わらびの会講話


10月23日の朝、わたしは講話を行いました。
第12回「わらびの会」の特別講話として「人は老いるほど豊かになる」をテーマにお話ししました。場所は、北九州市小倉南区星和台にある「ゆうゆう壱番館」です。


講話会場となった「ゆうゆう壱番館



ゆうゆう壱番館は、(株)不動産中央情報センターが昭和63年に開設した住宅型有料老人ホームです。全世帯128戸、現在142名様の入館者の方々が生活されています。平均年齢82.9歳で、最高齢101歳だとか。不動産中央情報センターの創業社長である故濱村和明氏の「ご高齢者の皆様に安心して元気に快適に暮らして頂きたい」という想いのもと、現在で27年目の運営に入っています。


故濱村和明氏の遺影が飾られました



「わらびの会」とは、故濱村和明氏が自身の死を迎える際に、「ゆうゆう壱番館」の入館者で亡くなられた方々と一緒に同館の敷地内に合同の慰霊碑を建立して欲しいとの遺言を受け、平成15年に慰霊碑を建立されたことから誕生しました。そして、濱村氏の命日に合わせ、毎年10月23日に合同慰霊祭を開催されています。
また、「わらびの会」と命名したのは、わらびの持つ力強さから“残されたものに生きる力が根付くように”との思いからだそうです。春になると、小さなこぶしをもたげて、土の中からむくむくと芽を出す「わらび」。野火で焼かれれば、焼かれるほど、たくましく生えてくる。その根っこは地下4〜5mも深く伸びています。共に生きる力を高めたいという思いから「わらびの会」と命名されたといいます。


故濱村社長から頂いた七福神の置物

不動産中央情報センターの濱村泰子会長、濱村美和社長と



わたしは生前の濱村和明氏と親交がありました。
21世紀の高齢者ビジネスについて、意見を交換させていただいたこともあります。
あるとき、サンレー本社に濱村氏が来られて「上海のお土産です」と言われて、七福神の置物を頂いたことがありました。わたしはそれを書斎に置いて、ずっと大切にしています。
また、濱村和明の遺志を継がれた愛娘の濱村美和さんは不動産中央情報センター代表取締役社長として活躍されています。わたしは、この美和社長とも親しくさせていただいており、じつは昨年の「わらびの会」で講話を依頼されたのですが、どうしても予定が合わずに実現しませんでした。ようやく、今年、講話させていただくことができました。 


挨拶する濱村泰子会長

挨拶する濱村美和社長



この日は、「ゆうゆう壱番館」の入館者の方々、および開設から今までに入居中に亡くなられた方のご遺族が参加されていました。9時半に開会され、まずは黙祷が行われました。それから開催挨拶として、不動産中央情報センターの濱村泰子会長、濱村美和社長のご挨拶がありました。ちなみに、不動産中央情報センターさんはアパマンショップホールディングスの大村浩次社長も若い頃に勤務していた不動産業の名門です。
ブログ「孔子文化賞受賞祝賀会」で紹介したパーティーには濱村美和社長とともに大村社長もお祝いに駆けつけて下さいました。


黙祷のようす

講話のようす



さて、濱村会長、濱村社長の御挨拶の後は、ご遺族代表のご挨拶がありました。
その後、全員で黙祷が行われました。わたしも故人の御冥福をお祈りしました。
そして、いよいよ、わたしの講話の時間となりました。
冒頭で、わたしは七福神の置物を見せながら、故濱村和明氏の思い出を語りました。


冒頭、思い出の七福神をお見せしました



それから、このような慰霊祭を行うことの意義を述べました。
死者の存在を忘れて、人は絶対に幸せにはなれません。
69年前の8月9日、小倉には原爆が落ちるはずでした。
しかし、結果的に小倉には落ちず、長崎に落とされました。
毎年、8月9日の「長崎原爆の日」には、わが社では「鎮魂」の広告を各紙に出します。
その日の朝礼ではわたしが小倉原爆についての話をします。
その後、社員全員で長崎原爆の犠牲者に対して黙祷を捧げるのです。


死者の存在を忘れてはなりません!



当時、わたしの母は小倉の中心部に住んでいました。
よって原爆が投下された場合は確実に母の生命はなく、当然ながらわたしはこの世に生を受けていなかったのです。1日で運命が変わった小倉のような街は世界中どこをさがしても見当たりません。その地に本社を構えるわが社のミッションとは、死者の存在を生者に決して忘れさせないお手伝いをすることだと、わたしは確信しています。


新しい価値としての「老い」を語る



それから、「人は老いるほど豊かになる」という話をしました。
老い」は人類にとって新しい価値です。自然的事実としての「老い」は昔からありましたし、社会的事実としての「老い」も、それぞれの時代、それぞれの社会にありました。しかし、「老い」の持つ意味、そして価値は、これまでとは格段に違ってきています。
これまで「老い」は否定的にとらえられがちでした。



仏教では、生まれること、老いること、病むこと、そして死ぬこと、すなわち「生老病死」を人間にとっての苦悩とみなしています。現在では、生まれることが苦悩とは考えられなくなりました。でも、まだ老病死の苦悩が残ります。
わたしたち人間が一個の生物である以上、老病死は避けることのできない現実です。
日本人の「こころ」には仏教の他に、神道儒教も強い影響を与えています。
老い」とは、神道では神に近い翁となることであり、儒教では人間的完成の過程です。


老い」を前向きにとらえる



それならば、いっそ老病死を苦悩ととらえない方が精神衛生上もよいし、前向きに幸福な人生が歩めるのではないでしょうか。すべては、気の持ちようであり、苦悩や不幸はすべて人間の心が生みだすものです。ですから、これからは「人は老いるほど豊かになる」という魔法の呪文をいつも心の中で唱えて下さいと訴えるのです。
すると、必ず、そうなるから不思議です。
あと、2つの魔法の呪文をみなさんにお伝えしました。
「おめでとう」と「ありがとう」です。みなさん、とても真剣に聴いて下さり、中には目を潤ませている方もしました。みなさんの想いが、わたしの心にも響きました。


会場は超満員でした



それから、人生の最期のセレモニーである「葬儀」というものの意義について話しました。
葬儀という儀式は、何のためにあるのでしょうか。遺体の処理、霊魂の処理、悲しみの処理、そして社会的な処理のために行われます。私たちはみんな社会の一員であり、1人で生きているわけではありません。その社会から消えていくのですから、そんな意味でも死の通知は必要なのです。社会の人々も告別を望み、その方法が葬儀なのです。
アカデミー外国語映画賞を受賞した「おくりびと」が話題になりましたね。
映画のヒットによって「おくりびと」という言葉が納棺師や葬儀社のスタッフを意味すると思い込んだ人が多いようです。しかし、「おくりびと」の本当の意味とは、葬儀に参加する参列者のことです。人は誰でも「おくりびと」、そして最後には「おくられびと」になります。1人でも多くの「おくりびと」を得ることが、その人の人間関係の豊かさ、つまり幸せの度合いを示すのではないでしょうか。



また、続けて、わたしは次のように発言しました。
「わたしは、日々いろんな葬儀に立ち会います。中には参列者が1人もいないという孤独な葬儀も存在します。そんな葬儀を見ると、わたしは本当に故人が気の毒で仕方がありません。亡くなられた方には家族もいたでしょうし、友人や仕事仲間もいたことでしょう。なのに、どうしてこの人は1人で旅立たなければならないのかと思うのです。もちろん死ぬとき、誰だって1人で死んでゆきます。でも、誰にも見送られずに1人で旅立つのは、あまりにも寂しいではありませんか。故人のことを誰も記憶しなかったとしたら、その人は最初からこの世に存在しなかったのと同じではないでしょうか?」




「ヒト」は生物です。「人間」は社会的存在です。「ヒト」は、他者から送られて、そして他者から記憶されて、初めて「人間」になるのではないかと思います。
人間はみな平等です。そして、死は最大の平等です。その人がこの世に存在したということを誰かが憶えておいてあげなくてはなりません。血縁が絶えた人ならば、地縁のある隣人たちが憶えておいてあげればいいと思います。わたしは、参列者のいない孤独葬などのお世話をさせていただくとき、いつも「もし誰も故人を憶えておく人がいないのなら、われわれが憶えておこうよ」と、わが社の葬祭スタッフに呼びかけます。でも、本当は同じ土地や町内で暮らして生前のあった近所の方々が故人を思い出してあげるのがよいと思います。そうすれば、故人はどんなに喜んでくれることでしょうか。わたしたちはみんな社会の一員であり、1人で生きているわけではありません。その社会から消えていくのですから、そんな意味でも死の通知は必要なのです。社会の人々も告別を望み、その方法が葬儀なのです。


「人生の卒業式」について語りました



わたしは、「死」を「人生の卒業」、「葬儀」を「人生の卒業式」と呼んでいます。
卒業式というものは、本当に深い感動を与えてくれます。 それは、人間の「たましい」に関わっている営みだからだと思います。 わたしは、この世のあらゆるセレモニーとはすべて卒業式ではないかと思っています。 七五三は乳児や幼児からの卒業式であり、成人式は子どもからの卒業式。 そう、通過儀礼の「通過」とは「卒業」のことなのですね。
結婚式というものも、やはり卒業式だと思います。
なぜ、昔から新婦の父親は結婚式で涙を流すのか。それは、結婚式とは卒業式であり、校長である父が家庭という学校から卒業する娘を愛しく思うからです。
そして、葬儀こそは「人生の卒業式」ではないでしょうか。
最期のセレモニーを卒業式ととらえる考え方が広まり、いつか「死」が不幸でなくなる日が来ることを心から願っています。



わたしは、続いて誰でもが実行できる究極の「終活」についてもお話しました。
それは、自分自身の理想の葬儀を具体的にイメージすることです。
親戚や友人のうち誰が参列してくれるのか。そのとき参列者は自分のことをどう語るのか。理想の葬儀を思い描けば、いま生きているときにすべきことが分かります。参列してほしい人とは日ごろから連絡を取り合い、付き合いのある人には感謝することです。生まれれば死ぬのが人生です。死は人生の総決算。葬儀の想像とは、死を直視して覚悟することです。覚悟してしまえば、生きている実感がわき、心も豊かになります。


「礼」=「人間尊重」の大切さを訴えました



自分の葬儀を具体的にイメージするとは、どういうことか? それは、その本人がこれからの人生を幸せに生きていくための魔法です。わたしは講演会などで「ぜひ、自分の葬義をイメージしてみて下さい」といつも言います。友人や会社の上司や同僚が弔辞を読む場面を想像することを提案するのです。そして、「その弔辞の内容を具体的に想像して下さい。そこには、あなたがどのように世のため人のために生きてきたかが克明に述べられているはずです」と言いました。葬儀に参列してくれる人々の顔ぶれも想像するといいでしょう。そして、みんなが「惜しい人を亡くした」と心から悲しんでくれて、配偶者からは「最高の連れ合いだった。あの世でも夫婦になりたい」といわれ、子どもたちからは「心から尊敬していました」といわれる。自分の葬儀の場面というのは、「このような人生を歩みたい」というイメージを凝縮して視覚化したものなのです。そのイメージを現実のものにするには、あなたは残りの人生を、そのイメージ通りに生きざるをえないのです。これは、まさに「死」から「生」へのフィードバックではないでしょうか。よく言われる「死を見つめてこそ生が輝く」とは、そういうことだと思います。
人生最期のセレモニーである「お葬式」を考えることは、その人の人生のフィナーレの幕引きをどうするのか、という本当に大切な問題です。
自分の葬儀を考えることで、人は死を考え、生の大切さを思うのです。


北九州市を世界一の「老福都市」に!



老人大国である日本、その中でも最も高齢化が進む北九州市において高齢者の方々に「老い」の豊かさと「死」の意味についてお話することは自分の大きな使命だと思っています。
なにより、話せば話すほど、わたしは老いることが楽しみになってきます。
まったく、ありがたいことです。みなさん、ご長寿、おめでとうございます。
そして、「今日は素敵な御縁をいただいて、ありがとうございました!」と講話を終わると、盛大な拍手を頂戴して感激しました。今日の講話を聴かれた皆様が悠々とした素晴らしい人生を送られることを心より願っております。


講話を終えて・・・・・・


毎日新聞」2014年10月29日朝刊



*よろしければ、「一条真也の新ハートフル・ブログ」もどうぞ。



2014年10月23日 佐久間庸和