たった一字に深い意味を秘めている文字は、世界でも漢字だけです。
そこには、人のこころを豊かにする言霊が宿っています。
その意味を知れば、さらに、こころは豊かになるでしょう。
今回ご紹介するハートフル・キーワードは、「徳」です。




「徳」とは何か。安岡正篤によれば、「徳」とは宇宙生命より得たものであり、人間はもちろん一切のものは徳のためにあります。徳は「得」です。また、わたしたちの徳の発生する本源、己れを包容し超越している大生命を「道」と言います。
だから道とは、これによって宇宙や人生が存在し、活動している基本となるもの、これなくして宇宙も人生も存在することができない、その本質的なものが道で、それが人間に発して徳となる。これを結んで「道徳」と言う。したがって、そのなかには単に道徳のみならず、政治も宗教もみんな含まれています。非常に幅の広い言葉なのです。



わたしたちの徳にはさまざまな相がありますが、その1つに意識というものがあります。
わたしたちの意識される分野はごく少しで、例えば光なら赤・橙・黄・緑・青・藍・紫などの七色の色閾しか受け取れません。しかし、光そのものは無限です。わたしたちのこの意識の世界がいわゆる「明徳」であり、その根底には自覚されない無限の世界があります。
老子は、この無限の世界を「玄徳」と言っています。



海面に出ている氷山の下には、それの八倍のものが沈んでいるといいます。
ちょうどそれと同じで、有の世界、明の世界の下には潜在している徳、すなわち無意識の世界があるのです。これを無の世界と言うと誤解を招くので、無や虚という言葉を使いながら、道教ではよく「玄」という字を使います。



しかし、儒教は自己を修め人を治める現実の学問です。
もちろん、玄徳の世界を無視するものではありませんが、とにかく、そのよって立つ基礎は意識にのぼり、感覚でとらえる世界、知性や理性によって把握する世界、すなわち「明徳」の世界です。その明徳が何であるかを解明するのが「明明徳」です。



明徳を明らかにするとは、わたしたちの持っている能力を発揮することで、明徳を明らかにしようと思えばかえって玄徳に根ざさなければなりません。それによって初めて明徳を明らかにすることができ、そこで哲学や信仰が必要になってきます。したがって、孔孟の学と老荘の学はあるところまでゆくと必ず1つになるのです。わざわざ儒教道教と2つに分けるのは本当のことが解らない証拠です。



安岡正篤はまた、人間としての二大要素というものを説きました。人間にとって、道とか真理ほど大事なものはありません。人間には根本的に4つの大事な要素があり、もっとつきつめると2つの要素になります。第一は、これを失ってはもう人間が人間でなくなるという本質的要素。第二は、それに付随した属性・附属的なものです。



第一の人間としての本質的要素とは何か。
これは「徳性」というもので、平たく言えば、素直で、明るく、清い。人を愛し、助ける、人のために尽くす、あるいは報いる。また、いかなることにも堪える、忍ぶ。したがって、努める、努力する。こういうものはいわゆる徳目というもので、数えれば限りがありませんが、これらが人間の人間たる所以の徳であり、これがなければ人間ではないのです。



それでは、第二の属性とは何か。
人間が直立歩行するまでには悠久な歳月を費やしたが、手が発達するにともなって知能や技能というものが発達してきました。そして知識や技術と、これにともなう文明というものが発達してきました。よくそういう点だけから考えて、知能・技術が人間の本質であると考える人が多いのですが、決してそうではありません。これは人間にとってどんなに大事であり、どんなに立派であっても、あくまでもそれは附属的性質のもの、つまり属性です。



安岡はその証拠に次のような例えを持ち出します。吉田松陰西郷隆盛は、地球は自転しながら太陽の周囲を公転しているということも知らず、昔ながらに日が東から出て西に沈むということくらいしか知らない人間でした。「だから彼らは馬鹿だ」と言う人間がいたとすれば、おそらく言う人間の方がよほど馬鹿だと思われるだろう、と。人間としての本質は、日進月歩の知識だの技術だのというものではなく、あくまでも徳にあるのです。



そして、徳で大事なことは「陰徳」を積むということです。
古代中国の学者・淮南子の言葉に「陰徳ある者は必ず陽報あり、陰行ある者は必ず昭名あり」というのがあります。人知れず善行を積んだ者には、必ず天があらわに幸福を報い授けます。また隠れた善行のある者は、必ずいつかは輝く名誉があらわれてくるのです。



陰徳を積むとは、心を貯金することです。「心に貯金」ではなく、「心を貯金」。
わたしたちの心そのものを、つまり人間の元金を積んでいくことなのです。黙々と人知れず徳を積んでいくと、誰かが手伝ってくれるようになります。すると、自分が努めた以上に「徳高」が知らない間に上昇していることを感じるのです。



人のみでなく、事業もしかり。『菜根譚』には「徳は事業の基(もとい)なり。いまだ基の固からずして、棟宇(とうう)の堅久なるものはあらず」という言葉があります。事業を発展させる基礎になるのは、その事業者の徳です。基礎が不安定な建物が堅固であったためしはありません。1人ひとりが立派な人間になるために「個人の徳積み」をするように、事業にも「徳積み」が求められます。仕事や事業を成功させ、社会に貢献する。
すべての経営者は、自己のみならず事業の徳を積み、広く世間から尊敬されるような徳のある事業、すなわち「徳業」をつくらなければならないのです。
なお、「徳」については、『孔子とドラッカー 新装版』(三五館)に詳しく書きました。


孔子とドラッカー 新装版―ハートフル・マネジメント

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*よろしければ、「一条真也の新ハートフル・ブログ」もどうぞ。



2015年4月21日 佐久間庸和