を見て攻め取るのは本意ではない」と戒めました。



謙信は、川中島で何度も激闘を繰り広げた信玄に対して終始気高い見本を示したとされています。信玄の領地は海から隔たった山間の甲州であり、彼は塩の供給を東海道の北条氏の所領に仰いでいました。北条氏康はそのころ、あからさまに信玄と戦っていたわけではありませんでしたが、信玄の勢力を弱めたいと願っており、この重要な物資の供給を断ってしまいます。謙信はその敵である信玄の窮状を聞き、自領の海岸から塩を得ることができるので、これを商人に命じて価格を公平にした上で分けてあげました。
これが、あまりにも有名な「敵に塩を送る」の故事です。
謙信はもともと熱心な仏教信者でしたが、それだけに大将としての権謀術数ぶりもさることながら、戦い方は情け深く公平で、相手の非に付け込まなかったといいます。それはまさに、江戸時代に確立する武士道の源と言えるでしょう。


春日山城跡の上杉謙信銅像



この「非道を知らず存ぜず」という言葉が象徴するように、謙信は不正や不義を許すことが出来ない人でした。謙信は武将として天賦の才に恵まれた上に、教養人としても超一流でしたが、その生涯をみると、礼節に基づいた「心ゆたかな社会」の実現をめざしていたように思います。この謙信の志には、わたしたちも学ぶべきことが多いように考えます。


春日山城跡の上杉謙信銅像の下で、サンレー北陸の東常務と



わたしが会長を務める全互連は「親睦と融和」を信条として設立から半世紀以上が経過しました。今こそ「相互扶助」という初期設定と、「有縁社会」を再生するためのアップデートが互助会業界に求められています。全互連は冠婚葬祭互助会の保守本流です。上杉謙信がそうであったように、保守とは守るべきものを守るために改革することだと思います。そして守るべきものとは、「文化の核」としての日本人の儀式であり、それを支える「相互扶助」の心です。



*よろしければ、「一条真也の新ハートフル・ブログ」もどうぞ。



2015年11月23日 佐久間庸和