老いと介護

今日は、午後からサンレー本社で取材を受けました。
西日本新聞が主宰する「路地裏オトナ塾」の会報誌の取材です。
全4回のインタビューで、第4回目の今回は「老いと介護」について語りました。


今日の取材のようす



まず最初に、わたしは「人は老いるほど豊かになる」という持論を述べました。
これまで「老い」は否定的にとらえられがちでした。仏教では、生まれること、老いること、病むこと、そして死ぬこと、すなわち「生老病死」を人間にとっての苦悩とみなしています。
現在では、生まれることが苦悩とは考えられなくなってきたにせよ、依然として老病死の苦悩が残ります。しかし、私たちが一個の生物である以上、老病死は避けることのできない現実。



それならば、いっそ老病死を苦悩ととらえない方が精神衛生上もよいし、前向きに幸福な人生が歩めるのではないでしょうか。苦悩や不幸はすべて人間の心が生みだすものです。
ですから、これからは「人は老いるほど豊かになる」という魔法の呪文をいつも心の中で唱えるといいです。すると、必ずそうなります。


老福論』の内容に沿って、お話しました



工業社会の名残りで、現代の日本は「老い」を嫌う「嫌老社会」です。
でも、かつての古代エジプトや古代中国や江戸などは「老い」を好む「好老社会」でした。
前代未聞の超高齢社会を迎えるわたしたちに今、もっとも必要なのは「老い」に価値を置く好老社会の思想であることは言うまでもありません。
そして、それは具体的な政策として実現されなければなりません。


「天国への道」を訴えました



世界に先駆けて超高齢化社会に突入する現代の日本こそ、世界のどこよりも好老社会であることが求められます。日本が嫌老社会で老人を嫌っていたら、何千万人もいる高齢者がそのまま不幸な人々になってしまい、日本はそのまま世界一不幸な国になります。逆に好老社会になれば、世界一幸福な国になれる。まさに「天国か地獄か」であり、わたしたちは「天国への道」、すなわち人間が老いるほど幸福になるという思想を待たなければなりません。



日本の神道は、「老い」というものを神に近づく状態としてとらえています。神への最短距離にいる人間のことを「翁」と呼びます。また七歳以下の子どもは「童」と呼ばれ、神の子とされます。つまり、人生の両端にたる高齢者と子どもが神に近く、それゆえに神に近づく「老い」は価値を持っているのです。だから、高齢者はいつでも尊敬される存在であると言えます。アイヌの人々は、高齢者の言うことがだんだんとわかりにくくなっても、老人ぼけとか痴呆症などとは決して言いません。高齢者が神の世界に近づいていくので、「神用語」を話すようになり、そのために一般の人間にはわからなくなるのだと考えるそうです。
これほど、「老い」をめでたい祝いととらえるポジティブな考え方があるでしょうか。
人は老いるほど神に近づいていく、つまり幸福になれるのです。


わが社の「隣人館」について説明しました



わが社は、昨年から高齢者介護事業に進出しました。
最初の施設となる有料老人ホーム「隣人館」を福岡県飯塚市伊川にオープンしました。
現在、日本の高齢者住宅は、さまざまな問題を抱えています。
民間施設の場合、大規模で豪華なものが多いですね。
数千万円単位の高額な一時金など、金銭的余裕のある人しか入居できていません。
また、公的施設の場合、比較的安価で金銭的余裕のない人でも入居はできます。
しかし、待機者が多くて入居するまでに相当な年数がかかるなどの問題があります。
さらに、高齢者はそれまで暮していた愛着のある地域を離れたがらない傾向があり、地域に根ざした施設が必要とされているのです。



わが社の隣人館の月額基本料金は、なんと、78000円となっています。
その内訳は、家賃:33000円、管理費:5000円、食費:40000円です。
まさに究極の地域密着型小規模ローコストによる高齢者専用賃貸住宅なのです。
飯塚市の次は、北九州市八幡西区折尾に2号店を計画しています。当初は自社遊休地へ建設しますが、将来的には全国展開を図ります。
また、食事の調理が困難な、1人暮らし、あるいは夫婦のみの高齢者世帯などへの「宅配給食事業」へ来年の夏からの参入します。その際は、塩分を控えた高血圧食、糖分を控えた糖尿病食など、健康を意識したメニューの開発もめざします。



わたしは、この事業は「人は老いるほど豊かになる」という長年を考えを実現するものであり、人間尊重を実行するという意味で「天下布礼」の一環であることをお話しました。
大事なポイントは「孤独死をしない」ということです。隣人祭りをはじめとした多種多様なノウハウを駆使して、孤独死を徹底的に防止するシステムを構築することが必要です。
「隣人館にさえ入居すれば、仲間もできて、孤独死しなくて済む」を常識にしたいです。
全国の独居老人にも、どんどん隣人館に入居していただきたいと真剣に願っています。
いよいよ、長年あたためてきた「理念」を「現実」に移す時が来ました。
わたしは、この世から孤独死を完全になくしたい!


自分の葬儀を具体的に想像する



それから、高齢者が幸せな老後を送る究極の方法を話しました。
それは、なんと、自分の葬儀を具体的に想像することです。
親戚や友人のうち誰が参列してくれるのか。そのとき参列者は自分のことをどう語るのか。理想の葬儀を思い描けば、いま生きているときにすべきことが分かります。参列してほしい人とは日ごろから連絡を取り合い、付き合いのある人には感謝することです。生まれれば死ぬのが人生です。死は人生の総決算。葬儀の想像とは、死を直視して覚悟することです。覚悟してしまえば、生きている実感がわき、心も豊かになります。



自分の葬儀を具体的にイメージするとは、どういうことか?
それは、その本人がこれからの人生を幸せに生きていくための魔法です。
わたしは講演会などで「ぜひ、自分の葬義をイメージしてみて下さい」といつも言います。
友人や会社の上司や同僚が弔辞を読む場面を想像することを提案するのです。
そして、「その弔辞の内容を具体的に想像して下さい。そこには、あなたがどのように世のため人のために生きてきたかが克明に述べられているはずです」と言います。


なごやかな雰囲気で取材が進められました



葬儀に参列してくれる人々の顔ぶれも想像するといいでしょう。そして、みんなが「惜しい人を亡くした」と心から悲しんでくれて、配偶者からは「最高の連れ合いだった。あの世でも夫婦になりたい」といわれ、子どもたちからは「心から尊敬していました」といわれる。
自分の葬儀の場面というのは、「このような人生を歩みたい」というイメージを凝縮して視覚化したものなのです。そのイメージを現実のものにするには、あなたは残りの人生を、そのイメージ通りに生きざるをえないのです。これは、まさに「死」から「生」へのフィードバックではないでしょうか。よく言われる「死を見つめてこそ生が輝く」とは、そういうことだと思います。
人生最期のセレモニーである「お葬式」を考えることは、その人の人生のフィナーレの幕引きをどうするのか、という本当に大切な問題です。
自分の葬儀を考えることで、人は死を考え、生の大切さを思うのです。


最後に写真撮影しました



今日の取材は、初めてお会いしたライターの加藤美砂さんが非常に聞き上手な方だったこともあり、終始なごやかなムードで進められていきました。わたしも思う存分、「老い」についての考えと「超高齢社会」のビジョンを語ることができました。
わたしは、豊かな「老い」について、かつて『老福論〜人は老いるほど豊かになる』で詳しく述べています。今回は、この、『老福論』を読者の皆様にプレゼントしたいと考えています。
なお「路地裏オトナ塾」の次号は、1月末日に刊行予定です。


老福論―人は老いるほど豊かになる

老福論―人は老いるほど豊かになる

*よろしければ、「一条真也の新ハートフル・ブログ」もどうぞ。



2013年12月10日 佐久間庸和