競馬と柔道

10月3日は金曜日だったので、リーガロイヤルホテル小倉に向かって小倉ロータリークラブの例会に参加しました。ブログ「ブログのペースを落としました」に書いたように、もう以前ほどは頻繁にブログを更新しないことに決めています。
ロータリーに関しても、いちいち馬鹿みたいに詳しくレポートすることはやめますが、この日の卓話があまりにも素晴らしかったので、特別に紹介したいと思います。


卓話テーマは「競馬と柔道、凱旋門への挑戦」



この日は、月初の例会ということで、誕生日祝いと結婚記念祝いが行われました。
みんなで歌を歌った後、ウーロン茶で乾杯です。
そして、いよいよ待ちに待った卓話の時間がやって来ました。
小倉競馬場の重松場長による「競馬と柔道、凱旋門への挑戦」です。
じつは、わたしは以前から出張を入れており、この日の例会は休む予定でした。
しかし、先週の例会に出席したところ、重松場長から「佐久間さんは来週は来ますか?」と質問され、わたしが「いや、出張で欠席です」とお答えしたところ、「そうですか、わたしが卓話をするんですが、残念ですね・・・・・・」と重松場長がポツリと言われました。
その姿があまりにも寂しそうだったので、わたしの心は痛みました。それとともに、「わたしに卓話を聴いてほしいということは、柔道の話をするに違いない」と思いました。重松場長は、明治大学の柔道部監督として柔道界にその名を馳せた方です。これは、ぜひ聴きたい!
ということで、わたしは思い切って予定を変更して例会に参加したのです。
ちなみに、この日のニコニコBOXには「今日は重松さんの卓話が聴きたくて、出張を延期しました。馬よりも柔道の話をお願いします!」というメッセージで貧者の一灯を入れました。


「意外にすごい日本の競馬」



それにしても、卓話のテーマが「競馬と柔道」というのはわかるとしても、なぜ「凱旋門への挑戦」なのか? その謎はすぎに解けました。「凱旋門」とはフランスのことだったのです。重松場長は「日本経済新聞」の「意外にすごい日本の競馬」という特集記事をもとに、日本の競馬が抜群の資金力を持っていることなどを紹介しました。なんでも、中央競馬地方競馬を合わせて2兆7250億円の売り上げだそうです。
また、国際G1クラス馬の数は以下のようになっています。
米国77頭、オーストラリア51頭、英国37頭、日本31頭、フランス21頭、アイスランド20頭、ドイツ9頭、ニュージーランド8頭・・・・・・このように、ほとんどが欧米主体の国際競馬の世界で日本がいかに奮闘しているのかがよくわかります。


フランスでは柔道が非常に盛んです



重松場長によれば、ここまで日本で競馬が盛んになったのは、明治以降の欧化政策の結果だということでした。それにしても、競馬発祥の地である英国に次いで、名門フランスに勝っているというのは凄い! しかしながら、日本が本家でありながらも、フランスに押されているジャンルがあります。柔道です。日本における柔道の競技人口は約20万人ですが、フランスはなんと約80万人だそうです。これには驚きました。
フランスで盛んなスポーツといえば、サッカーと柔道が双璧だとか。町中に柔道場が点在し、老若男女が柔道着を着て稽古に励んでいるそうです。
オリンピックで2連覇したドゥイエという柔道家がいます。重松場長が指導した小川直也選手のライバルだった人ですが、現在はフランスのスポーツ大臣を務めているそうです。


講道館柔道の創始者嘉納治五郎を紹介

嘉納治五郎vs三船久蔵!

あっ、三船久蔵と双葉山が並んでいる!!



その後、重松場長は本格的に柔道について熱く語られました。
柔道の創始者である嘉納治五郎師範の話もされました。フランスをはじめとしたヨーロッパの柔道場では神棚の代わりに嘉納治五郎の遺影が掲げられ、柔道家たちは遺影に向かって拝礼してから稽古を始めるそうです。ヨーロッパ人が敬礼する唯一の日本人だと言えるでしょう。それから、嘉納治五郎と三船久蔵が乱取りをしている写真も紹介されました。三船久蔵は小兵ながら空気投げを得意とし、「柔道の神様」と呼ばれました。わたしの父が最も尊敬する武道家で、父は若い頃に三船先生の謦咳に接しています。
重松場長は、「昭和13年 明大地下道場」という珍しい写真も紹介して下さいました。
「地下道場」という固有名詞からは「地下プロレス」や「地下格闘技」といった言葉が連想され、たまらなく興味がそそられます。その上、なんとこの写真には三船久蔵と双葉山が並んで写っています。双葉山といえば、大相撲史上最強とされる「相撲の神様」です。相撲の神様と柔道の神様が並んでいる! 一体この地下道場では何が行われていたのか? 
わたしの頭の中のファンタジーは限りなく膨れ上がっていきました。


重松監督を囲んだ明大柔道部員

平成7年 世界選手権激励会



それからも、重松場長は柔道への熱い想いを語られました。
監督時代の明大柔道部の集合写真、平成7年の世界選手権激励会の写真などには、小川直也吉田秀彦が並んで写っています。わたしは現役時代のこの2人の大ファンでした。プロレスや格闘技に活躍の舞台を移した後も、ずっと応援していました。
この2人が総合格闘技のリングで戦ったとき、重松場長はどう思っていたのでしょうか?


世紀の名勝負!!



そして、東京オリンピック柔道無差別級決勝での「世紀の名勝負!!」が語られました。
オランダの巨漢アントン・ヘーシンクに挑んだのは、明大出身で富士製鉄(現、新日鉄住金)に勤務していた神永昭夫でした。Wikipedia「神永昭夫」には次のように書かれています。
宮城県仙台市出身。東北高校在学中に柔道をはじめた点は注目に値する。柔道のトップ選手としては遅い経歴である。恵まれた体格のため、短い期間の後に格段の進歩を遂げる。東北高校在学3年の時、薦められて講道館で昇段試験を受ける。そこでなんと19人抜きの快挙をなして即日参段の認定を受ける。(神永本人の言葉によれば、技を掛ければ相手が飛ぶ、というくらいに力の差があったそうだ)これは当時としては破格の扱いであった。
その参段を取得したすぐ後帰郷せずに意気揚々と明治大学の柔道部の稽古に参加したところ、明治大学の柔道部員に立っていられない程軽々と投げられてしまう。その明治大学の強さに感銘を受けた神永は明治大学への進学を決心する」


ヘーシンク&ルスカの肉体美!



この神永選手と対戦したヘーシンクですが、若くしてオランダを離れ、ずっと日本で柔道の修業をしており、日本柔道を知り尽くしていました。全盛期の彼が上半身裸になった写真も紹介されましたが、その筋骨隆々たる肉体には圧倒されます。後に、全日本プロレスに参戦して、ジャイアント馬場ジャンボ鶴田とタッグを組んだ頃とは別人のようです。
ヘーシンクの隣には、アントニオ猪木と格闘技世界一決定戦(実際はプロレスであった)を戦ったウィレエム・ルスカの若き日の姿も写っています。ルスカも凄い肉体です。


日本柔道の礼節

金メダルを授与されるヘーシンク



さて、日本中の期待を背負った東京オリンピックの柔道無差別級ですが、神永選手はオリンピック開催の直前に膝の靭帯を断裂しました。1964年10月23日の無差別級の試合当日は周囲にこの事実を隠し出場しましたが、決勝戦で体格ではるかに上回るオランダヘーシンク(神永179cm、102kgに対し、ヘーシンクは196cm、120kg)に袈裟固で押さえ込まれ、準優勝に終わります。ヘーシンクの優勝が決まった瞬間、オランダのマスコミが試合場に殺到しようとしますが、ヘーシンクは「神聖な試合場に土足で入ってはならない」として手を挙げて制しました。オランダ人のヘーシンクが「日本柔道の礼節」を示したのです。この写真を見たとき、グッときました。嘉納治五郎の理想は、ヨーロッパの青年に心にも届いていたのですね。


歴史的敗北の翌日、普段通りに出社した神永昭夫



一方、敗れた神永昭夫は、あらゆる日本人を落胆させました。
東京オリンピックでは軽量級の中谷雄英、中量級の岡野功、重量級の猪熊功が金メダルを獲得しましたが、メディアからは「日本柔道の敗北」という批判が柔道界と神永に対して浴びせられました。神永がヘーシンクに敗れたその夜、会社の上司たちが神永の家を訪ね酒を勧めたそうです。神永は居留守を使う事なく部屋へ招き入れ、ただ一言「ヘーシンクは強かったです」と素直に認め、それ以上は語りませんでした。悔し涙を流すこともなかったといいます。
その翌日、神永は何事も無かったように定時に出社し、仕事を始めました。「得意淡然失意泰然」と書かれた写真が残されています。神永は常々、「柔道だけではなく社会人としても全うに生きたい」という考えを持っていたそうですが、そこには武士道に通じる美学さえ感じます。柔道は単なるスポーツではなく武道である。その「武」の精神を神永は穏やかな形で示しました。オリンピックで優勝することはスポーツマンの偉業ですが、日本中が注目した歴史的敗北の翌日に普段通りに出社する・・・・・・これは武人でなければできません。神永の心にもまた、嘉納治五郎の理想は生きていました。



神永は、東京オリンピックの翌年の1965年にに網膜剥離のため現役を引退しました。
68年、母校・明治大学の柔道部監督に就任します。初試合で失神負けをする上村春樹(当時は無名)に才能を見出し、全日本学生チャンピオンに育て上げました。
72年のミュンヘン・オリンピックには、日本代表監督として参加します。しかし、教え子の篠巻政利が惨敗すると明治大学の監督を辞任しました。その後、76年のモントリオール・オリンピックでは、教え子の上村春樹が無差別級の金メダルを獲得しました。師弟二人三脚「世界一の座」を目指してきましたが、ついにその夢を果たしたのです。この柔道世界一の座を賭けた戦いの物語はNHKのドキュメンタリー番組「プロジェクトX〜挑戦者たち〜」で紹介されたそうですが、ぜひNHKアーカイブかDVDで観たいですね。



神永は後に上村春樹の要請を受け、日本代表総監督に就任しました。
そして、92年のバルセロナ・オリンピックで吉田秀彦古賀稔彦を優勝に導きましたが、翌93年に直腸癌のため死去。56歳の若さでした。
Wikipedia「神永昭夫」の「エピソード」には、以下のように書かれています。
「●神永は明治大学OBであるため、小川直也吉田秀彦など、後輩を可愛がった。吉田については『どうだ!吉田!』という独特の迫力ある声で語りかけたという。オリンピック直前には 吉田にとっては神永が『いつもとは違って神経質なくらいにいろいろとアドバイスした』という。オリンピックで吉田が無事優勝したときは満面の笑みをみせた。また明治大学が学生大会で優勝した時、吉田が『選手だけでなく、部員全員で旅行を!』と神永に頼んだとき、神永は『よし!』と一言だけ応えてスポンサーを集め本当に実現してしまった。
●しかし、明治大学でなくとも広く後輩を可愛がり、例えば東海大学山下泰裕にも飛行機の中で初対面にも関わらずいきなりウイスキーを勧めたりするざっくばらんな一面もある。
神永はウイスキーが好きで、気に入った人物には酒を勧めるのが彼にとって最高のもてなしであった。
●神永が明治大学の柔道部を辞めるとき、居酒屋で飲み、教え子一人一人に就職先を見つけて告げた。その際、教え子がトイレのスリッパをちらかすのを神永は一つ一つ綺麗に並べていた。教え子のうちの何人かは神永の行動に気がつく。神永の人となりが知られるエピソードである。神永は柔道が強ければそれが全てだ、とは考えていなかった。
●同じ明治大学後輩の坂口征二が一時プロレスに進み(柔道の世界からみて一種の裏切り行為と当時はされていた)また数年した後、明治大学同窓会に坂口が戻ってきたときは「おおっ!」と気さくに声をかけ、温かく受け入れたという。(坂口には神永の優しさが心にしみた、と回想している)
上村春樹は心底から神永を慕っている。神永が癌の末期状態で見舞った際、「これが俺の遺言だと思って聴け」という神永の言葉は 神永と上村の師弟関係の深さを示すものと思われる。神永は手取り足取り教えるタイプではなく、基本を教えるがそこから先は自分で考えなさい、というやりかたを上村に示していた。上村はその教えを理解し、自分で考えることの尊さを神永から学んだ」



これを読みながら、わたしの心には神永昭夫という人の人間性がありありと見えてきた気がしました。じつは、ずっと神永昭夫という柔道家に良い印象を持っていなかったのです。それは何よりも柔道が初めてオリンピック種目に採用された大舞台でヘーシンクに惨敗したことが、柔道を愛する者として許せなかったからです。後に直前に膝の靭帯を断裂した事実を知りましたが、それなら、その時点で後輩に道を譲るべきではなかったかとも思いました。特に、「あのとき、坂口征二が出ていれば、ヘーシンクに体格負けしなかったのに!」と思ったのです。しかし、重松場長の卓話を聴いて、神永氏に対する印象が一変しました。本当に素晴らしい武道家であり、人間的魅力に溢れるリーダーであったと知りました。



神永昭夫はヘーシンクに敗れたことにより、日本中からバッシングを浴びました。
東京オリンピックを控えて、日本中にカラーテレビが普及していました。
日本中のカラーテレビに映しだされた「世紀の大一番」で、神永昭夫は大恥をかいたわけです。彼により以前に、多くの日本人の前で大恥をかいた柔道家がいました。力道山との「昭和巌流島の決戦」で惨敗した木村政彦です。
ブログ『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』で紹介した傑作ノンフィクションで、著者の増田俊也氏は故・木村政彦の荒ぶる魂を鎮魂する書を上梓しました。ある意味で、木村よりもずっと辛い敗北を味わったのが神永です。いつか、彼の真実の人生を描いた本が書かれることを望みます。そのタイトルは『神永昭夫はなぜヘーシンクを殺さなかったのか』といったオドロオドロしいものではなく、『神永昭夫という生き方』などがふさわしいでしょう。



わたしは、重松場長の卓話を聴いて、神永昭夫という方に心からの尊敬の念を抱くとともに、その人生に大いなる興味が湧きました。「得意淡然失意泰然」とは、素晴らしい言葉です。思えば、わたしの「一条真也」というペンネームはTVドラマ「柔道一直線」の主人公「一条直也」に由来しますが、同ドラマの初回の冒頭に流れたのが神永がヘーシンクに袈裟固めで敗れたシーンでした。この場面を観た瞬間、一条真也も誕生したのかもしれません。
重松場長、素晴らしいお話を本当にありがとうございました。
やはり、出張を延期して大正解でした。まさに「勝ち馬に乗った」気分です。
今度また、一杯やりながら柔道の話を聴かせて下さい!



*よろしければ、「一条真也の新ハートフル・ブログ」もどうぞ。



2014年10月5日 佐久間庸和