渡部昇一(1)


自分の国の歴史を語ることは、自分の祖先を語ること




言葉は、人生をも変えうる力を持っています。
今回の名言は、「稀代の碩学」であり「知の巨人」、そして「現代の賢者」である渡部昇一先生の言葉です。渡部氏は昭和5年(1930年)に山形県鶴岡市でお生まれになりました。上智大学大学院修士課程修了後、ドイツ・ミュンスター大学、イギリス・オックスフォード大学に留学。母校である上智大学で長年教鞭を執られ、現在は同大学の名誉教授です。


渡部氏は、専門の英語学のみならず、政治・歴史に関する著述や講演にも精力的に活動しておられます。殊に日本近現代史についての慧眼から「保守派の論客」として一目置かれる存在です。渡部氏は日本について「ずば抜けておもしろい物語」をもった国であるとして、著書『歴史の読み方』(祥伝社)で次のように述べています。
「有史以前から、つまり神代から現代まで、筋が一本ピンと通った国、つまり王朝が一つという国はほかにないではないか。これは物語るに値するのではないか。物語の資料いじりや暗黒面ばかりあばくのを学問と思うのが、戦後の日本史学の主流のようだったが、まず、この国の物語を、愛情こめて、おもしろく物語ってみたらどうだろうか」


「現代の賢者」こと渡部昇一



そして、渡部氏は歴史を語るには2つの態度があると喝破されます。
1つは親を憎み、それを告発するような態度。これは日本史の暗黒面をあばきだし、きびしい批判をあびせる見方。もう1つは、親に対する愛情から出発する態度。親の弱点や短所を承知しつつも、それを許容し、親の長所やユニークな点を評価する見方。
この見方の違いについて、渡部氏は『論語』を引用されています。
楚の葉公という人物が自分の村には、罪を犯した父親を告発する正直者の息子がいるのだと自慢します。しかし、孔子曰く「私の村の正直者はそうではない。父親は子どもをかばって隠してやり、子どもは父親をかばって隠す。一見、不正直に見えるが、こうした行為の中にこそ、本当の正直さがあるのではないか」と。


いま、論語を学ぶ (渡部昇一ベストセレクション 対話1)

いま、論語を学ぶ (渡部昇一ベストセレクション 対話1)

このように『論語』の言葉を紹介した上で、渡部氏は以下のように述べます。
「私は、まず自分の祖先を愛する立場、祖先に誇りを持つ立場から日本史を見てみたい。愛と誇りのないところに、どうして自分の主体性を洞察できるだろうか。非行少年の多くは、自分の親に対する愛と誇りを失うことによって、基本的な主体性を失い、非行グループという偽の主体性を得た若者たちであるといわれている。それと同じように、国民が自分の歴史に対する愛と誇りを失えば、日本人としての主体性(アイデンティティ)を失い、日本よりさらに野蛮な国に、自分の主体性を委ねることになるのではないだろうか」
渡部氏が説かれる「自分の国の歴史を語ることは、自分の祖先を語ることだ」という言葉には、戦後、私たち日本人が失ってしまった大切なものが何かを示唆してくれています。
なお、渡部先生とわたしは対談本『永遠の知的生活』(実業之日本社)において、日本の歴史と文化について大いに語り合いました。



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2014年12月28日 佐久間庸和