宮沢賢治(4)

わたくしといふ現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です




言葉は、人生をも変えうる力を持っています。
今回の名言は、日本の童話作家で詩人の宮沢賢治の言葉です。賢治の生前に出版されたのは童話集『注文の多い料理店』と詩集『春と修羅』の2冊だけです。



しかし、賢治は『春と修羅』を「詩集」ではなく「心象スケッチ」と呼びました。
出版社が間違って印刷した「詩集」の文字を自らの手でブロンズ粉で消してまで、賢治はあくまでそれが「心象スケッチ」であることに固執しました。
それは賢治の謙遜や照れであると従来とらえられてきましたが、じつは本当に「心象スケッチ」ではなかったのでしょうか。想像力を駆使して詩作を行なうことと、心で見る光景をそのまま記録することとは明らかに違います。賢治は日常的にさまざまな神秘を目にし、それをスケッチしていただけなのかもしれません。



実際、『春と修羅』の「序」には、「ただたしかに記録されたこれらのけしきは/記録されたそのとほりのこのけしきで」と告白されています。これまでの賢治研究者の多くは、この言葉をそのまま受け取りませんでした。そのために、大きな思い違いをしていた可能性があるのです。つまり、宮沢賢治とは、文学者というよりも異界を見ることのできた幻視者であった。そのことを抜きにして、賢治の本当のメッセージを理解することは絶対にできません。『春と修羅』の「序」には、次の有名なくだりが出てきます。 



わたくしといふ現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い証明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんなといっしょに
せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈の 
ひとつの青い証明です 
(ひかりはたもち その電燈は失はれ)
(『春と修羅』「序」より)



これらの謎に満ちた言葉は、あまりにも難解だとされてきました。
しかし、賢治が霊能力者であったことを頭に置いて読むならば、目から鱗が落ちるかのように、その意味が立ち上がってきます。
神秘学の世界において、人間の本質とは複合体であるとされます。すなわち、肉体とエーテル体とアストラル体と自我とから成り立っている存在が人間なのです。これは、ルドルフ・シュタイナーが講演の度に毎回繰り返していい続けたことでもありました。それほど人間にとって重要な事実であり、神秘学の基本中の基本だからです。
つまり、人間とはまさに「透明な幽霊の複合体」なのです!



そして自我とは、「幽霊の複合体」でありながらも、統一原理として厳然と灯る主体に他なりません。一種の宗教的天才であった賢治は、このことを自分の体験によって実感していたのではないでしょうか。複合体の1つである「アストラル体」とは「幽体」とも呼ばれます。
臨死体験などでの「幽体離脱」を「アストラル・トリップ」ともいいます。そして、どうやら賢治は人生のさまざまな場面でアストラル・トリップを繰り返していたのかもしれませんね。
なお、今回の宮沢賢治の名言は『涙は世界で一番小さな海』(三五館)にも登場します。

涙は世界で一番小さな海―「幸福」と「死」を考える、大人の童話の読み方

涙は世界で一番小さな海―「幸福」と「死」を考える、大人の童話の読み方

*よろしければ、「一条真也の新ハートフル・ブログ」もどうぞ。



2013年11月26日 佐久間庸和