洞海湾クルーズ

7日の北九州は昼間でも気温が2、3度で非常に寒かったです。
夕方、わたしは若戸大橋の下にある若松渡場に向かいました。
西日本新聞北九州本社主催の「洞海湾クルーズ」に参加するためです。
サンレー企画部の石田恭一部長も一緒でした。


そぼふる雨の若松渡場前で

潮風が凍るように冷たかったです



最初わたしは「なぜ、こんな真冬にクルーズをやるのだろう」と不思議に思いました。
それから、「きっと、寒くて参加者が少ないのではないか」と考えました。でも、最近、「工場萌え」ということで北九州工業地帯の工場群を眺めながら周航する「洞海湾クルーズ」が話題になっています。わたしは公益社団法人・北九州観光協会の理事でもありますので、「話題のクルーズを一度は体験しないと・・・」と思って参加することにしたのです。


二村会長・松本幹事と

畠中聡之さんと



若松渡場に到着すると、西日本新聞北九州本社の玉井行人代表や諸隈光俊副代表らが背中に「歩く新聞」という同紙のスローガン入りの青いジャンパー姿で迎えて下さいました。
奥に進むと、そこにはすでに大勢の人が集まっており、しかもわたしの知り合いだらけだったので仰天しました。まず、小倉ロータリークラブの二村吉則会長と松本篤幹事をはじめ、昼間会ったばかりのロータリーの方々に次々にお会いしました。
ブログ「最期の絆シンポジウム」で紹介した西日本新聞社主催のシンポで共演した瑞松寺の末広石光住職もおられました。末広住職はコートも何も着ておられなかったので「寒くないですか?」とわたしが言うと、「寒くない。あなたは修業が足らんのじゃないですか」と一喝されました。これは失礼いたしました。さすがは永平寺で修業をされた方ですね。
以前わが社の役員をされていた畠中聡之さん(八幡ぎょうざ協議会会長)にも会いました。


若松渡場に船が到着しました

デッキは寒かったです



渡場に船が着いて、17時15分に出航しました。
クルーズの無事を願い、末広住職とともに合掌させていただきました。
わたしは「なんだか、あの世への船出みたいだな」と少しだけ思いました。
実際、「禮鐘の儀」によって送られるときは、こんな感じなのかもしれませんね。
船内は暖房も効いていて暖かかったですが、やはりデッキに出ると寒かったです。


クルーズを楽しみました

対岸の工場のようす

北九州市工業都市」と感じました



寒いのは寒かったですが、デッキから眺める光景はなかなか新鮮でした。
若松市街地に始まり、煉瓦造橋梁、東海カーボン、若松競艇場、東京製鐵が右手に見えました。左手には日本水産、牧山鉄道岸壁(煉瓦造)、葛島新日鉄住金八幡製鉄所、東邦チタニウム三菱化学三菱マテリアルの工場が見えました。立ち並ぶ工場群を見ていると、「ああ、北九州市工業都市なのだなあ・・・」としみじみと感じました。



船内でも、いろんな方々にお会いしました。
西日本新聞北九州本社アドバイザーでコピーライターの石丸美奈子さん、NHK北九州放送局の村益健太局長、北九州文化連盟の井生定巳会長にもお会いしました。
井生会長は、北九州を代表する名門劇団である「青春座」の代表でもあります。
その青春座さんですが、今年は「エンディングノート」というお芝居を上演されます。わが社は全面的に協力させていただく予定で、舞台の前にはわたしの講演会も開催されます。
そして、西日本新聞社の川崎隆生社長ともお話させていただきました。


次第に日が暮れてきました

夜景がいいムードです



洞海湾クルーズは約1時間でした。
次第に日が暮れて、対岸にも灯が灯り始め、いいムードになってきました。
「これなら、デートスポットとしてもいけるじゃないか」と思いましたね。
最後に見上げた若戸大橋がライトアップされていて美しかったです。


ライトアップされた若戸大橋



ブログ「作文コンクール審査会」に書いたように、昨年わたしは北九州商工会議所創立50周年記念「思い出作文コンクール」の審査委員長を務めました。
審査会では、会頭賞の選定をめぐって5人の意見が完全に分かれました。
そこで激論が交わされましたが、結局わたしが選んだ作品に決定しました。
1962年に開通した若戸大橋のエピソードです。
完成したばかりの若戸大橋を祖父とともに手をつないで渡る2歳の女の子。女の子はまだよちよち歩きで、祖父は「東洋一の赤いつり橋」を見るために遠い山奥から出てきたのでした。カメラ嫌いな老人と愛想なしの女の子はむっつりした表情で写真に収まりましたが、白黒写真のため橋の色は赤くありませんでした。その1枚が最初で最後のツーショットでしたが、老人は気むずかしい顔でニコリともしない孫娘のことを「フルシチョフに似ちょる」と言ったそうです。わたしは、この「フルシチョフに似ちょる」にシビレました。
そう、50年前は米ソ冷戦時代の最中で、ケネディフルシチョフの時代だったのです。
1963年の3月10日に北九州市が誕生し、5月10日にわたしが生まれ、11月20日のダラスの暑い日にケネディ大統領が暗殺されたのです。
超大国同士による核兵器を使用した第三次世界大戦が起こるかもしれない・・・・・そんな大きな不安が世界を覆っていた時代に、世界で初めて五市が対等合併して「北九州市」が誕生したのです。その意味で、北九州市は平和のシンボルなのです。
フルシチョフに似ちょる」で、視点が若戸大橋から地球全体へと広がり、ローカルな話題は一気にグローバルになりました。本当に、素晴らしい作文だと思いました。



50年前、世界初の5市合併をはじめ、東洋一の若戸大橋などが日本中の大きな話題でした。八幡製鉄所はフル稼働し、人口も増加する一方でした。
当時の北九州市に住んでいた人々は、みな誇りに満ちていました。
玉井代表に「若戸大橋が開通した頃が北九州の全盛期でしたね」と申し上げると、玉井代表は「そうですねぇ・・・」と遠くを見るような目で答えてくれました。


昔、ヴィヴィアン・リー主演の「愚か者の船(Ship of Fools)」という映画を観ました。
そのイメージで、わたしは最初、「こんな真冬のクルーズに参加する人たちは変わり者ばかりではないか。この船は、愚か者の船では?」と思ったりもしましたが、実際は大違い!
北九州の文化を担う方々がたくさん乗船されており、短い時間ではありましたが、わたしはそれらの方々と地域論、文学論、演劇論、人生論などを熱く交すことができました。
そう、真冬のクルーズ船は「愚か者の船」ではなく「賢者の船」だったのです!



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2014年2月8日 佐久間庸和