聖徳太子(1)


和を以て貴しとなす




言葉は、人生をも変えうる力を持っています。
今回の名言は、日本人なら誰でも知っている聖徳太子の言葉です。
「和を以て貴しとなす」が、「憲法十七条」に由来することもよく知られています。


サンレー社長室に飾られた「以和為貴」(平澤興謹書)の額と



聖徳太子は、574年に用明天皇の皇子として生まれました。本名は「厩戸皇子」ですが、多くの異名を持ちます。推古天皇の即位とともに皇太子となり、摂政として政治を行い、622年に没しています。内外の学問に通じ、『三経義疏』を著わしたとされます。
また、仏教興隆に尽力し、多くの寺院を建立しました。平安時代以降は仏教保護者としての太子自身が信仰の対象となり、親鸞などは「和国の教主」と呼びました。しかし、太子は単なる仏教保護者ではありません。その真価は、神道・仏教・儒教の三大宗教を平和的に編集し、「和」の国家構想を描いたことにあります。


日本人の宗教感覚には、神道も仏教も儒教も入り込んでいます。
よく、「日本教」などとも呼ばれますが、それを一種のハイブリッド宗教として見るなら、その宗祖とはブッダでも孔子もなく、やはり聖徳太子の名をあげなければならないでしょう。
聖徳太子は、まさに宗教における偉大な編集者でした。儒教によって社会制度の調停をはかり、仏教によって人心の内的不安を実現する。すなわち心の部分を仏教で、社会の部分を儒教で、そして自然と人間の循環調停を神道が担う・・・・・・3つの宗教がそれぞれ平和分担するという「和」の宗教国家構想を説いたのです。


聖徳太子『十七条憲法』を読む―日本の理想

聖徳太子『十七条憲法』を読む―日本の理想

この太子が行った宗教における編集作業は日本人の精神的伝統となり、鎌倉時代に起こった武士道、江戸時代の商人思想である石門心学、そして今日にいたるまで日本人の生活習慣に根づいている冠婚葬祭といったように、さまざまな形で開花していきました。
その聖徳太子が行った最大の偉業は、604年に憲法十七条を発布したことでしょう。
儒教精神に基づく冠位十二階を制定した翌年のことであり、この憲法十七条こそは太子の政治における基本原理を述べたものとなっています。
普遍的人倫としての「和をもって貴(たっと)しとなし」を説いた第一条以下、その多くは儒教思想に基づくが、三宝(仏法僧)を敬うことを説く第二条などは仏教思想である。
さらには法家思想などの影響も見られ、非常に融和的で特定のイデオロギーにとらわれるところがない。これが日本最初の憲法だったのです。
そして、ここで説かれた「和」の精神が日本人の「こころ」の基本となりました。


聖徳太子の実在を疑う見方も多く、その実像はきわめて謎に満ちていますが、わたしは聖徳太子とは虚像も実像も超越した「和」のシンボルのような超人であると思っています。
伝説で語られる太子のキャラクターの中には、ブッダ孔子老子もイエスさえも、その面影を見ることができます。まさに、聖徳太子とはあらゆる宗教や民族の対立を超えて「和」を実現する「理想の聖人」であり、「夢の聖人」だったのでしょう。ちなみに、わたしは聖徳太子の偉業については『世界をつくった八大聖人』(PHP新書)および『知ってビックリ! 日本三大宗教のご利益―神道&仏教&儒教』(だいわ文庫)に詳しく書きました。



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2015年1月12日 佐久間庸和