終活〜今を生きる

27日の10時半から、ブログ「明日は終活講演会」で紹介したイベントが開催されました。
会場は、生涯学習総合センター(小倉北警察署隣り)3階ホールです。
いま話題の「終活」をテーマにした講演会ということで、ゴールデンウィークの最中にもかかわらず、多くの参加者が集まりました。主催は、北九州を代表する名門劇団である青春座さんです。同劇団が「エンディング・ノート」という演劇を上演することになり、そのコラボ企画として、わたしの講演会が企画されたのです。


青春座の井生代表と

冒頭で主催者挨拶をする井生代表



定員100名の会場でしたが、おかげさまで満員になりました。
冒頭に、青春座の井生定己代表の挨拶がありました。
井生代表には「『エンディング・ノート』公演に先駆けて、これ以上ない素晴らしい方が講演をして下さることになりました」と過分なご紹介をいただき、わたしのプロフィールなども紹介して下さいました。代表の挨拶に続いて、いよいよわたしが演壇に立ちました。


重いテーマを軽やかに語りました♪



わたしは、まず最初に「みなさん、おはようございます。今日は、季節遅れの桜というわけではありませんが、淡いピンクのコーディネートでまとめました。これは、どうしても重く受け取られがちなテーマですので、軽やかに語りたいと思ったからです」と言いました。
それから、「終活」という言葉についての考えを述べました。
これまでの日本では「死」について考えることはタブーでした。でも、よく言われるように「死」を直視することによって「生」も輝きます。その意味では、自らの死を積極的にプランニングし、デザインしていく「終活」が盛んになるのは良いことだと思います。



ところが、その一方で、わたしには気になることもあります。
「終活」という言葉には何か明るく前向きなイメージがありますが、わたしは「終活」ブームの背景には「迷惑」というキーワードがあるように思えてなりません。みんな、家族や隣人に迷惑をかけたくないというのです。「残された子どもに迷惑をかけたくないから、葬式は直葬でいい」「子孫に迷惑をかけたくないから、墓はつくらなくていい」「失業した。まったく収入がなく、生活費も尽きた。でも、親に迷惑をかけたくないから、たとえ孤独死しても親元には帰れない」「招待した人に迷惑をかけたくないから、結婚披露宴はやりません」「好意を抱いている人に迷惑をかけたくないから、交際を申し込むのはやめよう」・・・・・・。


「終活」は人生の卒業準備



すべては、「迷惑」をかけたくないがために、人間関係がどんどん希薄化し、社会の無縁化が進んでいるように思えてなりません。結果的に夫婦間、親子間に「ほんとうの意味での話し合い」がなく、ご本人がお亡くなりになってから、さまざまなトラブルが発生して、かえって多大な迷惑を残された家族にかけてしまうことになります。その意味で「迷惑」の背景には「面倒」という本音も潜んでいるように思います。みんな、家族や夫婦や親子で話し合ったり、相手を説得することが面倒なのかもしれません。


「家族とは迷惑をかけ合うもの」と言いました



そして、わたしは大きめの声で、次のように訴えました。
「そもそも、家族とはお互いに迷惑をかけ合うものではないでしょうか。
子どもが親の葬式をあげ、子孫が先祖の墓を守る。
当たり前ではないですか。そもそも“つながり”や“縁”というものは、互いに迷惑をかけ合い、それを許し合うものだったはずです。


パワーポイントを使って「終活」を語る



「迷惑をかけたくない」という言葉に象徴される希薄な“つながり”。
日本社会では“ひとりぼっち”で生きる人間が増え続けていることも事実です。
しかし、いま「面倒なことは、なるべく避けたい」という安易な考えを容認する風潮があることも事実です。こうした社会情勢に影響を受けた「終活」には「無縁化」が背中合わせとなる危険性があることを十分に認識すべきです。この点に関しては、わたしたち一人ひとりが日々の生活の中で自省する必要もあります」


「葬儀」の意義について説明しました



それから、人生の最期のセレモニーである「葬儀」というものの意義について話しました。
葬儀という儀式は、何のためにあるのでしょうか。遺体の処理、霊魂の処理、悲しみの処理、そして社会的な処理のために行われます。私たちはみんな社会の一員であり、1人で生きているわけではありません。その社会から消えていくのですから、そんな意味でも死の通知は必要なのです。社会の人々も告別を望み、その方法が葬儀なのです。
アカデミー外国語映画賞を受賞した「おくりびと」が話題になりましたね。
映画のヒットによって「おくりびと」という言葉が納棺師や葬儀社のスタッフを意味すると思い込んだ人が多いようです。しかし、「おくりびと」の本当の意味とは、葬儀に参加する参列者のことです。人は誰でも「おくりびと」、そして最後には「おくられびと」になります。1人でも多くの「おくりびと」を得ることが、その人の人間関係の豊かさ、つまり幸せの度合いを示すのではないでしょうか。



また、続けて、わたしは次のように発言しました。
「わたしは、日々いろんな葬儀に立ち会います。中には参列者が1人もいないという孤独な葬儀も存在します。そんな葬儀を見ると、わたしは本当に故人が気の毒で仕方がありません。亡くなられた方には家族もいたでしょうし、友人や仕事仲間もいたことでしょう。なのに、どうしてこの人は1人で旅立たなければならないのかと思うのです。もちろん死ぬとき、誰だって1人で死んでゆきます。でも、誰にも見送られずに1人で旅立つのは、あまりにも寂しいではありませんか。故人のことを誰も記憶しなかったとしたら、その人は最初からこの世に存在しなかったのと同じではないでしょうか?」



「ヒト」は生物です。「人間」は社会的存在です。「ヒト」は、他者から送られて、そして他者から記憶されて、初めて「人間」になるのではないかと思います。
人間はみな平等です。そして、死は最大の平等です。その人がこの世に存在したということを誰かが憶えておいてあげなくてはなりません。血縁が絶えた人ならば、地縁のある隣人たちが憶えておいてあげればいいと思います。わたしは、参列者のいない孤独葬などのお世話をさせていただくとき、いつも「もし誰も故人を憶えておく人がいないのなら、われわれが憶えておこうよ」と、わが社の葬祭スタッフに呼びかけます。でも、本当は同じ土地や町内で暮らして生前のあった近所の方々が故人を思い出してあげるのがよいと思います。そうすれば、故人はどんなに喜んでくれることでしょうか。わたしたちはみんな社会の一員であり、1人で生きているわけではありません。その社会から消えていくのですから、そんな意味でも死の通知は必要なのです。社会の人々も告別を望み、その方法が葬儀なのです。
わたしは、以上のような内容を心をこめて語りました。


「人生の卒業式入門」といった内容でした



わたしは、「死」を「人生の卒業」、「葬儀」を「人生の卒業式」と呼んでいます。
まず、「死」についてのわたしの考え方をお話しました。
政治、経済、法律、道徳、哲学、芸術、宗教、教育、医学、自然科学・・・・・人類が生み、育んできた偉大な営みは、なぜ生まれ、なぜ発展したのか。それは、「人間を幸福にするため」という1点に集約されます。



さらにはその人間の幸福について考え抜くと、その根底には「死」が厳然として存在するのです。その「死」を、日本では「不幸があった」と表現することが、わたしには納得がゆきません。人間は、みな必ず死にます。死なない人はいません。
「死」が不幸なら、人生は最初から負け戦なのでしょうか。
わたしは、「死」を絶対に「不幸」とは呼びたくありません。
なぜなら、そう呼んだ瞬間、わたしは将来必ず「不幸」になるからです。
死は決して不幸な出来事ではないのです。


おかげさまで満員になりました



今日はかなり会場が使用されたのですが、おかげさまで満員になりました。
だんだん熱気ムンムンになってきましたが、さらに、わたしは以下のことをお話しました。
葬儀は人類が長い時間をかけて大切に守ってきた精神文化である。いや、葬式は人類の存在基盤だと言ってもよい。昔、「覚醒剤やめますか、人間やめますか」というポスターの標語があったが、わたしは、「葬式やめますか、そして人類やめますか」と言いたい。日本人が本当に葬式をやらなくなったら、人類社会からドロップアウトしてしまう。あらゆる生命体は必ず死ぬ。もちろん人間も必ず死ぬ。親しい人や愛する人が亡くなることは悲しいことだ。でも決して不幸なことではない。残された者は、死を現実として受け止め、残された者同士で、新しい人間関係をつくっていかなければならない。葬式は故人の人となりを確認すると同時に、そのことに気がつく場になりえるのである。葬式は旅立つ側から考えれば、最高の自己実現であり、最大の自己表現の場ではないか。「葬式をしない」という選択は、その意味で自分を表現していないことになる。まったく、もったいない話だ。
つまるところ、葬儀とは人生の卒業式であり、送別会だと思う。そう述べました。


すべての儀式は卒業式



卒業式というものは、本当に深い感動を与えてくれます。 それは、人間の「たましい」に関わっている営みだからだと思います。 わたしは、この世のあらゆるセレモニーとはすべて卒業式ではないかと思っています。 七五三は乳児や幼児からの卒業式であり、成人式は子どもからの卒業式。 そう、通過儀礼の「通過」とは「卒業」のことなのですね。
結婚式というものも、やはり卒業式だと思います。
なぜ、昔から新婦の父親は結婚式で涙を流すのか。それは、結婚式とは卒業式であり、校長である父が家庭という学校から卒業する娘を愛しく思うからです。
そして、葬儀こそは「人生の卒業式」ではないでしょうか。
最期のセレモニーを卒業式ととらえる考え方が広まり、いつか「死」が不幸でなくなる日が来ることを心から願っています。



わたしは、続いて誰でもが実行できる究極の「終活」についてもお話しました。
それは、自分自身の理想の葬儀を具体的にイメージすることです。
親戚や友人のうち誰が参列してくれるのか。そのとき参列者は自分のことをどう語るのか。理想の葬儀を思い描けば、いま生きているときにすべきことが分かります。参列してほしい人とは日ごろから連絡を取り合い、付き合いのある人には感謝することです。生まれれば死ぬのが人生です。死は人生の総決算。葬儀の想像とは、死を直視して覚悟することです。覚悟してしまえば、生きている実感がわき、心も豊かになります。


自分の葬儀を想像する



自分の葬儀を具体的にイメージするとは、どういうことか?それは、その本人がこれからの人生を幸せに生きていくための魔法です。わたしは講演会などで「ぜひ、自分の葬義をイメージしてみて下さい」といつも言います。友人や会社の上司や同僚が弔辞を読む場面を想像することを提案するのです。そして、「その弔辞の内容を具体的に想像して下さい。そこには、あなたがどのように世のため人のために生きてきたかが克明に述べられているはずです」と言いました。葬儀に参列してくれる人々の顔ぶれも想像するといいでしょう。そして、みんなが「惜しい人を亡くした」と心から悲しんでくれて、配偶者からは「最高の連れ合いだった。あの世でも夫婦になりたい」といわれ、子どもたちからは「心から尊敬していました」といわれる。自分の葬儀の場面というのは、「このような人生を歩みたい」というイメージを凝縮して視覚化したものなのです。そのイメージを現実のものにするには、あなたは残りの人生を、そのイメージ通りに生きざるをえないのです。これは、まさに「死」から「生」へのフィードバックではないでしょうか。よく言われる「死を見つめてこそ生が輝く」とは、そういうことだと思います。人生最期のセレモニーである「お葬式」を考えることは、その人の人生のフィナーレの幕引きをどうするのか、という本当に大切な問題です。
自分の葬儀を考えることで、人は死を考え、生の大切さを思うのです。


自分史&エンディングノート



さらに、「さまざまな送られ方」として、新時代の葬儀についても話しました。
日本の葬儀は、実にその9割以上を仏式葬儀によって占められています。
ところが最近になって、仏式葬儀を旧態依然の形式ととらえ、もっと自由な発想で故人を送りたいという人々が増えています。今のところは従来の告別式が改革の対象になって、「お別れ会」などが定着しつつあります。やがて、通夜や葬儀式にも目が向けられ、故人の「自己表現」や「自己実現」が図られていくに違いありません。


「海洋葬」についても話しました



新しい葬儀のスタイルとしては、まず自然葬を思い浮かべる人が多いでしょう。
これは、火葬後の遺灰を海や山にまくという散骨のことです。
海に遺灰をまく方法は、一般に「海洋葬」と呼ばれています。
ブログ「海洋葬」で紹介したように、4月5日に、サンレー主催による「第1回 沖縄海洋散骨」が沖縄本島の海で行われました。



また、「死んだら木になって森をつくろう」という「樹木葬」も最近よく耳にします。
サンレーでは、今年の秋に「鎮魂の森プロジェクト」を実現する予定です。
わが社では「人間尊重」のミッションを掲げ、冠婚葬祭を通じて、良い人間関係づくりのお手伝いを続けてまいりましたが、高齢社会を迎え、いま「住まい」への不安が深刻になっています。「衣食足りて礼節を知る」という言葉もありますが、「人は老いるほど豊かになる」という理念を実現するためにも、「住まい」への新たな提案が求められています。
わが社では、ご高齢の皆様に安心して余生をお過ごしいただくため、「隣人館」をすでに運営していますが、この「終の棲家」は、いわば仮の宿です。桜は咲き誇り、やがて散っていく。人の営みも美しき花のようにありたい。その想いを託し、「永遠の棲家」として構想されたのが、この「鎮魂の森」なのです。



「身寄りがなくて、死んでも入る墓がない」と嘆いておられる方々がいます。
もともと、「無縁社会」という言葉は「無縁仏」に由来します。このままでは、日本は無縁仏だらけになってしまうと言われています。いや、無縁仏でさえ入る墓があるわけですが、それすらない「死後のホームレス」が大量発生する可能性があるのです。万人が平等に安眠できるように、「鎮魂の森」では、なんと5万円からの価格設定を考えている次第です。
「人生の卒業式」ともいえる葬儀を終え、体は緑豊かな地球に戻り、魂は天空に浮かぶ美しい月に還っていく・・・・・。自然に抱かれるエコロジカルな「樹木葬」と“魂のエコロジー”を実現する「月への送魂」が織りなす慈しみに満ちた「鎮魂の森」は、必ずや多くの方々に永遠の安らぎをもたらすことでしょう。さまざまな葬儀スタイルを紹介した後で、わが社が構想している「月面葬」についてもプレゼンさせていただきました。


わが社の2人の女優と

青春座のみなさんと一緒に



みなさん、たいへん興味深い様子で聴いて下さいました。最後に、わたしは「みなさんも、ご自分の『送られ方』を考えて下さい。そして、終活によって、人生のグランドフィナーレを見事に飾られて下さい。終活を考えるのは、いつですか。考えるのは、今でしょ!」と大きな声で締めくくりました。すると、盛大な拍手を頂戴し、感激しました。
講演後は、わが社の社員でもある二大女優とのスリーショット、そして青春座のみなさんと一緒に記念撮影をしました。今日は、わたしにとっても良い思い出となりました。青春座の「エンディングノート」を鑑賞する日が今から楽しみでなりません!



*よろしければ、「一条真也の新ハートフル・ブログ」もどうぞ。



2014年4月27日 佐久間庸和